日陰から日向へ2
どうしよう…。
電話したら、先生困るかな…。
携帯を手に、ディスプレイを開けたり閉じたり。
沢山考えて悩んでも決められなくて、結局クリスマス・イブになってしまった。
そして午後になっても迷っている。
実はまだ、先生に電話をしたことが一度もなかったりする。
この番号を教えてもらったのは去年。
文化祭実行委員会の緊急連絡目的で、その時期、先生に恋をして以来、ずっと大切に取ってあるんだけど…。
だから余計、簡単に掛けられないというか…。
でも今回はこの番号に頼るしかない。
ただ、先生を困らせないか、迷惑にならないか、それが心配…。
小さな息が一つ、机の上のマグカップに落ちた。
どうしよう…。
このまま三学期になるのを待つしかないのかな…。
もう一度、親指の先をコールボタンに掛けてみる。
そっと触れた金属的な色は、そんな私の逡巡を全く意に介さず、無言で指を受け入れて。
その時、不用意だった耳に、部屋のドアをノックする音がコンコンと届いた。
「サキ、それじゃあお母さん出掛けてくるわね。」
ドキッと跳ねる脈に思わず力の入った指は、ドアの方へ向いた勢いのまま、ぎゅっとボタンを押し込んで。
「…っ、はい、行ってらっしゃい。」
……かけ…ちゃった…?
お母さんへ返し、慌てて耳に携帯を押し付ける。
焦った声に慌てっぷりがはっきりと分かって、お母さんに伝わったかも知れないと思ったけれど、気配を感じないからそのままドアから離れたらしい。
携帯をしっかりと持ち直した。
ものの弾みとか、偶発的事故とか、ほとんどそうとしか言えない電話は、それでもちゃんとコール音を響かせる。
一回、二回と耳を伝い、心臓にも指にも届く規則的な音。
大きく速く、鼓動は音を増すばかり。
きゅっと指先に力を込めて、三回目のコールの後、「はい、」と良く知る柔らかな声を聴いた。
「あ、あのっ、」
『奥川さん?』
「はい…。そう、です…」
答える声はどうしようもなく震えている。
これじゃあまるっきり動揺してるのと同じで、先生に分かっただろうと思ったその後、電話の向こうで笑った気配がした。
『なんや緊張しとるみたいやな。』
その声も空気もやっぱり柔らかくて優しい。
肩に入る力を緩めてもらって、照れ笑いを声にする。
「ちょっと、してる。」
『電話は得意やないて言うとったもんなぁ、奥川さん。
これが初めてやから、ディスプレイに名前見てごっつぅ驚いたわ。』
「突然かけてごめんなさい。先生、いま大丈夫?」
『ああ、ええよ。どうしたん?…て、訊くまでもないか。』
電話が得意じゃないことを覚えくれていたのは嬉しかった。
でも、先を越されたようなその言葉に、話を繋げようとした声は喉の奥で固まってしまった。
どんな用件で電話したのか、先生にはすっかり分かっているんだろう。
そう思ったらまたちゃんと聞いて貰えない気がして、口元をきゅっと結ぶ。
「……、」
『今日はイブやし、終業式の日に言わせんかったからな…。
その話で電話してきたんやろ?』
「そう…」
やっと小さく声にした、握り込む携帯越し。
しっかりと感受する押し黙った気配。
『…狡い言い方になってまうけど、それでもええか?』
ひと呼吸置いて聴こえた声と言葉は軽い痛みを伴い、切々と胸に響いた。
狡いなんてそんなこと、先生が言う事ならこれっぽっちも思わない。
先生は大人で私はまだ未成年だし、一般的な立場の違いから生じるリスクも先生の方が遥かに高いから。
それを分かって狡いなんて言わないよ? 先生─────
「大丈夫。」
『うん…、先ずな、』
穏やかな口調のまま、いつもの柔らかい声が言葉を紡ぎ始める。
私は黙って耳を傾ける。
『俺から動くことは“まだ”出来んのや。
奥川さんが俺の勤める学校の生徒や、ちゅうんは覆しようのない事実やし、後先考
えんと突っ走って、もし公に知れるようなことになったら奥川さんを傷つけてまう。
それは避けたい。でも、奥川さんを大切に想っとるんも事実や。
せやから狡いけど、“まだ”としか言われへん。この意味は分るな?』
「はい。」
『じゃあ、今日の話。
誰にも内緒にして二人だけで会うていうても、そう簡単やない。
場所も限られるし、こそこそと隠れるように会うことになる。
そんな風にして会っても楽しぃないやろ?』
そこまで聞いて、先生が何を言おうとしているのか分かった。
結城先生は先生としての立場が崩せないんだ…今日は会えないんだと…。
『家においでとは、言えんから…。』
先生の声が曇っていく。
「せんせ…、」
『ほんまに狡いな…。
中途半端な言い分で、拒む訳でも受け入れる訳でもなく、奥川さんをただ引き止め
ようとして…。ごっつぅ狡い…。堪忍な。』
きっと、こんなことを言わなければならない先生が一番辛いんだと思う…。
だから唇は自然と、何の躊躇いもなく。
「そんなことないよ…。
先生が言ったことは間違ってないし、引き止められたなんて思ってないから…。
