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熱力学的雪女のあつい夏

作者: くろふ

和モノ夏企画に参加させていただきました!

 広々とした座敷は、冷え切った空気に包まれていた――――精神的にも、物理的にも。

 付け加えると、今は夏真っ盛りで、さらに言うと、この部屋にクーラーなんてものはない。

 だというのに、座敷の中にいる僕はまるで冷蔵庫の中に入っているかのような錯覚を感じていた。

 いや、恐らく錯覚ではない。事実、壁に掛けてある温度計は目に見えるスピードで目盛が下降していた。

 そんな座敷の中で、僕は正座をしていた――――ひとりの少女に見下されながら。


「ち、違うんだ璃緒。僕が言いたかったのはそういう事じゃなくて」


「問答無用」


 少女――――璃緒は、麦茶の入ったコップを手に取った。その瞬間、中に入った液体はあっという間に凍りつき、そしてひとかたまりの氷と化した。


「ほら、喉乾いたでしょ?麦茶あげる」


 璃緒はそのままグラスを傾けた。自分の口ではなく、僕の頭に向けて。

 麦茶色の氷塊は僕の脳天に見事に命中し、砕け散った。痛みと冷たさが頭に沁みて、顔が強張るのを感じた。

 璃緒はそんな僕の姿を見て、サディスティックに笑みを浮かべる。

 それに興奮を感じる余裕は、すでに僕の中にはなかった――――もっとも、平常時でもこれに興奮できるかは分からないけど。

 僕は寒さに震えながら、畳に落ちた氷の欠片を眺めた。

 これが、璃緒の力が生み出したものなのか、と。


「そう、これが雪女よ」


 これはついさっき知ったことなんだけど。

 璃緒は――――僕の幼馴染は、雪女らしい。












 何でこんなことになっているのか。

 それを説明するには、僕がここに来た理由と、彼女がここにいる理由と、そして――――僕の失言を話さなければならない。


「それで、私の何が昔と変わりないって?もう一回言ってみなさい?」


















 突然だが、僕――――鬼頭日向きとうひゅうがの初恋の話をしようと思う。

 まだ歳が十にも満たない頃、山奥の田舎で生まれ育った僕は同年代(といっても全学年で20かそこらの小さい界隈だ)でほぼ負けなしなほど運動が得意だった。


「小学生の中では、運動ができる奴がモテる」


 そんな言葉が本当かどうかは知らないが、結果として僕はまあまあモテていた。付き合いたいと思われていたかは置いといて、少なくとも多くの女子に好意を持たれていたことは事実だった。

 ――――たった一人、璃緒を除いて。

 

