泥棒のいる家
片山千鶴は、母悦子の部屋で銀行の預金通帳を眺めている。毎月振り込まれる示談金は、見た事もない金額になっていた。
認知症を患っていた悦子は半年程前、自転車との衝突事故であっけなく死んでしまった。衝突したのは、わずか小学二年生の男の子だった。日が暮れるのがはやくなって来た冬の事だった。
坂道を猛スピードで下って行く自転車の少年は、あまりのスピードにハンドルを取られて転倒。自転車と少年は別方向に転がって行ったが、運悪くそこに居合わせたのが悦子だった。認知症が進行し徘徊の癖がついてしまったため、千鶴は対策を考えているところだった。年を取って食が細くなり、すっかり痩せこけてしまった悦子の身体は、自転車との衝突で二メートル程飛ばされてしまったのだという。
悦子が亡くなって慌ただしく葬儀を済ませた千鶴に、しっかりと賠償してもらうべきだと意見したのは夫の夏雄だった。夏雄は、気性の荒い男性で、他人に対して好戦的なところがあった。年を重ねるにつれて、それが段々とひどくなっているような印象だった。
「クソガキが!ブレーキのかけ方も知らないで自転車に乗ってんじゃねえぞ!」
葬儀の夜、悦子のいなくなった部屋で夏雄は声を荒げた。
「静かにしてね、お母さんもそんな声聞きたくないと思うよ」
「千鶴、俺は悔しいよ。お義母さんの最後に会う事も出来なかったなんて」
夏雄は大げさに声をあげて泣き始めた。千鶴は、夏雄の丸まった猫背を眺めていた。
「お義母さん、よく茶碗蒸しを作ってくれたよなぁ、あれ、もう一回食べたいなぁ」
「そうだったかしら」
夏雄の言う茶碗蒸しがどの味なのか、千鶴にはすぐに思い出せなかった。悦子の料理は華やかに手の込んだものは一切なく、必要最低限のものばかりだった。認知症になったとわかった時、悦子に話しかけもしないで冷たい目を逸らしていた夏雄と、今泣いている夏雄は同じ人間のライン上にいるのだろうか。それとも、死んでしまった途端に良い事でも思い出したのだろうか。
「俺の知り合いの弁護士に話はつけてあるから。ちゃんとしてくれるから」
千鶴は、ぼんやりと座敷の隅を眺めた。夏雄が悦子の部屋に取り付けた防犯カメラのリモコンが、ホコリをかぶって転がっている。防犯カメラはもう取り外してしまっていいな、と思った。
「泥棒!いつからうちは泥棒が出入りするようになったんだい!」
認知症が始まってから、半年ほど経った日の事だった。夜中、ボーっとテレビを見ていた千鶴に突然悦子が掴みかかって来た。
「どうしたのお母さん、千鶴だよ。泥棒なんていないでしょう」
「眼鏡ケースを取っただろう!」
悦子は強い力で千鶴の肩を揺さぶった。
「取ってないよ、お母さん手を離して」
千鶴は、肩を掴んでいる悦子の手を引きはがそうとしたが、悦子の指一本すら動かせない。八十歳を過ぎた女性の力とは思えない程しっかりと力が入っている。
「泥棒!!」
顔と顔がくっ付きそうな程近い距離で、悦子は大声で叫んだ。物音で目を覚ました夏雄が薄目を開きながらリビングのドアを開けた。
「薬、飲んでいないのか」
状況を把握しているのかしていないのか、すぐに夏雄は薬について確認した。ここのところ悦子は、睡眠導入剤を飲むようになっていた。
「ちゃんと飲んでるよ。急に目が覚めちゃったんでしょう」
悦子に肩を持たれたまま、千鶴が答えた。夏雄は深いため息をつく。
「あんた!あんたが取ったんだね!」
悦子はようやく千鶴の肩から手を離したが、今度は夏雄の方へと向かって行く。千鶴は慌てて悦子の身体を押し止めた。
「お母さん、お母さん、大丈夫だから。ちょっと一緒に探してみようか」
千鶴は子供に話しかけるように優しく声をかける。
「ちゃんとしとけよ。俺、明日も仕事だから」
夏雄はボソボソと小さな声で喋った後、寝室に戻って行った。
