をりひ
「ここや」
老人に案内されたのは、小さな木造家屋だった。どうやらこの老人──神谷さんの家のようだ。
図書館から約15分ほどの道中に神谷さんは色々教えてくれた。村の村長をつとめたこともあって、誰よりも詳しいとのこと。他の村人たちは全員もっと遠くに引っ越していったらしく、戻ってきたのは神谷さんだけだったそうだ。
「あんなことがあったらなぁ。罪悪感もあって、帰ってこられへんわなぁ」
神谷さんは呟いた。瞳同様、声もぼんやりしているのに、どこか鋭さがあった。やはり頭に浮かぶのは猛禽類。年のわりにボケてもいないようだし、実はかなりしっかりしているのかもしれない。
「罪悪感、ですか?」
「あぁそうや。罪悪感や。それだけのことをしたんや」
久遠さんが尋ねるも、神谷さんは決して"それ"については教えてくれなかった。
「どうぞ、気にせんと入って」
古い引き戸を開け、中に入る。老人1人住むにはそこそこの広さだったが、4人家族には小さいだろう。古ぼけているが、綺麗にはされていた。木の床もピカピカだし、埃1つ落ちていない。
勧められるままリビングのソファに腰かけると、神谷さんは雪の宿を持ってきてくれた。カタカタと震える手で湯呑みを暖かい緑茶を入れてくれる。神谷さんが動く度に老眼鏡についているチェーンが揺れた。
「村がな、潰れてもうたんや」
神谷さんは開口一番、そう言った。久遠さんがお茶を啜ったのを見て、俺も飲む。部屋の中はクーラーが効いていて涼しかったが、夏の暑さに緑茶は少しキツかった。
「潰れた、とはどういうことですか?」
「文字通りやな、村が潰れたんや――バケモンの手によって」
神谷さんは俯きながら喋った。頭のてっぺんが少し禿げていた。
「化け物とは?」
「あんたも実はけっこう知りたがりやな」
初めて笑みを見せると、神谷さんはいっとう暗い顔になって続けた。
「昔な、この村にはかみさんがおったんや」
「土地で信仰しているような、ですか?」
「そうやな。みんなで信仰しとった。神棚飾ってな、毎日お供えもん持って、神社にも参拝しとったんや」
どこか懐かしむ様子だ。
人の懐に入るのが上手い久遠さんは、早速神谷さんの信頼を得ているようで、久遠さんが質問し、呼吸するように神谷さんが応えていた。俺の入る隙間もないような、大人だけの空気感。
「神棚に祀っとったんは、小さい石やった。きれーな石でな、単なる石ころやのに、みんなで縋るようにお祈りしとって。今から思えば不思議な力があったんやろな。石見た途端にな、みんな目の色変わって平伏しだすんや」
そんな怖い石があってたまるものか。でも、今までで1番真実に近いようで、それでずいぶん臭い話でもある。久遠さんと見合わせた。
「それは……怖いですね」
「そうやな。でも村人たちはな、そんな感覚全く無かった。怖いというより当たり前で、常識やった。かみさんが宿ってるんやからしゃあない。そういう価値観で育っとったしな」
「価値観、ですか。それはかなりあるかもしれないですね」
「おん。ほんでな、ある日のことや、まだ大人の事情もようわからん女の子がな、それを持ち出してもうた。そしたらな、神さんが女の子に取り憑いてしもたんや」
神谷さんの話が、だんだん嘘みたいになっていく。なんて言えばいいか分からくてモジモジしていたら、隣から小さく雪の宿を咀嚼する音が聞こえてきた。久遠さんのあまりのメンタルの強さに思わず隣を見る。
「えっ、それで、その、取り憑かれた女の子は……?」
黙って久遠さんが食べ続けるので、タジタジしながら尋ねた。戸惑う様子の俺を見て久遠さんはにっこりして見せた。
「女の子はな、無事やった。石はほんとにただの石ころになってもうたし、神棚も半分意味なかったから、今度はみんな女の子に向かって拝み出した」
身動ぎもせず話し続ける老人の言葉を頭で想像する。石を持ったばかりに取り憑かれた女の子。まだわけのわかってない子供だったから、神様もどうにかしやすかったのかもしれない。女の子はどう思ったんだろう。昨日まで一緒に暮らしてきた村人たちが、急に自分を拝み出す。俺だったら怖いと感じるかもしれない。
分からないものは、怖い。
「女の子はな、それはそれは大事にされた。着飾って、神様が好きなようにした。なんでやろな、分かるんや。嘘やって思うやろ。どうやって取り憑かれたどうか分かるんやとかな、思うやろ。ただ見れば分かるんや。取り憑かれたらな、なんかおかしなるんや。なんて言えばええか分からんけどな」
「神々しくなる、ってことですか……?」
どこか見当違いな気がしつつ話す。てっきり間違いだと思ってたのに、神谷さんは頷いた。
「ちょっと近いやろな。ぺかーって光って見えるんや。実際は違うねんけどな、光って見えるって錯覚するくらい普通の人間とは何かが違うようになる。美子ゆうんやけどな。あの子もそうやった。やけどな……」
先程まではまだ口調に少し余裕というか、暗さの中にもまだ懐かしみがあったような神谷さんの声色が一気に変わった。
「美子な、死んでしもたんや」
「えっ……!?」
唐突すぎる展開に小さく声を上げると、神谷さんはうっすら笑った。
「たぶん強盗やったんやろな。村のもんではなかった。殺されてしもたんや。美子の家に盗みに入ったもんにな」
「神様は、怒りますよね。宿主がいなくなっちゃったから」
「そうやな。当然のように激昂や。怒りはって、それまではちっちゃい畑で自分たちで野菜育てたりな、山に山菜取りにいったり、動物狩って暮らしとったんやけど、そんなもんが一気にできんくなった。土地神やったんやろな。天候が一気に変わって、貧しかった村がもっと貧しくなった。生活が苦しくなって、それで、村のみんなで決めたんや。このままやったら生きてかれへん。だから、捧げ物をしようって」
嫌な展開に唾を飲み込む。さっきまで緑茶を飲んで、クーラーなんてうっすら効いている程度だったのに、急に寒くなったように感じた。思わず手で二の腕を触ると、少し鳥肌が立っていた。
「捧げ物は、子供ですか?」
「そうやな。実はな、石を大人が触ったこともあってんけど、そんときはなんもなかったんや。だからこの土地のかみさんは子供が好きやろうってなってな。捧げることにした。女の子がいいんちゃうかってなっててんけどな、生憎あんまりおらんかったから、女の子っぽい男の子が捧げられることになった。親もな、泣いとってん。その子やって決まったとき。やけどその家は特に貧しくて、きっと子供に十分なご飯上げられる自身もなかったんやろな。わりとすぐに決まった。男の子を御堂に閉じ込めてな、周りで土地に伝えられとった舞を踊って、そしたら迎えに来てくれるって。でもな……その男の子が、舞の途中に出てもうたんや、御堂を」
ふっと何かが舞い降りてきて、湯呑みを落としそうになった。そうだ、夢だ。夢の初めだ。