後編
もらった言葉が魔法をかけたみたいに、コーネリアの心はさきほどまでとは打って変わって落ち着いている。
今宵の主催は王妃様だ。家族でご挨拶をするときも、背筋を伸ばし、お辞儀をして、準備していた言葉を間違えることなくお伝えすることができた。うつくしく微笑んだ陛下に短いながらも直接お言葉をいただき、下がった後も母からなにも言われることもなく、ようやくほっと肩の力が抜けた。
なんとか乗り越えたと思ったのだけれど。
「ご覧になって、あの青いドレス」
「今宵はロッシュ公爵夫人方が青をお召しになるというお話でしたのに」
ひそひそした声は、確実にこちらへ聞こえるくらいに落とされていた。
コーネリアの顔はさっと蒼くなる。
視線だけ動かせば、誰のことを言っているのかすぐにわかった。
陛下たちのお席にほど近いところで談笑されている方々の中に青い色があった。
棘を含ませた言葉通りならば、濃い青色のドレスがよくお似合いのご婦人がロッシュ公爵夫人で、その横にいらっしゃる青いドレスの女性がご子息に迎え入れられたご令嬢だ。宰相であるロッシュ公爵に寄り添う夫人も、ご子息に微笑む若いご婦人も、きれいなきれいな青色をご自分のものにしている。
舞踏会では装飾品の色指定はない。けれども、そういった前情報で避けられる色は存在する。
母を盗み見たが、顔色が悪いもののご令嬢たちの声など聞こえていないと背筋を伸ばして澄ましている。
コーネリアはため息をこっそりと吐き出した。
たぶん、たぶんだけれど。母たちは知らなかったのだろう。加えて、母も顔を覚えるのが得意ではないと、コーネリアは思っている。だからあの青いドレスのご婦人たちがどなたなのか、今ようやくわかったところだ。
これはもう、どうすることもできない。
せっかくあの方がきれいに髪を整えてくれたとしても。もうこの社交の場にコーネリアの居場所はなくなってしまったようなものだ。
もしかしたらあの方も、ドレスを見て呆れていたかもしれない。コーネリアの手にぎゅっと力がこもる。彼のお姉様が公爵家へ嫁がれたのは去年のこと。両家の仲も良好と聞いている。
それでも馬に迂闊に近づき、青いドレスをまとったコーネリアに手を差し伸べてくれたのだから、きっとやさしい方だ。顔はおぼろげで、長い睫と碧い瞳と、めずらしい髪色だけしか思い描けずコーネリアはひどく残念で、頭の悪い自分に嫌気が差した。
あの方から心遣いをいただけたことを思い出にしよう。背を押してくれた言葉をこの先の自分の慰めにしよう。
視界が滲んできたけれど、コーネリアは母と同じく顔を上げて、背筋を伸ばした。
「ああ、こんなところにいたんですね。――探しましたよ、コーネリア嬢」
だから、ざわめきのなかにはっきりと響いた声に息が止まってしまった。
その場にいた、父や母、コーネリアたちを視界の端に入れていた貴族たちも含めて、言葉を止めて視線が動く。
グレーの上着、金糸の刺繍、ピンクブロンドのきれいな髪、落ち着きのある声色。
立ちすくむコーネリアへ、ユーグ・ウェンズウッド様がまっすぐと歩み寄った。
「自分と似たドレスを着ているならきっと気が合いそうだから話してみたい、などと言っている人がいるので。もし嫌でなかったらあなたの時間をいただいても?」
静かに響く声に、言葉を詰まらせたご令嬢は一人や二人ではなかった。
信じられないと言わんばかりに目を見開く周りと同じく、コーネリアだって何が起こっているのかわからない。どうしてこの方が、コーネリアに手を差し伸べているのだろう。
「でも、その前に。もしよろしければ、踊ってくれませんか」
どうして、居場所をくれるのだろう。
壁際から、滲んだ視界で見つめていたところへ立つことになるなんて思いもしなかった。
流れる動作で手を取り音楽にいざなわれる。
家でのレッスンとは、なにもかもが違った。
頭が真っ白ではステップなんて踏めるはずもないのに。手を取っているその方の動きで、間違えることも足を踏むこともない。こんなに踊りやすいなんて、初めてだった。
グレーの上着、導く手、見下ろしてくる視線に、心臓がうるさいのだって、初めてだ。
「どうやら、僕はあなたを困らせてばかりのようだ」
コーネリアに聞こえる声で彼は苦笑を浮かべた。