「アンタなんか弱いし遅いし、何がいいのか全く分からないわ!」


 そう、璃緒は、とんでもなく運動ができる子だったのだ。

 ある年の夏、突然転校してきた彼女は、その圧倒的な運動神経を以って僕を永遠のナンバー2に叩き落とした。

 かけっこをすれば僕すらも圧倒的に引き離し、腕相撲に至っては僕を吹っ飛ばす勢いで倒してしまった。

 僕は何度も挑み、そしてその度に負けた。ただの一度の勝利すらも許さない彼女の運動能力は、圧倒的だった。

 そして、そんな璃緒に、僕は――――どうしようもなく、惚れてしまったのだ。





「いつか、お前に勝つから!その時は僕と、付き合ってくれ!!」


「いいわよ。勝てるもんなら、勝ってみなさい!」





 小学校の卒業式、両親の都合で都会に引っ越すことになった僕は、璃緒とそんな約束を交わした。

 それが、僕がここに来た理由。


















「え、ヨーカン?羊羹あるの?おやつ?」


「お前は昔っから甘いもんが大好きじゃなぁ……違うわ、妖怪じゃ」


 中学三年の夏休み、地元の田舎に帰省した僕は、早々に祖父ちゃんに捕まってしまった。

 なんでも「元服になったお前に我が一族の秘密を話す」だそうで、僕は広くて蒸し暑い座敷に祖父ちゃんと二人きりだ。

 こんな田舎の農家の秘密なんて欠片も興味のない僕は、すぐにでも家を出て璃緒に会いに行きたかったんだけど。


「妖怪?妖怪ってあのゲゲゲの?」


「ゲゲゲ……まあそうじゃな。それと大体同じようなもんじゃ。いいか日向ひゅうが、よく聞けよ――――」





「ウチの一族は農家じゃが――――それは仮の姿でな」


「ふんふん」


「遥かな昔に異界に幽閉されていた妖怪たちと、人間の仲を取り持つ役目を担ってきたのじゃ」


「へー」


「この屋敷の裏にある祠がちょうど異界とつながる門になっとってな」


「なるほど」


「その門を守り、それぞれの世界の平和のために活動しているのじゃ」


「ふむふむ」


「わかったか?」


「祖父ちゃんがボケ始めたのは理解した」








 ……祖父ちゃんのパンチは思ってたより痛かった。


「いや、そんなファンタジーな話されて信じろっていうのが無理でしょ」


「まあ今から証拠を見せてやるからちょっと待っておれ」


「あ、ビャクじゃーん、久しぶりーー!!」


「話を聞けい!!」


 座敷に一匹の白猫が入ってきた。実家でずっと飼っているビャクだ。

 僕が幼い頃からずっといるからかなりのお年寄りなはずだけど、そんな素振りを一切見せない動きでしなやかな躰を動かしている。


「にゃー」


「おー、よしよし。元気だったかー?」


「ぅなーご」


 僕が手を伸ばすとビャクはするりと僕の膝の上に滑り込んできた。コイツの定位置だ。適度な重さと暖かさが気持ちいい。


「あー、ごめん祖父ちゃん。それで証拠って?」


 祖父ちゃんはため息をついた。顔はずっと真面目なんだけど言ってることがギャグにしか聞こえないのが反応に困る。

 これは祖父ちゃんが考えたジョークなのではないかと、そう思っていた。この時までは。


「色々あるが、ちょうどいい――――ビャク、いいぞ」


「はーい」






 不意に、知らない声が聞こえた。幼い少年のような、少女のような、澄んだ子供の声。

 周りを見渡してみても、子供らしき姿はどこにも見えない。


「こっちだよ、こっち」


 声の方向が、下からであることに気が付いた。

 僕は恐る恐る、下を向いた。

 いるのは、膝の上に座るビャクだけだった。

 まさか――――


「ちゃんと話すのははじめてだね、ひゅーが」


 声の主は、ビャクだった。


「しゃ、しゃべってる!?ビャクが!!?」


 僕は慌ててビャクを持ち上げた。ひょっとしてどこかにスピーカーでも取り付けてあるんじゃないかと疑って。

 しかし、ビャクにはいつも付けている首輪以外には何もついてなかった。


「じゃ、じゃあ首輪にスピーカーが……って、あれ、ビャクは!?」


 さらに探そうとしたとき、いきなりビャクが僕の手から消えた。程よい重さも、柔らかい感触も、残っていない。


「こっちだよ、ひゅーが」


 澄んだ子供の声がする。今度は前から。


「いつの間に……」


 ビャクは、今度は祖父ちゃんの膝の上で悠々とくつろいでいた。

 しかも、気づいてしまった。

 ビャクの尻尾が、一本多い。


「猫又……」


「いい証拠になったろう?」


「嘘だろ……」


「ところがこれが本当なのさー」


 言葉が出ない。

 人間、不思議なものに出会うと何も言えないものなんだなぁ、と思った。


「それで、僕は何をすればいいのさ」


「うむ、それなんじゃがな……」


 僕は息を呑んだ。妖怪とつながりがある一族に生まれた僕に、どんな運命が待ち受けているのか。







「特に、何も無いんじゃ」








「――――は?」


「じゃからな。妖怪のことを知っといて欲しいんじゃ。それだけ」


「じゃあ、何で話したの?」


 祖父ちゃんはそっと目を逸らした。


「いや、な。流石に時代も進んで法治国家になったからな。お役目は儂の代で終わりにしてこれからはお役所がこっそり後を継ぐことになったのじゃよ。じゃから、お前がお役目を継ぐことは、ない」


