序
梅雨があけて一ヶ月。
家から学校に向かうにあたって問題がふたつある。
ひとつは日陰がないということ。
今が正午で真上から太陽が照りつけるという状況であれば、それもやむないかと思うことができる。
しかし、俺はそこそこ真面目な生徒なので登校は朝だ。
厳密に言うのならば現在七時四十五分。
太陽だってまだまだ低い位置にいるにも関わらず、それ以上に建物が低いせいで影が小さい。
恒星と建造物で高さを比べるのもおかし。
とにかく、押し潰さんばかりに降り注ぐ直射日光を防ぐものが何もないということだ。
もうひとつは登り坂。
先述した通り、ここにも日陰はない。
日光を浴びながら、えっちらおっちらと坂を登らなければならない。
これは一体何の苦行だ?
授業を受ける前に試練を受けるとは、これ如何に。
そうした哲学的思考を経て、ようやく学校へと着く。
舞鶴第一高等学校。
山の上に建てられた百年以上の歴史を持つ由緒ある学校だ。
その歴史を感じさせる古びた学び舎。ただし、冷暖房完備。
青々と生い茂る桜の木の横、ロータリーを抜けて下駄箱へと向かう。とても重い足取りで。
別に坂を登ったせいで疲れている、とかではない。断じて、ない。帰宅部とはいえ毎日登下校しているのだから最低限の体力はついているし、体育ではそれなりにアグレッシブな方だ。
重いのは足ではなく、気の方だった。
気が重いので、必然足取りも重くなる。
気のせいで足取りが重くなっている。いや、それは気のせいとかではないけども。
ややこしくなってきた。
日本語の難しさを痛感しながら二階の教室へと向かう。
靴を履き変えるのも、階段を登るのも、廊下を歩くのすらスローペースになっていたが時間には余裕があった。
むしろ、ちょうどいいくらいの時間だ。
この億劫な気持ちを朝のうちに払っておきたかったからいつもより少し早いこの時間に登校した。普段なら始業の三分前に教室に入る。
ドアをあけて教室の中を見渡していると、彼は視界の外から現れた。
「おはよー、誰か探してるの?」
百八十以上ある長身に、整えられた短髪、穏やかな表情をした大泉壮介だった。バレー部次期エースで、見た目も良ければ性格も良い。その上、勉強までそつなくこなすという弱点のない男。
朝から爽やかなヤツだな、と心の中で独白しながら口はおはようと動かした。
「別に誰も。この時間でもみんな来てるんだなと思って」
現在始業三十分前。既に生徒の八割は席についている。三分前だとそのまま出欠確認ができるくらい、空席はイコールで休みだと分かるくらい席が埋まっているものだ。これだけまばらな教室には違和感を覚えしまうというのは本当だった。学級閉鎖直前みたいな。
「いやいや、これくらい普通だから。むしろ、悠真が遅いんだよ。あんなギリギリに来てよく遅刻しないと思うよ」
そうなのか。まあ、彼が言うのだからそうなのだろう。
そうなのだろうが。
「ギリギリじゃなくて、時間に正確なんだ」
実際、入学から一度だって遅刻したことはない。
成績も運動も平均を誇る無個性な俺の唯一のアイデンティティとも言える。一抹の虚しさがあるが。
「じゃあ、三分早いのは誤差ってこと?」
「……」
たしかに壮介の言う通りだった。こんな朝から屁理屈を屁理屈で返すとは、さすが朝型。俺と違ってすっかり覚醒状態のようだ。
「それに、かなりバイアスがあるみたいだけど?」
「……」
そのうえ追い討ちをかけるほどの余裕。まだまだ副交感神経が優位にある友人に随分と辛辣な言葉を投げかけてくる。
こんな状況で言い合いをしたところで勝ち目はないので、適当に返事をして席に向かった。
そこそこの進学校とはいえ、自習しているような生徒はおらず、ほとんどはおしゃべりしながらスマホをいじっている。
その中のひとり。
近づく気配に気づいた彼女は持っていたスマホを机に置き、その手を上げた。
授業中ですら見ることが稀有であろうキレイな挙手だった。
「ゆーくん、おはよ。どうしたの? 今日は早いね? 熱でもあるの? 病気なの?」
「どちらでもない。というか、どれもない」
登校時間は早くないし、熱もないし、ましてや病気でもない。
彼女は永倉美咲。小柄でいかにも女の子らしい見た目をしているが、無邪気とバイタリティをポジティブシンキングで混ぜたような性格をしている。
最初は俺のことを佐藤くんと呼んでたまに敬語を使うくらいだったが、知らない間にゆーくんと呼んでたまに茶化してくるようになっていた。
それが入学一週間の出来事。
距離の縮め方が半端じゃない。縮地法を極めてる。
席が隣で、壮介とも知り合いなのでよく話すようになった。
「熱が出て学校に早く来るって、それ、どんな病気? 超怖い! ワクチン欲しい!」
ウイルス性なのか? そもそも、どちらでもないと言った俺の言葉はスルーされているし。
イスに座り、一息。
その奇病については自分で調べてもらうとして、と前置きをしてから言う。
「俺も永倉さんに聞きたいことがあるんだけど」
「雑学と裏技の宝庫こと、私がなんでも答えてあげよう」
まともな知識がなさそうな肩書きを惜しげもなく披露してくれた彼女は、で、なに? と頬杖をついた。
いつものへらへらした笑顔が少し邪悪に見えた。