戸惑ってばかりだからそう思わせてしまった。コーネリアは慌てて口を開こうとするが、うまく言葉にできず空気が音にもならない。すると相手は小さく首を傾げる。
「ダンスは好きなの?」
「は、はい」
くるり、とターンして、また戻る。
「うん、上手だ。もう一曲踊る?」
「えっ、そんな、あの」
「少し目立ちすぎたから休憩のほうがいいか」
ちらりと周りへ視線を走らせてから、目の前の紳士はいたずらっぽく瞳を輝かせた、ように見えた。
どきりと胸が音を立てたのにコーネリアは自分で戸惑う。
音楽が鳴りやむのに合わせて、近かった距離が、少し離れる。それがほんの少しだけ、胸をざわざわさせた。
よくわからなくて胸に手を当てるコーネリアへ、彼は背をかがめて視線を合わせる。
「姉にはまた後日と伝えておくから、心配はいらない。では、また」
また、というのは社交辞令だろう。
さすがにあの両親でさえそう思った。だから翌日、ユーグ・ウェンズウッド様からシルヴィス家に手紙が届いたことに誰もが驚いた。この手紙は本物だろうかと表裏ひっくり返すが、封蝋も運んできた従者も紛れもなくウェンズウッド家のものだ。
半信半疑のまま父が中を確認すると、並ぶ文字は簡単な挨拶を述べ、コーネリアの体調を伺い、また会えないかと続いていた。
示された日は、三日後。
都合が悪ければ別の日を指定してほしいとも綴られていて、母に急かされた父は、もちろん三日後に会う許可を出す。コーネリアは母の浴びせる言葉を聞きながら、震える手でお会いする返事を書いたのだった。
「ごきげんよう、コーネリア。急な誘いを受けてくれてありがとう」
馬車で迎えにきてくださった方は、記憶のとおり静かな声色で。両親にきちんと挨拶をした後でコーネリアを馬車へ乗せた。
街の少し東にある湖の畔に行かないかと彼は言った。
コーネリアはもちろん異論などあるはずもなくうなずく。そしてこっそり、自分の格好を確かめる。
どこかおかしくないだろうか。クリーム色のワンピースにレースのショールを羽織っている。髪はまとめず、丁寧に丁寧にとかして少しでも艶が出るように頑張った。そばかすも、瞳の色も、変えることはできないけれど。少しでもマシに見えてくれたらと祈るばかり。
この状況がまだ信じられなくて、目の前の方はやはりきれいで、先日のデビュタントとは違った緊張がコーネリアをいっぱいにしている。
戸惑いを察したのか、相手はくすりと笑みをこぼした。
「どうぞ、僕のことはユーグと」
「は、はい」
「散歩に行くようなものだと、気楽にしてくれたらうれしい」
「は、はい」
そう仰ってくれたが。もちろんコーネリアは散歩のようにとは到底思えなかった。
しばらくして走っていた馬車が停まり、御者から声がかかると、先に立ち上がった方に連れられ外に出る。
目の前には澄んだ湖面と、緑の木々。
わあ、と思わず声を出してしまったコーネリアは慌てて口に手を添える。けれども隣の方は気にした様子もなく目元を和らげると、御者に馬を休ませるよう言いつけた。御者はそれに従い轅を外し、二頭の馬の手綱を引く。
きっと水を飲んだり草を食んだりして休憩するのだろう。身軽になってうれしいのか鼻を鳴らすのを見ていると、かすかな吐息が隣で落ちた。
「触ってもかまわない。今度はいたずらさせないようにするから」
コーネリアが思い悩むより早く、彼はその顔を覗き込む。
「僕の思い違いでなければ。きみも馬が好きでしょう」
う、と言葉に詰まった。
見下ろしてくる目には咎めの色も呆れもなく、コーネリアはおずおずと口を開いた。
「それは……その、好きです。ですが、普通のご令嬢はそうではありません」
「家では、息がつまる?」
なにか察するものがあったのか、紳士が静かに尋ねた。噂の通り賢い人なのだろう。迷いも戸惑いも見透かされてしまいそうだ。
コーネリアはうまく自分の気持ちが伝えられないかと、持ち得る言葉をどうにか引っ張り出す。
「弟にとってはちゃんとした両親です。わたしには少しだけ関心がないだけで」
相手が何かを言う前に、コーネリアはやんわりと首を振って言葉を付け足す。
「ですが、それを誰が責められますか。父も同じように家督を継ぐ期待を背負い、母もまたきちんとしたお相手へ嫁ぐことを求められたはずです」