「……じゃあ、僕が主人公の痛快ダークファンタジー妖怪奇譚は……?」


「無い。というか、意外とノリノリじゃなお前」


「お年頃だねー」


 う、うるさい!!ちょっと憧れてただけだもん!自分の机の上から二つ目の棚に秘密のノートがあったりはしないもん!


「まあこれを話したのは、この休みの間にひとつ『お役目』をこなしてもらおうと思ってな。妖怪をひとり、面倒を見てもらいたい」


 やっぱり何かあるんじゃん。思ってたよりずっとスケールは小さいみたいだけど。


「えーと、何で今更そんなことを僕に?」


「儂が引き継ぎで忙しいというのもあるがな。まあ、会えば分かるわい。おーい、入ってくれ」


 祖父ちゃんが座敷の奥に声をかけた。


「――――失礼します」





 襖が開くその向こうの姿を見て――――呼吸が止まった。

 そこにいたのは、行儀よく正座をした、薄い青色の和服を着た少女だった。

 艶のある長い黒髪と、やや幼さの残る身体、そして大きく、しかし鋭さを感じる瞳。

 覚えている。いや、忘れるはずがない。


「紹介しよう。いや、知っているとは思うがな――――」


「君は、」


「氷川璃緒――――雪女です」


 僕の幼馴染で、初恋の女の子は、妖怪の、雪女でした。

 それが、彼女がここにいる理由。










「あとはお若い二人に任せるとしようかなー」


 璃緒が入るとすぐに、ビャクがそんなことを言って祖父ちゃんと一緒に座敷を出てしまった。

 つまりは、お互いに正座で向き合った僕と璃緒のふたりだけがこの座敷に残された、ということだ。


「あー、その……久しぶりだね、璃緒」


 僕にとっては望んでいた瞬間だ。初恋の人に、こうしてまた会えたのだから。

 ただ、同時に璃緒が妖怪であったことに混乱もしていた。


「……久しぶり」


 璃緒の反応はずいぶんと静かだった。元からあまり話す方ではなかったと記憶しているが、当時と比べても明らかに口数は少ない。

 もっとも、緊張していて上手く話せない可能性もあった。ちょうど今の僕のように。


「えーと、麦茶、飲む?」


 反応を聞くよりも先に僕は二つのコップに麦茶を注いだ。そのうちの片方を差し出すと、璃緒は何も言わずに手に取った。

 とりあえず一口麦茶を飲んだ。程よく冷えた麦茶が、緊張で乾いた喉を潤す。

 しかし、それが逆に良くなかった。一息ついてしまったせいで、逆に話し始めるタイミングを失ってしまったのだ。


(やっぱり、可愛いな……)


 璃緒の姿を見て、改めてそう思った。身長とかはあまり変わっていないけど、顔つきがだいぶ大人びたように感じる。

 身体を包む着物も凄く似合っていて、なんだか艶っぽい。思わず鼓動が早くなる。


 こんな彼女を相手に、今更「勝負して勝ったら付き合ってくれ!!」なんて子供じみた約束を持ち出すのが恥ずかしくなってきた。


(勝負の話は、また今度にしよう。今は少しでも打ち解けて……)


 脳内で考えをまとめる。今回は「とりあえず好感度を上げておこう」作戦に決定した。


「あの、その……」


 そうして話を切り出してみたのだけれど、よく考えたら話題が無いことに気が付いた。

 まずい、まずいぞ、僕。さて、何を話せばいいのか……。


(あ。あった、話題!)


