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黒犬幻譚

二階の吸血鬼

作者: ginsui

 

 バスを降りると、ほの白い花びらが風に舞って目の前をよぎった。

 立ち止まって坂の上の公園を見やると、今はソメイヨシノの真っ盛りだ。穏やかに暖かい陽射しの中、遊歩道沿いの木々は溢れんばかりの花をつけている。今年も四月を待たずに散り終えてしまうのだろう。八重桜はまだいくらか楽しめそうだけれど。

 そんなことを考えながら、おばあちゃんの家へと向かった。

 私の住む地方都市から、電車とバスを乗り継いで一時間ほどの郊外におばあちゃんの家はある。

 坂道を登りきった公園の近く、なだらかな丘に広がる古い住宅地の一戸建てだ。

 春には公園の桜で毎日お花見ができるからと、おじいちゃんが即決した家だと言うが、バス停からの距離は結構あり、なにしろ坂道が続いている。歳をとってからのことを考えず、この家を選んだのは、おじいちゃんの失敗だと思う。

 六年前におじいちゃんが亡くなり、以来おばあちゃんはずっと一人で暮らしてきた。友達と温泉に行ったり、街の体操教室に通ったり、車の免許こそないものの、なかなか元気で行動的な老人だったのだが──。

 足腰がめっきり弱くなったのは、八十を過ぎた去年あたりからだろうか。人づきあいも減り、家に籠もりがちになったと聞く。

 一人息子の父は単身赴任で、まとまった休みにしか帰れない。母はおばあちゃんが苦手のようで、仕事にかこつけて腰が重い。大学生の兄はアルバイトや何やらで忙しい。

 そこで白羽の矢が立ったのがこの私だ。高校二年になる春休み。部活には入らず、塾通いもしていない。一番の暇人ということで、時々おばあちゃんの様子を見に来ることになった。きっとお小遣いくれるわよ、おばあちゃん、とちゃっかり者の母がそそのかす。

 おばあちゃんの家は切り妻屋根の二階建てだ。屋根は濃い緑色、クリーム色の外壁は歳月にいくらかくすんでいる。

 前にここを訪ねたのはいつだったろう。受験を理由に去年は一度も来ていない。今年の正月も。

 一時間かそこらの距離だと、いつでも会えるという安心感からか、かえって遠ざかってしまうものだ。

 門扉を開けると、勝手口近くに植えられたローズマリーが、大きく枝を伸ばして繁っていた。あとは、乾いた土だけのプランターがいくつか。

 以前は綺麗に整えられていた庭も、今は雑草だか宿根草だかわからない小さな花がところどころ咲いているばかり。桜の花びらが、隅っこで吹きだまりをつくっていた。おばあちゃんは庭の手入れもおぼつかなくなっているらしい。

 それでも私を迎えてくれたおばあちゃんの顔は血色よく、元気そうだった。

「あらあら、よく来てくれたわねえ、沙織ちゃん」

 小柄でおかっぱの白髪頭。細身のパンツに明るい色のスエットを来たおばあちゃんは、昔から歳より若く見える可愛らしい人だった。私をリビングに通すと、いそいそと紅茶を入れてくれた。電話で連絡していたから、ケーキまで用意してあった。

