前編
デビューデビューと耳にタコができるくらい言われ続け、ついに今日が奉納祭の舞踏会になってしまった。
コーネリアは真っ青のドレスに薄い水色のショールを羽織ってため息をつく。
細くて絡まりやすい髪はくすんだ金色。瞳はなんの特徴もない茶。極めつけに頬と鼻にはそばかすが散らばっている。そんな自分がどうしてこんなドレスを着ているのかというと、母の瞳がきれいな青で、母にこの色が似合って、そしてその母は自分に似合うものが娘にも似合うものだと思っているらしい。
コーネリアはどちらかというと父の色を引き継いでいるので、残念なことにちっとも似合っていなかった。
お金もかかるから、初めにきちんと言ったのである。たぶんだけれど、黄色や若草色のほうがマシに見えるのではと。
しかし、母は譲らなかった。
残念なことに思い込みが激しい質なのである。父が母と出会ったとき、青いドレスがよく似合うとほめてくれたのだそうだ。だからコーネリアも青にしておけば間違いないという考えらしい。
もっと言うと父と母は、歳が離れて産まれた6歳の弟が立派な紳士になるよう尽力することに忙しく、あまりコーネリアのことは気にかけていないところがあるため、ドレスが似合うかどうかなんて些細なことなのだろう。
父は、男爵を賜っている。爵位で言えば一番下のようなものだ。
弟が父の爵位を継ぐはずなので、彼が少しでも苦労しないように姉のコーネリアはもっとよい階級の家に嫁いで、万が一の後ろ盾になることが望ましい。というのがこのところの両親の考えだ。
それはわかるが。貴族の中では同じように考える家だって多いのだから、人々が振り返る美貌だとか、宮廷勤めで父同士が知り合いだとか、もともと家同士で交流があるとか、なにか突出したことでもないとその希望に沿うことは難しいとコーネリアは思っている。
そしてそんな伝手もなければコーネリアに人を振り向かせる魅力もない。だから両親が余計に弟を心配するし、コーネリアはますます変に期待されてしまう。
可能性が低いのなら、なにかお近づきになれるように手を打ったのかといえば。
もちろん両親はコーネリアのそこまでを考えておらず、ただただ、デビュタントできちんとした方とお近づきになりなさい、というわけだ。
馬車に揺られながらコーネリアはため息をかみ殺した。
弟が産まれるまでは、コーネリアが婿を取ることを考えていただろうから恥ずかしくないよう教育には力を入れてくれた。ダンスも乗馬もできる。けれどもなんと弟が産まれて家の方針はがらりと変わってしまったのだ。
そこに文句などないが。今度は別の期待だけ寄せるわりに手立てはないとくれば、気が重くなるのはしかたがないのではないか。加えて、コーネリアは人の顔を覚えるのが苦手でこういった場は気が抜けない。華やかなデビュタント目前にしてコーネリアの表情は曇るばかりだ。
そうこうしているうちに、馬車の進みが遅くなり王宮に到着してしまった。
父が下りると母の手を取り、そして弟が下りるのを手伝う。まだ日暮れまで少し時間がある。舞踏会は日没からになるため、時間より早く着いているようだが。
「こんな機会はあまりありませんから。大事な顔つなぎの場です。コーネリア、あなたは淑女らしくおとなしくここで待っていなさい」
顔つなぎは、もちろんコーネリアではなく弟のである。
ない伝手を少しでも作ろうと今から頑張るつもりなのだろう。ここで異論を唱えたところで両親が聞き入れてくれるとは思えず、コーネリアは母の勢いにビクつきながらもうなずいた。
「わ、わかりました。お気をつけて」
「いいですね、くれぐれも粗相のないように」
「はい」
そんなに心配なら、コーネリアも一緒に連れていってくれたらいいのに。そうはいかないのがこの両親だ。女性はおとなしく、自らではなく相手から見染めてもらうものらしい。母がそうだったから。なぜか、一度そう思うとそれが正しいと信じ込んでしまうのである。
もうコーネリアも16歳。親の考えはなんとなくわかった。
せかせかとお城の中に向かっていく背中を見送ってから、一人になり、ふうと息を吐く。
馬車に入ったまま待っていろということだが、まだ日没まで時間がある。御者から見える範囲ならば、少しくらい自由にしてもいいだろう。早めに戻っていれば親にはわからない。
少しだけ、ほんの少しだから。そう御者に言えば早く戻ってきてくださいねと困り顔で言われてしまった。けれども彼もコーネリアにちょっぴり同情的なので目をつぶってくれるようだ。
歩き回るわけにもいかず、誰かに会うわけにもいかず、できることなど限られているが。