眼鏡ケースは、洗面所の収納棚の上に置いてあった。すぐに手に取れる目に付く場所だった。洗面所の電気は接触が悪いのか、時折チカチカと光を失っていた。寝室をあれこれ探し回っていた悦子は、突然場面が切り替わったかのように笑顔を見せる。
「探していたのよ、どうもありがとう」
眼鏡ケースを両手に持ち、やっと悦子の気持ちが落ち着いたようだった。
千鶴は、認知症になってからも変わらずに姿勢のいい悦子の後ろ姿を見て、「たまらない」と呟いた。
深夜に大騒動を起こされる事よりも、夫の、牽制を通り越した嫌悪感を表す態度が千鶴の心臓をキュッと締め上げているようだった。
数日後、夏雄はどこからか防犯カメラを購入してきた。悦子の部屋の両端の真ん中に一台ずつ設置し、隅々まで部屋の様子を記録出来るようにしたのだと言う。畳に砂壁という和風の部屋に突如置かれた真っ黒の防犯カメラは、異様に浮き上がって見えた。
「これからどんどん悪くなるんだろ、義母さんも、自分自身で現実を確認出来た方がいいだろう」
千鶴は、夏雄がどういう気持ちからその行動を取っているのかわからず、小さな嫌悪感を抱いた。
しかしその後、悦子の泥棒騒ぎは少しずつ頻度を増やして、千鶴の精神を追い詰める事となった。その度、防犯カメラで悦子の様子を確認出来るのは、なくし物を見つけるという点においては有効的ではあった。
勢いよく怒っている悦子が防犯カメラの映像を確認する事で、静かになってくれるのは確かに助かる。けれどその際、夏雄がほら見た事かというような様子で悦子の顔を覗きこむのは、何故だか胸の辺りがざわざわと音を立てる。認知症になっても尚いつも凛としている悦子の顔色も、夏雄と目を合わせる事で、心なしか青ざめているような気がした。
防犯カメラを取り付けてから三年程経った頃。とうとう悦子は自ら警察を呼んでしまい、自宅に突然二人の警官が訪ねて来た。千鶴がパートに出ていた日だった。千鶴は帰宅してすぐに誰かがいる雰囲気を感じ取り、慌てて悦子の部屋を覗いた。
防犯カメラの周辺の砂壁に傷がついているのが遠目にもわかった。畳の上には孫の手やツッパリ棒と言った長い形状の物が散らばっている。悦子が自力で防犯カメラを外そうとしたのだろうと千鶴は思った。
「この家の中に泥棒がいるんですよ。もう何度も、私の物がなくなっている。いい加減、逮捕して貰わないと困ります」
警察官に自らの被害を訴える悦子の姿は、まるで本物の被害者のようだった。
この頃悦子はまだ自分が認知症であるという事を認めず、医療の介入や通所リハビリテーションの利用を嫌がっていた。目の前で認知症について説明しようものなら、どんな行動に出るかわからない。千鶴は咄嗟に頭を下げて謝罪をしたが、どう説明したらいいのか迷っていた。
「お母さん、認知症?」
若い方の警官が、千鶴にだけ聞こえる声で話し始めた。千鶴は目線だけを警官に向けて、何度も頷いた。その様子を見ていたベテランと言った風貌をした五十半ば位の警官が廊下へ出て、手招きで千鶴を呼び出した。
同じようなケースで警察が出動する事はよくあるらしい。話をしている間、ベテラン警官は「そりゃ大変だ」「福祉の力も借りたいよね」「難しいよね」と言った共感の類の言葉を多く使った。千鶴はその度に、喉の奥が詰まるような感覚に陥り、涙が零れそうになった。
「こういうケースは早めに周囲に協力を貰うように環境を整える事が大事だよ。ちょっと待っていてね」
千鶴を廊下に待たせたまま、ベテラン警官は再度悦子の元へと戻って行った。若い警官は悦子の話を聞きながら、丁寧にメモを取っている。
「お母さん、泥棒はね、この家にはいないみたいだよ。何度も何度も同じ事が起きたのなら、病院にも行った方がいいよ。娘さん、困っているみたいだよ」