「私がやるよ、おばあちゃん」

「だいじょうぶ。平らな所なら普通に歩けるのよ」

 台所とリビングをゆっくりと往復しながらおばあちゃんは言った。

「ほら、公園の脇にコンビニあるでしょ。散歩にはちょうどいい距離でね。大抵のものは買えるから便利なのよ。このスイーツだって美味しそう」

 私は笑ってケーキ皿を受け取った。買い物には不自由していないようだ。一人暮らしに近くのコンビニはありがたい。

「どこも痛いところはないの? おばあちゃん」

「まあねえ」

 私と向き合ってチーズケーキをつつきながら、おばあちゃんは顔をしかめた。

「膝が思うように動かないの。しゃがめないし、階段も上れなくなっちゃった」

「病院には?」

「最初は行ったわよ。でも、加齢です、の一言」

 おばあちゃんは、いたずらっぽく肩をすくめた。

「まあ、そうでしょうよ。しかたがないわ」

「じゃあ、二階に行くのも辛いよね」

「そうね、しばらく上がってない」

「何か取ってくるもの、ある? ついでに掃除もして行くよ」

「掃除はいいわ。あの子たちにまかせてるから」

「あの子たち?」

 私はきょとんとした。

「誰か来るの?」

「二階に住んでいるのよ」

「どこの誰が?」

 私は、驚いて紅茶をこぼしそうになった。そんなことは聞いていない。両親だって、もちろん知らない。

「それがね」

 おばあちゃんは、身を乗り出した。

「なんだか人の気配がしたのよね。一月くらい前かしら」

 かすかな物音が聞こえはじめたのだという。

 隙間風のせいかと思ったが、二階の窓はぴったりと閉め切ったままだ。今までそんな音はしなかった。

 鼠? ハクビシン? でも耳を澄ますと、それはむしろ人の足音のようだ。足音どころか、低い話し声のようなものまで聞こえるようになった。

 誰かが二階にいる。

 おばあちゃんは確信した。

 確かめなくては。

 他の人に相談することなど、考えもしなかった。危険と思うことより、気味の悪さより、怒りの方が強かった。

 ここは、おとうさんが残してくれた私の家だ。

 おばあちゃんは、意を決して階段に向かった。

 しかし、心と身体はうらはらだ。おばあちゃんは踊り場までも行き着くこともできなかった。膝の痛みに、声を上げて蹲った。

 階段の途中で動くこともできず、突っ伏して痛みに耐えていたその時、

「だいじょうぶですか? おばあさん」

 優しい声が聞こえた。

 はっとして顔を上げると、一人の少年が踊り場のところからこちらをのぞき込んでいた。

「誰よ、あなた」

 痛みも忘れて、おばあちゃんは少年を見つめた。

 睫の長さが、色白の美しい顔に際立っていた。黒々とした大きな目、細い鼻筋。まっすぐな黒髪が、さらさらと肩にかかっている。

「ごめんなさい。お二階をちょっと借りています」

「ちょっとって…」

 もう一人の少年が現れて、おばあちゃんの所に下りてきた。こちらは短髪だが、最初の少年とよく似た顔だち。

「戻りましょうか。兄弟、手を貸して」

「了解」

 二人の少年はおばあちゃんを抱えるようにして階段を下り、リビングの倚子に座らせた。

「なんなのよ、あなたたち」

 やっとの事でおばあちゃんは言った。

 二人はにこりと笑い、声をそろえて言った。

「吸血鬼です」


「吸血鬼?」

 私は何が何だかわからなくなって祖母を見つめた。

 からかわれているのだろうか。

 そういえば、おばあちゃんはこの手の話が好きらしい。以前見たおばあちゃんの本棚には吸血鬼やらドッペルゲンガーやら幽霊の本がたくさん並んでいた。綺麗な吸血鬼の少年が出てくる漫画も置いていなかったっけ?

「いやだ、おばあちゃん。脅かさないで」

「あら、ほんとよ」

 おばあちゃんはすまして紅茶をすすっている。

「時々、階段を下りて来るわ。頼めば必要なものも取ってきてくれるのよ」

「おかしいよ、おばあちゃん」

 私はようやく言った。

「ほんとに、ほんとに二階に誰かいるの?」

「吸血鬼がね」

「だから──」

 私は倚子から立ち上がった。

「なにか、無くなったものはない?」

「ないわよ」

 おばあちゃんは不満そうに頬を膨らませた。

「そんなことする子たちじゃないわ」

 私はめぐるましく考えた。吸血鬼なんて信じられるわけはない。誰かがおばあちゃんを騙して二階についているのだろうか。

 男の子が二人。相当の不良だ。

 両親に伝えなくては。その前に警察かな。

 でも。

 私は、はたと思いとどまった。

 本当に?

 おばあちゃんの妄想ということもありえる。

 ひとり暮らしの老人は幻覚や幻聴にみまわれやすいって、いつかテレビで言ってなかったっけ?

