日陰から日向へ1
小さく鈍く、そっと響く、薄いガラスの当たり合う音。
カチカチと、囁くように。
この音にこんなに反応するようになったのは結城先生の所為だ。
化学はあまり好きじゃなくて、むしろ苦手だった。
なのに、文系志望の授業選択で当然のように避けたことを悔やむなんて。
学校の先生を好きになるなんて、思ってもみなくて…。
自身で気付いてから今まで、誰にも言えない恋だったけど、それもあと二ヶ月ちょっとで終りを迎える。
寂しくて悲しくて、放課後にはつい覗きたくなる、この化学準備室。
ただ、無闇には来られないから、実際に足を向けるのは特別な何かがあった時にしている。
二学期まで園芸部にいた友人から、その時々のハーブや草花を貰った時とか。
今日はさっき中庭で友達といる時に四葉のクローバーを見つけたし、十二月に入ってからセンターが迫った校内はどこかガランとして寂しいから、なんだかとても結城先生に会いたくて、来てみた。
覗いた準備室で見受けた先生の白衣姿を
その小さな緑をひっそりと、密やかな気持ちを示すように、スチールの棚の中に並んでいる試験管の一本へ挿す。
茎を長く摘んできた今回のクローバーは試験管の高さと合って、ちょっと嬉しい。
先生に見せたいけど、見せたらきっとまた取ってしまうだろう。
だから先生が気付くまで、このクローバーのことは言わない。
自分だけ楽しむようにその緑へ小さく微笑んで、後ろから「あ、」という、何かに気付いたらしい先生の声が聴こえた。
「奥川さん、またそーいうこと。」
あー…もう見つかっちゃった…。
そう思う間もなく横から長い指が伸びて試験管を取り、結城先生はクローバーをちょいと摘み上げる。
白衣の袖に覗く手首。その少し骨ばった感じが好き。
「こういうのも嫌いやないけど、ここは化学準備室やし、先生は生物担当とちゃうか
らなぁ。」
ちょっと困った顔をして、でも、小さく微笑んで。
小さな悪戯に小さな優しさで返してくれる、そんな所も。
「はい…。」
「試験管、実験室で洗っておいで。
このちっこいのは、こっちのビーカーに…て、これ四葉やん。」
「あ、気付いてくれたー。」
試験管をこちらに差し出した後、指に摘んだクローバーの葉をじっと見た先生の瞳が、感心した様子で私に移った。
こんな風に些細な事にもちゃんと気付いてくれる所や距離を取らない空気感も、全部好き。
ついいっぱいの笑顔を見せてしまう。
単純だと自分で思うぐらい。
「どこで見つけたん?」
「中庭の、廊下側のベンチの下よ。」
「そぉか、あの辺、陽当たりええしなぁ。
けど、良ぉ見つけたな。せっかくやし、押し葉にしよか。」
先生は手にしていたビーカーを、狭い室内の真ん中でどっしり幅を効かせている実験用机に置き、奥の棚の方へ歩いていく。
「奥川さん、本棚から分厚い本、何冊か出して。埃被ってるヤツな。」
「埃…?」
「あんまり使うてなさそうな本、てことや。」
「あ、はい。」
これから押し葉を作るんだと知って、また一段と嬉しくなった。
先生と二人だけで何かを作るのはこれが初めてかも知れない。
以前、とても簡単な実験をやった事はあったけど、結果が形になって残った訳じゃないから。
化学の授業でも延長でもない、ただの押し葉作りに胸は高鳴る。
洗ってくるように言われた試験管に付箋を貼り、試験管立てに入れてから、手を伸せばすぐに届く壁側の本棚に向かい合って、言われた通り埃っぽい本を三冊ほど選んだ。
一冊づつ、ぐいっと引っ張り出して、ちょうど霧吹きと新聞紙を手に戻って来た先生へ確かめる。
「先生、この本で大丈夫?」
「ん? ああ、大丈夫や。どれも全然使うてない。重さも十分やな。」
「良かった。」
「じゃ、この新聞紙をクローバーの大きさに合わせて切って。」
持ってきた新聞紙を私に渡す先生の指。
受け取ってほんの微か、指先が触れて。
トクンと小さく音を立てる私の心臓。
指先から続く掌まで、温度が上がったような気がした。
もしかしたら、単に暖房が効いていたからなのかも知れないけど。
その微熱と速くなる胸の音を切なく感じながら、新聞紙を切り始めた。