この先もきっと先生のそばにいたいと思うだろうし、それは私の意志だから。」
上手く言えない気持ちがどこまで先生に伝わったか、それは分らなかったけど、嘘じゃないことは確か。
『奥川さん…』
「今日は…家族と過します……。
困らせてごめんなさい。また三学期。
クローバー、ちゃんと取りに行くね。」
自分の耳で聞くこの声はしっかりしていて明るい。
大丈夫、これなら先生も安心してくれる。
イブやクリスマスは来年だって再来年だってあるし、次のイブにはきっと先生と過ご
せるから────
「じゃあ、先生、よいお年を。」
『………。』
先生の返事を聞く前に、そっと通話終了のボタンを押した。
高校最後のクリスマス・イブを、大好きな結城先生と過したいと思ったのは本心で、でも叶わなかったことを憂えたりはしない。
先生の“まだ”を信じていいんだと、曇っていく声にちゃんと確かめられたから。
そのあと少しだけ泣いたけど、悲しくて泣いた訳じゃなくて、先生の声に感じた苦しさが移っただけだと思う。
電話して良かった…。
「サキ、」
お母さんの声…帰って来たんだ…
「サキ、起きなさい?」
「んー…、」
「こたつで寝てると風邪引くわよ。」
肩を揺さぶられ、声になった眠気を引き摺るように、突っ伏していたコタツ板から起きる。
指で瞼を数回擦って目の焦点を合わせてから、壁の時計を見て。
時刻はもう6時近い。
3時間そこそこ寝てしまった…。
うたた寝にもならない、正に惰眠。
勿体ないことをしたと思いながら背中をぐーっと伸し、横で立ち上がったお母さんの方を仰いで、その表情が面白い物を見たと言いたげに笑んだのを見留めた。
「なに…?」
「顔に寝痕が着いてるわ。」
「えっ、ほんと!? やだっ。」
くすくすと笑うお母さんの声に、慌ててコタツから出て洗面所に駆け込み。
……、また引っ掛かっちゃった…。
鏡に映った顔には何の痕もついていない。
もしかしたら私って学習能力が無い…?と、肩で大きく息を落とす。
この寝痕云々は、お母さんが朝、私を起す時に使う手で、母曰く「何よりも効果を発揮する」らしい。
でも、うたたね程度でも使うから、そういう時は勘弁して欲しいと心底思う。
冬なんか特にそう。
暖かいところから空気の冷たい洗面所に駆け込む所為で、そっちの方が余程風邪を…って、あれ…?
何気なく見た洗面台の隅で、丸い小さな金属質の容器を捉えた。
確かお母さんが最近買ってきたソリッドパフュームだったと思う、その丸い容器を手に取ってみる。
パッケージには、思った通り“SOLID PERFUME”の文字。
蓋をそぉっと開けて、微かにうっすらと甘い香りが漂う。
練り香水ってちゃんと付けた事がない。
付ける場所がスプレータイプのものと同じなのか、どれぐらいの量なら適当なのか、その辺りを知らないから、ちょっと敬遠しがちというか。
でも、この香りは優しくて柔らかいし、付け易そうな感じ。好きかも。
バニラっぽくてほのかにスパイシーなその香りに引き寄せられて、指先を付けた。
元々強くないらしい香りは、指でひと撫でしたぐらいの量がちょうど良さそうで、手首や首すじ、耳たぶに付けても気にならないと思う。
ちょっと貸してもらおう。
擦り込むように手首に付けた時、玄関のチャイムが鳴ったのに気付いたけど、お母さんもいるから大丈夫と、そのまま首すじや耳の後ろに少しづつ付けていく。
ふんわりと香る、程よい甘さが心地良い。
その香りに浸れば、呼応して思い出す結城先生の姿が胸を切なくする。
今先生、何してるだろう…なんて思いながら小さな蓋をそっと閉めて、お母さんがひょっこり顔を覗かせた。
「サキ、学校の先生がいらしてるんだけど…。」
伺う様子で鏡越しの私を見たお母さんの問いに、甘さも切なさも瞬時に消え去る。
思わず振り返り、お母さんをまじ、と見て。
「学校の、先生…?」
「ええ、私は直接お会いしたことがない先生。結城先…」
「っ!!」
「…サキ?」
声の途中で洗面所を飛び出した。
なんで、結城先生─────
パタパタと足を急かせた先、玄関には間違えなく結城先生の姿。
私を見た先生は、とてもとても優しげに微笑む。
「携帯に掛けたんやけど留守電やったから直接来てしもた。
突然訪ねてごめんなぁ。」
「先生…ど、して…」
「ああ、それも含めてな、デートの誘いをしに来たんや。」
微笑んだ唇が告げたその言葉に、声は喉の奥で溶けていく。
嬉しいのに、すごく嬉しくて泣きそうなぐらいなのに、こういう時って口の機能が麻痺するんだろうか? 何も出て来ない。ただ睫毛だけが忙しく瞬きする。
なんだか頭の中が真っ白になっていく感じ。
「…、」
「もしかして予定が入った?」
「…いえ……。」
「ほな、俺とデートしよう。」
すぐに出てこない声の代わりに、首を何度も縦に振って。
「はい…、」
やっと口に出来たその返事のあと、ぽつりと零れた涙には、自分で気付かない振りをした。
嬉しくて泣くのは、もうちょっと後になってから…