 私は言った。

「いまもいるかしら」

「わからない。ベランダから出入りしているの。静かだからいないかもね」

「行ってみて、いい?」

「いいわよ。会っても怖いことはしないはずよ。家で暮らすかわりに、私の血筋には手を出さないって約束しているの」

 おばあちゃんは天井を見上げ、微笑んだ。

「お友達になれるといいわね」

 私は、おそるおそる階段を上った。

 上りきるとベランダに抜ける短い廊下。右側には父の部屋だった一室、左側にはもう一室と納戸が並んでいる。

 古い家なので、部屋の戸はみんな襖で畳敷きだ。風通しを良くするために襖は開け放ったままだった。窓のカーテンは閉ざされて薄暗かったけれど、廊下に立つと一通り二階を見まわすことができる。

 人の気配はない。

 そっと父の部屋に入り、カーテンを開けた。射し込む光とともに埃が舞い上がった。

 室内は、父が使っていたころのままだ。机の側の本箱には学生時代の本が並び、ベッドの半分に蒲団がきちんと積み上げられている。ベッドの枠や机は、うっすらと積もった埃で白っぽくなっていた。

 がらんとしたもう一つの部屋も、祖父の書斎を兼ねていた納戸も同じこと。人がいた形跡など、どこにもない。

 内側からしっかり鍵が掛けられた掃き出し窓を開けて、ベランダに出た。

 公園の桜がよく見えた。ここまでも舞い上がってきた花びらが、ベランダに薄く積もっていた。

 ベランダから出入りしている? 

 庭の上に張り出したそこには足がかりになるような場所はなく、飛び降りたら、怪我をしてしまいそうな高さがある。だいたい、内側からかかった鍵をどうやって開けるというのか。

 私は廊下に戻ってほうとため息をついた。

 二階の吸血鬼は、おばあちゃんの寂しさが生み出した幻妄なのだろうか。

  父に相談しようか。

 しかし、それで病院などを連れ回されるのは可哀想な気がした。他におかしなところはないのだから。

 もう少し様子をみていようと私は思った。

  

           *


「むかぁしね」

 うっとりと目を閉じておばあちゃんは言う。

「すてきな吸血鬼の出てくるお話を読んだのよ。それからは、どうしても吸血鬼に会いたくてね。自分の部屋の窓を開けて寝たものだわ。まさか、こんな歳になってから来てくれるとはね」

 おばあちゃんのは、とても幸せそうだ。

 春休みが終わっても、私はちょくちょくおばあちゃんの家に行った。

 おばあちゃんは喜々として二階の吸血鬼のことを話してくれる。

「見かけはあなたぐらいね。でも、吸血鬼は歳をとらないでしょ。ほんとは何歳なのかわからない」

「ふうん」

「私のことを、沙代子さんって呼ぶの。そんな言い方されるの、ほんと久々。外では名字だし、家ではかあさんとか、おばあちゃん、だもの」

「そうね、確かに」

「お互いのことを兄弟って呼び合っているから、どっちがお兄さんか訊いてみたのよ。顔を見合わせて首を振るの。自分たちもわからないみたい」

 私も、ついついつき合ってしまう。

「名前は訊いた?」

「髪の長い方が空で短い方が海ですって。嘘よね。本当はもっときらきらしい名前に決まってるわ。なんとか・フォン・なんとかとか」

「日本人なんでしょ」

「吸血鬼なんだから国籍はないわ。バタくさい顔をしてるのよ」

 私がいる間、二階は静かなままだ。

 帰るまぎわ、私は二階に行ってみる。薄暗く、ちょっと饐えた匂いがこもる部屋部屋は、あいかわらず人の気配など感じられなかった。

 でも、おばあちゃんが寂しくないならそれでいい。

 私は思った。

 今のおばあちゃんは、この状態を充分楽しんでいるのだ。


 青葉が美しいころになった。

 私はいつものようにおばあちゃんの家に行った。

 いつものようににこにこと私を迎えてくれたおばあちゃんは、左手首に包帯をしていた。

「どうしたの? おばあちゃん」

「これね」

 おばあちゃんは包帯を見て顔をしかめた。

「ひどい目にあったのよ、昨日。まだちょっと身体が痛いわ」

昨日の夕方、宅配便の業者がやってきた。どこからの荷物か不思議に思ったものの、おばあちゃんはつい玄関を開けてしまったのだという。

 入ってきたのは、業者の姿をした不穏な男だ。あっという間におばあちゃんの手首を掴み、廊下に押し倒して口をふさいだ。

男はおばあちゃんの口にガムテープを貼り、手足をぐるぐる巻きにした。その場におばあちゃんを転がしたまま、リビングや仏間に入って金目のものを探し、さらにのしのしと階段を上がって行った。