だからいいのだ。背筋を伸ばして微笑むと、目の前の方は黙ったまま、まっすぐとコーネリアを見つめていた。
金色の睫毛、青い瞳、輪郭は少し鋭利で鼻筋が通っている。
ようやくコーネリアは相手の顔がはっきりとわかってきた。きっと寝る前に舞踏会や今日のことを思い出しても、今度こそお顔がはっきり浮かぶはずだ。それがうれしくて、また頬が緩んでしまう。
「そうか。きみがそう言うのならいい。口を挟んですまなかった」
「い、いえ、あの……お気遣いとてもうれしかったです」
もごもご言うと、隣からくすりと笑う声がした。
「触りたくなったらいつでも言うといい。さあ、少し歩こうか」
コーネリアがこくりとうなずくのを待ってから、差し伸べられた手が湖の畔へとやさしく促す。
足取りは軽く、かといって早いわけではなくむしろ穏やか。
口数が多い方ではないが、言葉や仕草からコーネリアを気遣う様子がうかがえて。コーネリアはまた胸がざわざわしてしまう。こういうとき、ご令嬢たちはどうするのだろう。考えてもわかることはなく、聞き逃さないようにきちんと彼の話に耳を傾け、相槌を打ち、自分のなかにある知っていることや思ったことをどうにか伝えた。ただ、自分のできることをした、それだけ。
それなのに時間はすぐに経ってしまって、日が傾き始めたところで馬車に戻ることになった。
馬車に揺られながら来た道をたどり直していく。
きらきら輝いていた湖面も、頬をなでた風も、途中で休憩した木陰も、どれもこれもがすてきだった。もう家までいくらもない。終わってしまうことが惜しくて、コーネリアはため息がこぼれた。
そして慌てて手で唇を覆う。
ユーグ・ウェンズウッド様とこうして過ごせることは奇跡みたいなものなのに、いつの間にか自分の気持ちが大きくなってしまっていて驚いたのだ。またこうしてお会いできたらと思う。けれども、自分は冴えない男爵令嬢。本当に、どうしてこの方は――
「……ところで、コーネリア」
「はい」
物思いにふけっていたコーネリアは、はっとして背筋を伸ばした。
馬車がもう、家の前に停められる。伝わっていた振動が収まって、御者から声がかかり、もう外に出るこのとき。
碧い目が、じっとこちらを見つめている。
「きみはいつになったら僕の名前を呼んでくれるの」
呼んでよいとお許しをいただいたことを、忘れたわけではない。
しかし、呼べるかはまた別の問題のような気がして。
「それは、その、」
呼んでしまったら、胸のざわざわがもっとひどくなるんじゃないか。それが意味するものは、自分には恐れ多い気持ちなのでは、とコーネリアは思う。思うからこそ、軽々しく呼ぶことができなかった。
言い淀むコーネリアに、彼は手を差し出す。
あまり馬車にこもっているのも不自然だからだろう、馬車から降りて、そこでまた向き合った。
「お願いしたら、呼んでくれる?」
くいっと手を引いたその人は、首を傾げてコーネリアを見ている。
相手のほうがずいぶん背が高いのに、どうしてか見上げられているような気がしてコーネリアの頬が赤くなった。弟のおねだりとはまた違う、なにか。そこに自分が、期待してもいいのだろうか。夢を見ても、甘えても、いいのだろうか。
急かさず、ただ、答えを待ってくれているその方に、コーネリアは観念するしかなかった。
「……ユーグ様」
「うん」
よかった。小さくこぼしたその人は、コーネリアの見間違いでなければほっとしたように見えた。
いつも助けてくれる彼が、名前を呼んだだけでなぜこんな顔をするのだろう。
どうしてか恥ずかしくて恥ずかしくて。
コーネリアは誤魔化すように髪を耳にかける。震えた指のせいではらりとまた髪が落ちてくるから、またかける。顔が、赤くなるのが自分でもわかった。
「コーネリア」
はらり、と髪が耳から逃げた。
やわらかに微笑んでユーグがコーネリアの慌てた手を止める。こぼれたままの髪を彼の手が代わりにすくいあげていく。コーネリアの目は、それを馬鹿みたいにたどってしまう。
「また明日」
息が、とまった。
くすんだ色へ、唇が落ちたのは、どうして。
明日を約束してくれるのは、どうして。
その仕草にも言葉にもコーネリアが真っ赤になるとわかっていただろうに。
ユーグはじっと見つめてから楽しげに目を細め、やさしくやさしくその背を押してくれた。