エル
「ここが僕の借りている宿です。二人なら少し狭いかもしれませんが、ちょっとの時間なので我慢してください」
「……」
女の子は何も喋らない。
無視をしているというわけではなく、頭の理解が追いついていないのだろう。
何を話したら良いのか分からない――といった様子だ。
「大丈夫ですよ。引き取ってくれる所が見つかったら、貴女は自由になれるんですから」
「エル!」
「……はい?」
「エルの名前はエル! エルの名前は『貴女』なんかじゃない!」
女の子――エルが初めて発した言葉は自分の名前だった。
このような自己紹介は、人生経験豊富なイツキでも初めてである。
「エルちゃんですね、分かりました。とりあえず座ってください。何か出しますから」
「え? 座っていいの?」
「どうぞ」
「……ありがとう」
エルは申し訳なさそうにソファーに座った。
思ったよりも柔らかいソファーだったのか、落ち着かないように腰を動かしている。
どうやら座ることには慣れていないようだ。
「お腹が空いているでしょうから、沢山食べてくださいね。味はともかく、毒は入っていませんので」
「――! エルはお金持ってないよ!」
「いやいや、お金は必要ないですよ。そんなことは心配しなくて大丈夫です」
イツキが即席で出した料理は、至ってシンプルな肉料理である。
店で買った鳥を、丸々一匹焼き上げただけに過ぎない。
コストパフォーマンスを重視した料理だ。
「はぐっ!」
そんな安い料理であるが、エルはお構い無しに食べる。
口元が汚れることも気にせず、まるで犬のように食いついた。
それほどお腹が空いていたのだろう。
気持ちがいいほどの食べっぷりだ。
「……食事はいつぶりですか?」
「三日くらい」
「……なるほど。今日はゆっくり休んでください」
イツキの問いに、納得出来る答えがエルから返ってきた。
三日ともなれば、立っているだけでも精一杯なはずである。
そんなエルの食事を、邪魔するわけにはいかない。
イツキは、栄養を摂るのに必死なエルを見つめることしかできなかった。
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「お腹いっぱい。けぷ」
「それは良かったです」
エルは、膨れ上がったお腹を擦りながらソファーに寝転ぶ。
もうこの空気には慣れたようで、遠慮するような素振りは少なくなっていた。
「もし嫌なら答えなくても大丈夫ですが、エルちゃんは何か別の種族だったりしますか?」
「……よくわかんない。でも、エルが最後まで残ったのはそのせいかもしれない。やっぱり、人間じゃなかったら……嫌?」
エルは、最初に出会った時にしていた不安そうな顔を、もう一度イツキに向ける。
この様子だと、イツキの答え次第でエルに甚大な影響を与えることになるだろう。
イツキはこれまでの旅で、種族など飾りでしかないということを理解していた。
良い魔物もいれば、悪い人間だっている。
大事なのは本人なのだ。
その本心を隠すことなくエルに伝えようとした。
「そんなことはありません。エルちゃんにはエルちゃんの魅力がありますから」
「……へ?」
エルの顔が真っ赤に染まる。
透明感のあった肌の面影は、既になくなっていた。
イツキは、エルを慰めるつもりで言った言葉だったが、幼いエルはそのまんまの意味で捉えてしまったらしい。
つまり、告白じみたセリフということだ。
「食べ終わったなら、お風呂に入って寝るようにしてください。宿の設備ですから、満足するまで使っていいですよ。僕は先に寝ますから」
「あ……う、うん……」
エルの手に宿の浴衣が手渡される。
宿で用意されていた浴衣であり、そこまで高価な品ではないが、エルが今着ている服に比べたら何倍も上だった。
「明日はちょっとだけ早く起きますから、夜更かしはしないようにしてくださいね」
「分かった……」
エルは、使い方の分からない設備に苦労しながら、何とか汚れた体を洗い始める。
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イツキは椅子に座って眠っているため、エル用にベッドが空けられていた。
初めてだらけの出来事に、体は予想以上に疲労していたようで、エルは倒れるように眠りにつく。
風邪をひかないように――と、イツキがエルに布団をかけるのは数分後のことである。