 二階の廊下を歩く男の足音がした。

 ずしん。

 重い音が天井を揺らした。

 二階はそのまま静まりかえった。

 おばあちゃんは身を強ばらせた。ほどなく、階段を下りる軽やかな足音とともに、髪の長い方の空が姿を見せた。

「大丈夫? 沙代子さん」

「あの人は?」

 空が口のガムテープをはがしてくれるなり、おばあちゃんは訊ねた。

「始末したよ。もう安心」

 海も下りてきて、二人でおばあちゃんの手当をしてくれた。痣のできた左手に湿布を貼ってくれたのは彼らだ。それから、手当たりしだいに荒らされた部屋を、元通りに片づけてくれた。

「誰にも言わないでね、沙代子さん」

 空が言った。

「泥棒が一人消えるだけだし、ぼくたちのことを、あれこれ訊かれるのも面倒でしょう」

「それはそうね」

 おばあちゃんは素直にうなずいた。

 私は、呆然とおばあちゃんの話を聞いていた。

 おばあちゃんの身体の痛みは本物だ。手首の包帯だって、一人でこんなに上手に巻けるわけがない。

 でも、いったい誰が?

 おばあちゃんの話は、妄想ではなかったと?

 気がつくと、私は二階に駆け上がっていた。

 締め切ったカーテンの間から幾条かの陽射しが漏れている。細い光の中で、埃がきらきらと踊っている。

 父の部屋のベッドに、何かがいた。

 私は声を上げそうになった。

 積み上げた蒲団に、若い男がもたれかかっていた。仰向けに、両手両足を投げ出し、頭をのけぞらすようにして。

 薄暗さの中でも、ぐったりした男の顔が紙のように白いのがわかった。見開いた目は虚ろで、どこも見てはいなかった。でも、宅配業者の制服めいたものを着た胸は、かすかだが上下している。