押し葉作りは簡単で、新聞紙などに葉っぱを挟み、平らな物の間に置いて重しを乗せるだけという、作業らしい作業のないものだ。
小学校低学年でも出来るから、確か1年生の時、夏休みの自由研究でやったような覚えがある。
先生にそれを話したら、「そぉか、奥川さんも小学1年生の頃があったんやね。」と、眼鏡の奥の瞳を細めて言われた。
いつもの柔らかい口調はからかいがちで、でもどこか感傷的で、次の言葉が喉の奥に戻ってしまう。
そのすぐ後、スピーカーから結城先生を呼び出す放送が響いて。
「なんや呼び出されたみたいやな。
試験管は先生が洗っておくから、奥川さん、そろそろ帰り。
もう3時になる。」
「…はい。」
「今年最後やから、よいお年を。て言うとこか。」
クローバーが挟まっている本の上、重しにした一冊の装幀に目を落とした先生は、そんな寂しいことを口にした。
でもそれは、紛れもない事実。
「クローバーは三学期の始業式に取りにおいで。ちゃんと押し葉になってるから。」
───今年、最後…なんだ……
改めて気付いた時間の経過に、胸がきゅっと締め付けられていく。
「推薦で一足先に大学が決まったて言うても、冬休み遊び過ぎんようにな。
ほな、また三学期。気ぃつけて帰るんやで。」
「あのっ、せんせ、待って。」
顔を上げて私を見た先生がドアの方へ行こうとするのを咄嗟に引き止めた。
眼鏡の奥の目を見張った先生は驚いた様子を露にしていて、振り仰いだ私の勢いを削ぐ。
けれど、どうしても言っておきたかった。
冬休みにまた、出来たらクリスマスに会いたいって。
今年最後の言葉は学校の外で聞きたいって。
ドアへと向きかけた足がこちらに戻る。
「…どないしたん?」
きっと無理だけど。
今言おうとしていることは、間違えなく先生を困らせてしまうけど…。
「…私、クリスマスに先生と会…、」
じっと先生を見詰めたまま、最後まで言わせて貰えずに固まった。
先生の右の人さし指が、私の唇に触れたから。
「言うたらあかん。」
じっと私を捉える瞳が微かに揺れて。
気のせいなんかじゃない、確かに甘苦しく。
「ここは学校で俺は教師や。ええよ、て言いたくても言われへん。
それで聞くんは流石にこたえる。」
触れた指はほんの僅かでも、唇にしっかり先生を伝える。声だって熟れた果実みたいに甘い。
それを実感した途端、目眩を覚えた。
心臓はあり得ないぐらい音を強く速くして、激しく胸を打ち付ける。
窒息するかも知れない、そんなことを思うほど。
この人は指先一つで私をこんな風にしてしまえるんだ───────
「……、」
「意味、分るやろ?」
そっと離れていく指が酷く優しく感じられて、泣きそうになる私。
「せん、せ…」
「頼むから何も言わんとってや。な?」
先生は一度小さく苦しげに微笑んでから、白衣の背中をこちらに向けた。
その背中も声も言葉も、全部がくるくると回る。
眩み掛けた意識に立っていられなくなった私は、先生が準備室を出るのと入れ違いで崩れるようにしゃがみ込んだ。
頭の中を整理しようとしても、何も考えられない。
唇に残る指の感触と甘い声、苦しそうな表情や言葉がまだ信じられなくて。
今の短い間に一体何が起こったんだろう?
告白ではないし、気持ちを受け入れてもらった訳でもないけど、確かな何かを貰った。
ということは、相思相…
そこで考えるのを止める。
深く考えたら、夢みたいに消えてしまうような気がして。
先生…結城先生……
しばらくしゃがみ込んだ化学準備室で、結城先生の名前を繰り返し思った終業式の午後。
これが嘘じゃないことを実感したのは、家に帰ってから。
先生が俺って言ったの、初めて聴いた…─────
気付いた一つの事実に心を奪われたのは言うまでもない。
それからずっと、次の日も。
あの時の先生に心を奪われたまま、クリスマスをどうするか考えていた。
やっぱりちゃんと聞きたい。確かめたい。
学校がだめなら外で聞かせてくれるんじゃないかと、でももう予定が入っているかも知れないし、以前先生に教えてもらった携番をディスプレイに見て、溜息をついて、また悩んで。
決められない答えと決めたい気持ちを行ったり来たりする冬休みの入り口は、散々対策を考えた入試問題より複雑だった。