原稿中のコーヒーゼリー
先輩は、うちの店の常連客だった。
私の両親が経営している小さな喫茶店だった。土日や放課後は、店を手伝っていた。
時給は出ないが、お小遣いが上乗せされる。
それに学校でイケメンだと有名な先輩を側で見られるのは、ラッキーではないか。
「池田先輩、コーヒーゼリーとブラックコーヒーおまたせしました」
先輩の席に注文されたものを持っていった。
「先輩、いつもパソコンで何してるんですか? うちの親も気になって噂していますね」
他に客がいない事をいい事に、先輩に話しかけた。
側で見る先輩は、確かにイケメンだった。メガネが似合う横顔で、クールだ。
「俺はファンタジー小説の大作を書いているんだ」
「そうなんだ」
「原稿が完成したら、文芸誌に応募するんだ。作家になるのが夢なんだ」
先輩と小説執筆は、何だかよく似合っていた。まさに文学青年という感じだ。芥川龍之介とか太宰治にも似てる。
「原稿が完成したら、お祝いにうちのパフェ奢ってあげますよ。特大パフェ!」
「それはいいな」
それは金魚鉢にはいっている特大のパフェだった。常連の先輩に何かお礼をしたくなった。コロナ下でもいつも来てくれたし。
しかし、来る日も来る日も先輩の原稿は完成しなかった。未完成のまま、また新作を書くという事を繰り返していた。
ネット用語的に言えばエタっているわけだ。
永遠に完成しない原稿はeternal。そこからエタるという動詞がネットで生まれていたらしい。
「先輩、いつになったら原稿は完成するんですか?」
私は、注文されたコーヒーゼリーとブラックコーヒーを先輩のテーブルに持って行った。
「うーん、原稿が何か気に食わなくてね」
「完璧主義すぎません? 永遠に完成しない傑作よりも、駄作でも完成した方が良くないですか? 私はとにかく先輩の原稿を読みたいです」
先輩は返事をせず、コーヒーゼリーをスプーンですくって食べていた。コーヒーゼリーの上には、白いコーヒーフレッシュがかけられていた。
このゼリーには、あの安っぽいコーヒーフレッシュがよく似合う。少々パサっとした食感のゼリーと、コーヒーフレッシュの油っぽさが意外とマッチする。チープで軽い口当たりのスイーツだ。
「完成お祝いのパフェ、いつまでも食べられませんよ」
「いいんだよ。このコーヒーゼリーは夢みたいに美味しいからな」
別にこだわりの豆を使っているわけでもないし、毎日作り置きしている。値段も安いメニューなのだが。
「知ってるか? 海外ではコーヒーゼリーは、あんまりメジャーじゃないそうだよ」
「え? そうなんですか?」
「うん。コーヒーゼリーは、大正時代に日本人が開発したらしいね。日本独自なスイーツだと思うね」
関係ない事を話す先輩の手は止まっていた。ノートパソコンの画面はいつの間にかスリープになっている。
今回の原稿もおそらく完成しないだろうと思った。
「まあ、コーヒーゼリーは美味しいですね?」
なぜか疑問系になってしまったが、先輩は深く頷いていた。
「いつか、完璧に美しい原稿を書くよ」
そう先輩は言っていたが、私は一度も完成した原稿を見せてもらった事はなく、彼はいつもコーヒーゼリーを注文していた。
結局、あのパフェを先輩に奢る事は一度もなかった。
それでも先輩は楽しそうだった。
文芸誌の賞をとり、作家活動はできる者はとても少ないと聞く。
夢は夢のままにして置いた方が良いものもあるのかもしれない。
つるりとした表面のコーヒーゼリーを眺めながら、これも悪くは無いだろうと思った。
コーヒーフレッシュをかけて、チープな味を楽しみたくなってしまった。
きっと夢みたいに美味しいはずだ。