千鶴の心臓が大きく脈を打った。悦子はその言葉を聞いた途端、生気をなくしたように無表情になった。開いたままの口は小さく震えているように見える。何を言うでもなく、そのまま悦子は自分の部屋を出て行ってしまった。二人の警官は、千鶴に何度も労いの言葉をかけて、警察署へと戻って行った。
この日の出来事がきっかけとなったのかはわからないが、それから程なくして悦子はデイサービスに行くようになった。自宅の滞在時間が減った為か、防犯カメラの登場の頻度も併せて少なくなっていった。悦子の背中が痩せ、少しずつ丸くなっていく。
第三者の助けを借りる事で千鶴の負担は大幅に減ったが、悦子の認知症は加速度的に進んでいった。
「ちづちゃん、ちづちゃんの好きなお饅頭を作ったよ。一緒に食べようよ」
声のトーンを上げて、千鶴の事を「ちづちゃん」と呼ぶ悦子は、今までに見た事のない母の姿だった。
「お母さん、私甘いものは控えているのよ。お母さんも甘いもの好きじゃなかったでしょう?」
「なんでそんな事言うの?悲しい、そんな事言わないで」
「あぁ、ごめん。ごめんね。一緒に食べよっか」
千鶴が幼い頃から今まで、悦子が誰かと一緒に饅頭を食べるなんて事は一度もなかった。饅頭を両手で持って、ゆっくりと口へ運んで行く悦子は、まるで少女のようだった。
デイサービスで教えてもらったらしい「茶摘み」の手遊びを頻繁にやりたがり、断ると頬を膨らませて千鶴の方を見る。厳しかった母が、少しずつ消えて行く。最初は戸惑いと寂しさが交互に襲ってきて何とも言えないような気持ちになったが、生活による忙しさでそれらはすぐに打ち消されて行った。それに何より千鶴は、少女のようになってしまった母を、愛しいと感じていた。
「五千万円、払うってよ」
夏雄が職場から掛けて来た電話は、弁護士が事故の相手と示談交渉を行った結果だった。千鶴は、金額に関しては一切考えていなかったため、あまりの額に驚きを隠せなかった。
「五千万って、そんなお金普通の人は払えないでしょう」
「でも払うって言ったらしいんだよ。裁判なんかしたくなかったんじゃないか?一生かけて償いますって泣いていたらしい。泣いたってさぁ、義母さんが帰って来る訳じゃないからな」
「そんなお金、貰えないよ。あの子、自転車に乗ってたあの子だって、これからお金がいくらあったって足りない時期が来るでしょうに」
「何言ってんだお前は!お前はあのガキのせいで大事な母親を失った可哀相な人間なんだ!お金を貰うべき人間なんだ!あのガキの親も、金を払うべき人間なんだ!」
夏雄は電話口で怒鳴った。千鶴はスマートフォンを耳から離して、小さくため息をついた。
以来、千鶴が何もしないままに、いつの間にかお金が振り込まれるようになった。最初の月には五百万円。その次の月からは二十万円をベースに、多い時には四十万円近く振り込まれる事もあった。
「あの金どうしてんだ?」
千鶴が本を読んでいると、夏雄が妙にかしこまった格好で話しかけて来た。悦子が死んでから和室に置いた、丸いちゃぶ台の上に本を置く。夏雄は、まるで小さな子の機嫌を取るみたいに千鶴と目を合わせようとしている。
「今は、何も考えていないの。お母さんが死んでから、心にぽっかりと穴があいてしまったみたい」
千鶴は、自身の言葉をドラマのセリフみたいだなと思った。
「いくらくらい振り込まれた?月々二十万円って話だったから、もう大分貯まったんじゃないのか?」
「使っていない通帳だから、見てみないとわからないわ」
「悪いんだけどちょっと金貸してくれないか」
少しだけ言いにくそうに、目を左側に逸らしながら夏雄が言った。千鶴は、来たか、と口に出しそうになった。どこかでこうなるのではないかと、最初からわかっていたような気がする。
「何に使うの?」