 咄嗟に思いついた話題は――――


「璃緒、妖怪だったんだね」


 璃緒の表情が変わった。あまり良くない方向に。

 あ、あれ……?もしかして地雷だった?


「……黙っててごめんなさい。怖い?」


「い、いや!!そんなことない!!……多分」


 僕はその表情が嫌で、慌てて誤魔化した。


「僕もさっき妖怪のことを知ったばかりだから、正直雪女とか言われても、あまりピンと来ないんだよ」


「そう……ならよかった」


 璃緒の反応は相変わらず素っ気ないけど、少し表情が和らいだ。それを見て僕も安心した。


「あ、でも気になることがあるんだけど。もしかして、妖怪ってみんな寿命が長かったり成長が遅かったりするの?」


 それは、ビャクが妖怪と知った時に浮かんだ疑問だった。

 ビャクは猫の年齢で言えばもうかなりのお年寄りだ。それでも全く老化した素振りを見せないのは、妖怪だったからではないだろうか。

 もしかしたら、璃緒も。


「……確かに、寿命が普通よりずっと長かったりする妖怪もいるわ。でも私は多分普通の人と変わらないと思う」


「あ、そうなんだ、ちょっと意外」


「……どうして?」


「だって、璃緒が昔とあんまり変わってなかったから。身長とか、むね――――」





「――――は?」





 瞬間、途轍もない冷気を感じた。

 そんな馬鹿な。今は夏だし、この部屋にはクーラーも無かったから、さっきまで蒸し暑さを感じていた位なのに。

 

「そう……日向、アンタさっきからそんな目で私を見てたの」


 ゾクッとするような低い声だった。その声の主が璃緒だと気付くのに少し時間がかかるほどに。

 璃緒はゆらりと立ち上がり、僕を見下ろした。その視線に、その冷たさに、寒気が止まらない。

 

「いや、ちょっと待って璃緒、これは――――」


「黙って」


 冷気がさらに強くなる。まるで猛吹雪の中にいるみたいに。


(まさか、これが雪女の――――)