 おばあちゃんが言っていた泥棒だ。

 後ずさった私の背中に、柔らかいものがぶつかった。

 私は、はっと振り返った。

 ひょろりとした長髪の少年が微笑んでいた。彼とよく似た短髪の少年も。

 海と空。

 私は、すくみ上がった。

「この子は驚いているよ、兄弟」

 海が言った。

「悪かったね、心配ないよ」

 空は私の顔をのぞき込み、

「今晩にも片づける。あらかた血は頂いたからね」

「あなたたち…」

 私はようやくささやいた。

「おばあちゃんの妄想じゃなかったの?」 

 二人は、そろって小さく笑った。

 ありえないと思った。

 しかし、彼らはここにいる。

 二人とも、ジーンズに長袖の白シャツという同じ格好をしていた。双子のようによく似た美しい容姿。

 圧倒的な存在感で、私の目の前に立っている。

 あるいは、と私は考えた。

 おばあちゃんの想いが、彼らの存在を生み出したのだろうか。賊に襲われたおばあちゃんの危機を、彼らは救ってくれたのだろうか。

「ちがうよ」

 空が言った。

「ぼくたちは妄想の産物じゃない」

「うん」

 海もうなずいた。

「ぼくたちはぼくたちだ」

 私は、呆けたようにつぶやいた。

「吸血鬼…」

「そう呼んでもいいよ。まあ、人間とは違う生きものだ」

「どこから来たの?」

 二人は顔を見合わせ、首をかしげた。

「よく憶えていない。ずいぶんあちこち彷徨っていたから」

「ずっとここにいるつもり?」

「沙代子さん次第だ。ねえ、兄弟」

 海の言葉に、空はにっこりとうなずいた。

「ああ。ここは居心地がいいよ。沙代子さんは好きだな。優しいし」

 海は私をしげしげと見つめ、

「きみは沙代子さんに似ているね。若い時は、きっとこんな感じで可愛かったんだろうな」

「沙代子さんは今でも可愛いさ」

 とは、空。

 私は混乱して頭を抱えた。

 後ずさりし、逃げるように階段を駆け下りた。

「会った?」

 リビングからおばあちゃんの明るい声が聞こえた。

「いい子たちだったでしょ」


           *


 おばあちゃんが倒れたのは数日後だった。

 コンビニに出かけようとしていたらしい。門の前で動けなくなっているところを、たまたま通りがった人が見つけてくれたのだ。

 脳内出血ということだった。意識はなく、昏睡状態。駆けつけた父と共に、家族は病院にいる。

 私は病院に行かなかった。

 ただぼんやりと、おばあちゃんの家の玄関に立った。

 静かに二階への階段を上る。

 もう夕刻で、閉めきったカーテンは夕陽の赤い光をにじませていた。黄昏色に沈んでいくような部屋の中、空が父のベッドに腰を下ろしていた。その足元にうずくまる大きな黒い犬を見て、私は目を見開いた。

「驚かなくていい」

 空が言った。

「海だよ。沙代子さんの前では人間の姿をしていた。さすがに二階にこんな犬がいるのは怖いだろうからね」

 海と呼ばれた犬は首をもたげて私を見た。

 知性のある深々とした黒い目は、確かに海を思わせた。すらりとした肢体、艶のある漆黒の短毛、鼻筋がすっと突き出し、耳は尖っている。

 このうえなく美しい犬だ。

「やあ」

 と、海は口を開いた。

 私は思わず立ちすくみ、

「あの男の人はどうしたの」

「片づけるって言っただろ。海はなんでも消化できるんだ」

「そういうこと」

 海は、長い舌で口の周りを舐めた。

「あなたたち」

 私はぞくりとして声をふりしぼった。

「もう、この家には居られないわよ」

「うん」

 空がこくりとうなずいた。

「時間の問題なんだろ、沙代子さん」

「ええ」

 海は首を振った。

「残念だな、兄弟」

「ああ。来年もいっしょに桜を見られると思ったんだけどな。もう少し傍にいたかったよ、沙代子さん」

 空と海は、悲しげに顔を見合わせた。ついで、そろって私の方を向き、

「きみとも、さよならだ」

「そうね」

 私を見る空と海の眼差しは、労りと憐れみがないまぜになった不思議なものだった。

 おばあちゃんの死に、私がどんなに打ちのめされるか心配しているのだろうか。吸血鬼のくせに。

 でも、私には、どんな感情も湧いてこない。おばあちゃんの死をまだ実感できないでいる。

「おばあちゃんは」

 私はなんとか言葉をさがした。

「あなたたちの本当の名前を知りたがっていた」

「ズィーベン」

 声をそろえて二人は答えた。

「ぼくたちは、二人で一つの名を持っている」

 空が小さく笑って肩をすくめた。

「沙代子さん好みの名じゃなかったな」

「かもね」

 私は微笑み、うつむいた。

 そして、息を呑んだ。

 自分の指先が、薄く透けはじめている。はっと手をかざすと、手の甲の向こうに彼らの姿が見えた。

「これ…なに?」

 私は、かすれた声でささやいた。

「沙代子さんは、女の子が欲しかった」

 海が言った。

「話し相手になってくれる可愛い孫が。ぼくたちのことも、ちゃんと聞いてくれる子が」

「私…」

「そう。沙代子さんは、きみを想像した」

 空がつぶやいた。

「本当にきみがいると思うようになった」

「うそ」

 私はかぶりを振った。

 私は私だ。

 しかし、あるはずの記憶は、どうしたわけか甦って来なかった。幼いころの思い出、両親との会話。兄と喧嘩したこと、学校生活や友人たち。私の過去は、辿ろうとしたとたん、つかみ所もなく消えていく。

 私にあるのは、この家でおばあちゃんと過ごした時間だけ。

 まさか。

 おばあちゃんの妄想は、この私だったのか。

 声を上げようにも、もう声は出なかった。

 なすすべもなく、さらに薄れていく腕を、足を、身体を感じる。

 私は、はっきりと悟った。

 おばあちゃんが逝こうとしている。

 ひどいな、おばあちゃん。

 私は叫びたかった。

 私を連れていかないで。

 吸血鬼たちは、私を見送るかのように立ち上がった。

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