「ほら、今まで義母さんの事で大変だっただろ?そろそろ落ち着いたし、俺も資産運用って言うのをやってみたいって思っててさ」
「どのくらい必要なの?」
「五百万程でいいんだ」
手足が一気に冷たくなる。夏雄は、千鶴から目を逸らして身体を左右に揺らしている。
「考えておく」
そう言って千鶴はすぐに、悦子の部屋だった和室を出た。夏雄は、千鶴と一切目を合わせなかった。
数日後、千鶴は公正証書に書いてある住所に向かった。自宅から二回電車を乗り継いで十五分程歩いた場所だった。悦子は随分と遠くまで彷徨っていたんだと、改めて思う。喉の奥がきゅうっと閉まる。
住所のある家には、暖かい明りがついている。裕福でも、貧乏でもない、ごく普通の一軒家のように見えた。表札に「江本」と書いてある事を確認し、インターフォンを鳴らす。
「はい、どなたですか」
アンティーク調の外灯が灯った。インターフォンの向こうから、若い女性の声がする。千鶴は小さく息を吸ってフルネームを名乗った。
「あの、私、片山千鶴と言います。片山悦子の娘です」
五秒程、沈黙が流れた後、玄関へと向かう音が聞こえて来た。スリッパを履いているような足音だ。足音とは裏腹に、ドアが静かに開く。出てきた女性は、声は若いけれど四十代くらいの風貌だった。千鶴はつんのめるように声をかけた。
「すみません。本当は、直接関わり合いになるの、よくないと思ったんですけど、どうしてもお話をしておきたくて」
女性は驚きながらも、すぐに千鶴を家にあげる仕草をした。
「どうぞ、上がってください」
部屋の奥からフェルト底のスリッパを持って来て、玄関マットの上に置いている。玄関には、子供用の運動靴とくすみがかった緑色のパンプスが二足置いてあった。
千鶴はふと、男性ものの靴がない事が気になった。ご主人はいないのだろうか。そういえば、公正証書も女性の名前だった。被害者の娘が急に来るなんて、恐らくいい気はしないに違いない。千鶴はなるべく手短に話をするつもりだった。
「何か、何かありましたか」
女性は、怯えるように言葉を選んで話した。
「毎月お金を支払って頂いていると思うんですけど、もうやめてもらって、大丈夫です」
「えっ」
言葉に詰まる女性を見て、千鶴はもう一度大きく息を吸い込んだ。
悦子が事故に遭った日、千鶴は自宅に居た。頭痛が酷く、パートを早退して横になっていたところだった。悦子が認知症を患ってから、八年が経過していた。
「泥棒がいるよ!!」
悦子は家中の引き出しや、扉を開けていた。勿論千鶴にもその音は聞こえていたが、千鶴が対応する事はなかった。自室に鍵をかけ、布団を被り、ただひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
三十分程経った頃、夏雄の怒号と悦子の悲鳴が聞こえて来た。家中の物が壊れているのではないかと言う位の、大きな物音と怒号はしばらく鳴りやむ事はなかった。夏雄がひとしきり暴れた後、悦子の声は聞こえなくなった。こういった事は、度々繰り返されていた。
怒りっぽく疑り深い母と、可愛らしい少女のような母は何度も行き来を繰り返して、段々と現実世界が見えなくなって行くようだった。興奮を鎮めるような薬を飲み始めてから、排泄の場所すらわからなくなってきていた。その上で、たまにフラフラと外を出歩く徘徊癖が始まり、警察の厄介になる事も増えた。
夏雄は、時折大声で悦子を怒鳴り、手を上げた。千鶴は何度も、「地獄だ」と思った。悦子が何度も徘徊を繰り返していくうちに、段々と放っておく事が増えていった。
「わかっていたんです。母が、怪我をするかもしれない事。もしかすると、死んでしまうかもしれない事も。だからもう、お金は受け取れません」
女性は、両手で顔を覆って泣いていた。
(続く)