 気付いた時にはもう遅かった。

 自分の感じている冷気が精神的な錯覚なのか、それとも本当に雪女の能力なのか、最早知る術はなかった。






 これが、僕の失言の経緯。

 そうして、話は最初に戻る。



















「この――――変態」


 璃緒はそれだけ言って座敷を出ていった。寒さに震える僕を置いて。


「……えー」


 どうしろというのだ。いや、確かに胸のことを話題にしたのは良くなかったと思うけど。

 でもさ。変わってなかったじゃん、実際。


「最近の都会の子はデリカシーというものが無いのかい、ひゅーが?」


「……猫にデリカシーを問われるとは思わなかったよ」


「甘いね、僕は猫又だよー。猫とは違うのだよ猫とはー」


 璃緒が開け放った襖からひょっこりと現れたビャクは、自分が猫又であるのを主張するように二本の尻尾をふよふよと動かしながら、呆れたような目で僕を見た。


「というか話聞いてたなら助けてくれてもよかったのに」


「嫌だよ、僕寒いの嫌いだし。猫だもん。襖の向こうくらいの場所がちょうどいい涼しさだったからさー」


 この白状者め……。というかやっぱり猫じゃねーか。


「まあ、これで二人ともいい感じに打ち解けたところで、本題に入ろうかなー」


「あれは打ち解けたって言うのかな……」


当事者ひとり帰っちゃったし。


「本題というのは、要するに『お役目』のことなんだけどね。彼女の悩みを聞いて、できればそれを解決してあげてほしいんだよ。今の村では適任な人がいなくてねー」


「悩み?」


「人ならざる力を持つ者が人の世で生きるんだ。それ相応の悩みはあるものだよー。想像できるだろう?」


 まあ、確かに漫画とかラノベでよくあるやつだ。そんな悩みもあるんだろう。


「なんとなくだけど、分かるよ。やるだけやってみる」


「うん、それでこそひゅーがだ。頑張って初恋実らせるんだよー」


「それやめて恥ずかしい!!」













 こうして不思議な割に妙にゆるい「お役目」を言い渡された僕の真っ先にすべきことは、怒って去っていった璃緒との関係の修繕だった。


「こんばんはー」


 夕暮れ時、都会で買ってきた菓子折り(本当は祖父ちゃんに渡す予定だった)を持った僕は、璃緒の家を訪ねていた。

 僕と違い隣の街の中学に通う璃緒は、そのまま引っ越しせずにここに留まった。だから、僕は璃緒の家を知っていたし、その姿はあの時と全く変わらない。


「はーい、ってあら……日向くんじゃない!!」


「お久しぶりです、氷川のおばさん」


 玄関から出たのは氷川のおばさん――――つまり、璃緒の母親だった。おっとりとした佇まいは前に会った時と変わりなかった。


「さっき璃緒に会ったんですが、怒らせちゃって。それで、お詫びに――――これを」


「あら、ごめんなさいねぇ。どうせ一人で勝手に勘違いして怒っちゃったんでしょ、あの子?」


「い、いやぁ……ハハハ」


 どうしよう、口が滑ってセクハラまがいの言動をしてしまったとは言えない。


「璃緒といえば――――さっき聞いたんでしょ?璃緒のこと」


 氷川のおばさんは、笑顔のままそう訊いた。少しだけ、口調が真剣だった。


「……はい聞きました。璃緒が雪女ってこと。ということは、」


「ええ、そうよ。私も、というか私の家系はみんな雪女」


 前方から冷気を感じる。それは、さっき座敷で感じたものと同じだった。加減されているのか、涼しい程度の冷気しか感じなかったけど。


「やっぱり……」


「まあ、それ以外は普通の人と大して変わりないから、こうやって人の社会にも簡単に溶け込めるのよ。便利でしょ?」


「そ、そんなもんなんですか」


 氷川のおばさんはにっこりと微笑んだ。そこには苦労とかそんなものは微塵も感じられなかった。


「でも、璃緒はまだ色々慣れてないから大変みたいねぇ」


「慣れてない、ですか?」


「うん。これは私がべらべらしゃべるわけにはいかないから、直接あの子から聞いてあげて」


「はい。それで、璃緒はどこに?」


「あの子なら、今は家にいるはずだけど――――」






「あのヘンタイ馬鹿やろぉーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!」





 どごぉおおおおおおん!!!!!!

 家の奥の方で、壮絶な叫び声と謎の打撃音が響いた。


「い、今のは!?」


「ああ、璃緒はそこにいるのね」


 かなりの音量だったのにも関わらず、おばさんはちっとも驚いていなかった。


「周りが全部田んぼで助かったわぁ。騒音問題とか関係ないもの」


「い、いや、なんでそんなに落ち着いてるんですか!?」


「あの子『ストレス解消部屋』にいるのよ。行ってあげなさいな」


「ストレス……解消部屋ぁ?」

 