コーネリアはすぐそこに見えた厩まで行ってみることにした。
乗馬は、好きだった。
男性のように乗せてもらえず横向きだったとしても、馬はかわいいし、風を切って進める清々しさがコーネリアの気持ちを弾ませる。だから、まだ弟が産まれる前はお許しがあったから、ちょこちょこ馬にも触れていたのだけれど。
今となっては、淑女たるもの云々と思い始めた両親に止められて、馬に接することがめっきり減ってしまった。
ぶるるっと聞きなれた鳴き声がする。
王家の厩はもっと奥にあるはずだから、ここは来訪者用なのだとコーネリアは思った。
一番端にいた鹿毛の、くりっとした黒い瞳と目が合ってコーネリアはきょろきょろと首を巡らせ、周りに誰もいないことを確認してからそっと近づく。
馬の匂い、尻尾が揺れる音、カツンと鳴る蹄。
何頭もの馬たちが思い思いに過ごしているのは、なんとなくコーネリアの肩の力を抜けさせた。
目の前の鹿毛もじっとこちらを見つめてくる。毛艶がよくて、まだ若い。
「こんにちは」
小さく挨拶してから、見上げて、嫌がっていないか窺う。ぶるるっと鼻が鳴った。まんまるの瞳。
とくに人見知りでもないようで、コーネリアはおずおずとその首に手を伸ばしたのだけど。
すぐに、その手を下ろした。
勝手に人様の馬を触って、お咎めを受けることにならないだろうか。それは避けたい。また母が声を荒げることになる。
馬を触りたいなんて母たちが望むご令嬢は思わないだろうし。だからコーネリアも、そうあってはいけない。粗相のないように、という声が頭の中に浮かんでため息がこぼれた。
そのとき。ふんふんと鼻息が耳元でして、はむっと。
はむっと髪を食べられた。
「え」
もしょもしょ。
飼葉を食むみたいに、コーネリアのまとめられた髪に鼻先を突っ込む。
びっくりして固まったコーネリアは、馬が自分の髪にいたずらしているとわかって、二度ほどまたたく。馬から遠慮なく唇を寄せられてしまったこの状況は、身をよじるともっとひどくなるだろうか。考えだすとますます動けなかった。
痛みは、ちっともない。でも、どうしたら――
「すまない、僕の馬だ」
コーネリアの肩が跳ねた。
いたずらされていることに気を取られて、誰かが近づいていたことなんて気づきもしなかった。
その人の声に、馬はぶるると鳴いて一歩動く。
くしゃくしゃになったコーネリアが顔を上げると、背が高くて若い紳士が馬に手を伸ばしていた。
「も、申し訳ございません」
落ちついたグレーの上着に金糸の刺繍が刺され、ピンクブロンドの髪とよく似合っている。
一目で立派な家の方だと見て取れて、その方の馬に勝手に近づいた自分の行動に顔が真っ青になった。おとなしく、くれぐれも粗相のないように、という母の声がわんわんと耳の奥に響く。
けれどもその方は胸元からハンカチを取り出すと、碧色の目でコーネリアを見下ろした。
「好奇心旺盛なやつもいるから、迂闊に近づかないほうがいい。――失礼、髪に触れても?」
「は、はい」
ハンカチをためらうことなくコーネリアの髪へすべらせ、馬が食んだところを拭ってくれる。目の前に、知らない人の上着があって、コーネリアは息が止まった。
家族以外の男性とここまで近くに立ったことがない。
「今日、デビュタント?」
ピンを取ってまで髪を念入りに拭いてくれる手は止めず、その人は固まっているコーネリアに首を傾げた。胸につけていたロッチェの花を模したブローチに気づいたようである。
社交デビューする貴族の子供は、国花であるロッチェの花を身につけることが暗黙の了解となっているのだ。
「は、はい。申し遅れました、コーネリア・シルヴィスと申します」
「ああ、男爵家の……僕はユーグ・ウェンズウッド。コーネリアとお呼びしても?」
「は、はい」
「残念だけど、このままでは出られないから髪を直そう」
さらりと静かに言うものだから、コーネリアは驚いてしまった。
彼は、コーネリアの記憶が正しければ伯爵家の次男で、母がいうところのコーネリアが射止めなければならない立場の方で、そして普通だったらお近づきになれる方ではないはずだ。
その手を煩わせることは、淑女らしいとはいえないだろう。
コーネリアは笑みも浮かべず、しかし怒っている様子もなく、静かにこちらを窺っている相手に慌てて口を開いた。
「で、ですが、わたし、お母様になにも言わずに来てしまって――」
「大丈夫。僕が一緒だ」
きっぱり。
そう言うだけで腕を差し出す。
コーネリアに断る術もなく、確かにこのままでいることもできず、おずおずと手をその腕へのせた。
父以外にエスコートされるのは初めてのことである。
