プロローグ
その瞬間まで、旅客機にはなんの異常もなかった。
時刻は午前3時すぎ、客室内の灯りは非常灯のみとなり、243名の乗客のほとんどは眠りについていた。
ロサンゼルスでの仕事を終え、帰国の途についているビジネスマン、篠崎裕一郎は、疲れているはずなのに、なぜか寝つかれず、読書灯をつけて、ぼろぼろのペーパーバックを、読むとはなしにながめていた。
古本屋で買ったのだ。
知らない作家だ。
ファンタジー小説らしく、表紙では、中世風の背景の中、黒髪の少年が腕をかざして、何かの魔法を使おうとしているようだ。その横では、ヒロインなのだろうか、美しい少女が膝をつくようにして、それを見守っている。
店先に、無造作に、ディスカウントで置かれていた本なのだ。
(なんでこの本を買おうとおもったのか、自分でもよくわからないな…)
そんなことを思いながら、本のページをめくろうとした、その瞬間。
激しい衝撃が旅客機をゆさぶる。
眠りを破られた人々の悲鳴は、機体が分解する轟音にかき消される。
高度1万メートルの上空で、テロリストの手によって貨物室に密かに運び込まれていた爆薬が炸裂し、機体はなすすべもなく、完全に空中分解した。
裕一郎の身体も、はげしい勢いで中空に投げ出された。
ペーパーバックを、その手につかんだまま。
加速しながら落下し、寒さと酸欠状態で意識が遠ざかるなか、ちらりと、きらめく星空がみえた。
(おれは、ここで、死ぬのか…? なぜ? 理不尽じゃないのか、これは? あまりにそれは!)
かすかな意識の中で、怒りが泡立ち、沸騰した。
その時、なにものかの意思が裕一郎を貫いた。
<ならば汝、我が召命に応えよ!>
裕一郎の身体は、次の瞬間、光に包まれてこの世界から溶けるように消えた。
持ち主をうしなったペーパーバックの本だけが、夜の闇の中をくるくる回りながら落ちていった。
しかし、それを生きて目撃したものはだれもいない。
プロローグを追加しました。(2020/5/15)