慣れない靴で遅れないよう歩き出すと、まっすぐ城の中へ向かって行くから勝手に手に力が入ってしまった。
「馬が好きなの?」
上からの声にコーネリアはびくりとしてから目を丸くする。
歩みが少し遅くなったことにほっとしている場合ではなかった。馬に近づいたことがやはり気に障ったのだろうか。
「あ、ええと、馬は……」
急かすことなく返事を待っている碧い目に、コーネリアの気持ちはどんどん曇っていった。
淑女らしく。母の声が聞こえた気がして、ふるふると首を振る。
「……いいえ、ただ、見ていただけです」
「……そう」
逃げるように目を伏せると、じっと向けられる視線を感じたけれど。
それ以上言葉を重ねることはせず、広い回廊へと導かれた。
ウェンズウッド伯爵は、王族に近しいという噂は正しいらしい。
案内された部屋はおそらく彼らの控室として用意されている。コーネリアにとってはどう考えても場違いであった。
部屋に通されて椅子に腰かけるよう引かれ、されるがままにコーネリアは従った。どうしたらいいのかまったくわからず、ひたすら失礼のないよう注意するしかない。
コーネリアが固まっている間にユーグ・ウェンズウッド様はメイドに指示を出し、従者にもなにか耳打ちし、コーネリアにもここにいるよう声をかけてから出ていった。取り残されたコーネリアは、メイドたちがテーブルにお茶を用意したり鏡や櫛を並べたりしているのを黙って見ているだけ。
どうしようどうしようと、内心で慌てている間にコンコンコンとノックが響き、部屋の主が戻ってきてしまった。
「少しの間我慢して」
そう言う相手にコーネリアは恐縮で体が強張る。
髪からピンを外し櫛でとかすのは、メイドではなくユーグ・ウェンズウッド様だった。
控えているメイドたちへ戸惑って視線を向けると、彼女たちはコーネリアへ微笑んで佇むだけ。
背筋を伸ばして固まるコーネリアは、手際よく髪をすき、器用に編み込んでいる指を鏡越しに追うことしかできない。細くて絡まりやすい特徴のない髪がまとまると、後頭部で丸められ、白いリボンが結ばれた。
「……髪を整えることができるのですね」
思わず、小さく声がこぼれた。
それに相手は気にした様子もなく肩をすくめる。
「少し前まで、気まぐれにやってくれと言われることがあって。真似事をしたことがあるだけだ」
はい、できた。その声に視線を鏡へ戻すと、すっかりきれいになった髪が映っている。
深々と頭を下げて礼を述べると、どういたしましてとあっさりとした返事があった。片付けは頼むとメイドたちへ言い残し、彼はまた手を差し出した。
「そろそろ会場へ向かおう。悪くない時間だ」
窓の外は、ほんのりと橙に染まってきている。
あっという間に時間が過ぎていたことにコーネリアはまた驚いた。これからが本番なのに。もう頭も胸もいっぱいで苦しいくらいだ。王妃様へのご挨拶もして、たくさんの貴族たちの視線も浴びなければならないのに。
きゅうと胃が縮むみたいに痛む。こんな失態もしてしまった。せめて舞踏会のなかでは、母たちの期待にどうにか応えなければ。今度こそ、淑女らしく、粗相のないように振舞えますように。
自分にそう言い聞かせたとき、こちらを窺う碧い目にはっとする。待たせてしまっていることに慌てて、コーネリアはその腕に手をのせて導かれるまま足を踏み出した。
「コーネリア!」
「はいぃ」
中庭を通り越して、その先にあった回廊に差し掛かると飛んできた声に肩が跳ねた。
父と母、そしてちいさな弟の姿が見える。
明らかに母は怒っていた。言いつけを破ったことはもちろん、男性の腕を取って歩いているなんて由々しき事態だ。きゅうと胃が痛む。
反射的に返事をしたコーネリアに、隣の方がまたたく。長い睫が影を作って動くのがきれいで、コーネリアは一瞬言葉がでなかった。それに相手は小さく笑う。
「大丈夫だ」
そっと囁いて、両親の前にコーネリアを連れていく。そして、一礼。
「初めましてシルヴィス卿。ユーグ・ウェンズウッドと申します」
はっと母が息をのんだ。
その横で父は動じることなく、慎重に口を開いた。
「畏れ入ります。娘が大変なご迷惑を」
「いいえ。どうか彼女のことをお叱りにならないでください。私が勝手に連れ出したのです」
ゆっくりと首を振るのに合わせて、ピンクブロンドの髪が揺れる。
父も母も、それ以上なにも言わなかった。とん、とコーネリアの背を押して彼はうなずく。
「大丈夫。初めてのことは、誰もが怖く感じる。背筋をのばして微笑むだけでいいんだ」
静かな声まで、コーネリアの背を押すみたいで。
驚いて目を丸めたけれど、ではまたと一言残して大広間への扉の向こうへ消えてしまった。