 それは、家の裏庭に建てられた小さなプレハブ小屋だった。

 部屋の灯りはついていて、そして謎の打撃音と同時に小屋全体が微かに揺れている。


「一体どんなストレス解消法なのか……」


 僕は恐る恐る小屋に近づくと、そのドアに、さらに恐る恐るノックした。


「璃緒ー?さっきはごめん。改めて話がしたいんだけど……」


「久しぶりに会ったと思ったら何よアレ!!ふざけてるの!?」


 どごぉーん。


「あれは本当に申し訳なかった!!謝るから、もう一度だけチャンスが欲しいんだ!」


「せっかく会えると思ってたのに、あんな変態になってたなんて!!」


 がしゃーん。


「変態は誤解なんだ!!僕はただ疑問に思っただけで、そういう意図はなくて……!」


「それに何よアレ!!たった二年であんなに身長伸びちゃって!!なんか都会に行ったせいで垢抜けて格好良くなっちゃって!!」


 どぐしゃあ。


「はい、身長伸びて垢抜けてごめんなさい!!……って、あれ?」


 なんか会話が嚙み合っていないような。


「璃緒ー!聞こえてるーーー!?」


「あーーーもーーーーー、台無しじゃないの!!」


 これって、もしかして。


「こっちの声、聞こえてない……?」


 うわあ。めっちゃ恥ずかしい。それにちょっと嬉しい。

 そうかー、格好良くなったって感じてくれてたんだぁ。脈ありかなぁ。

 いやいや、油断は禁物だ。向こうが中学で彼氏を作っている可能性だって……。

 考えたら憂鬱になるからやめよう、うん。


「聞こえないなら直接ドアを開けるしかないな」


 少し失礼だけど仕方ない。

 僕はドアノブに手をかけた。


「私だけ成長止まって子供みたいで……なんか悔しいじゃない!!」


 それを聞いた瞬間、僕はかっとなってドアを開け放った。








「そんなことない!!璃緒はとても可愛いよ!!」


「えっ……ええええええ!!!!?」








 ばっごぉおーん。

 ドアの向こうには、身軽そうな格好に身を包んだ璃緒と――――割と有り得ない勢いで吹き飛んでいるサンドバッグがあった。

 そして璃緒は突如として現れた僕に驚いて、サンドバッグは振り子のように戻っていき――――


「――――あっ」


「がふっ」 


 おおよそ女子らしくない声を漏らしながら、璃緒がサンドバッグに吹き飛ばされた。


「り、璃緒ぉーーーーーー!!?」


 慌てて駆け出すと、吹き飛ばされた璃緒をなんとか抱きかかえることに成功する。

 そのままスライディングして衝撃をふんわり吸収。なんとかうまくいった。ついでに璃緒に触れられて役得……げふんげふん。

 ただ、衝撃のせいで璃緒の意識は曖昧なようだった。


「ん、あれ……」


「璃緒、大丈夫!?ごめん、まさかこんなことになるなんて……」


 幸い、璃緒の意識はすぐに戻った。両目が徐々に焦点を取り戻していく。


「私、さっき日向を見つけて、そしたら吹っ飛ばされて……」


「うん、地面に落ちそうだったけどなんとか助られてよかった。怪我はない?」


「ええ、大丈夫……って、えっ」


「どうしたの!?……って、あっ」


 そういえば、僕は吹き飛んだ璃緒を抱きかかえたままで。

 その恰好は、まさしくお姫様抱っこで――――


「きゃあああああああ!!!」


「って、うわぁ!!?」


 璃緒は僕をすごい力で引き剝がすと、そのままの勢いで後ろに大きく跳んだ。その飛距離は、普通の人では考えられないほどに。


「ど、どうしてここにいるの!?」


「それは、昼間のことを謝ろうと思って……」


「うるさい!!ああもう、どうしてこんな……っ!!」


 璃緒は混乱と苛立ちが混ざったような表情をしていた。その原因が自分であることが、なんだか申し訳なく思う。


「璃緒、落ち着いて聞いてほしいんだ、僕は!」


「うるさい!うるさい!!今すぐ出ていって!!」


「だから、話を――――」


「話なんて聞きたくない!!」


 このままじゃだめだ。

 きっとここで退いてしまえば二度と弁解の余地はない。

 僕は覚悟を決めた。

 ここで話を聞いてもらうには、流れを変えるしかない――――!!


「早く出ていって!!でないと、無理やりにでも――――」







「――――すみませんでしたぁぁあああああああああああ!!!!!!!!!!!」






 

 思い切り両の膝と掌を床に叩き付けると、その勢いのまま頭を地面に押し込んだ。

 ごぉーん、と鈍い衝撃が額から全身に伝わっていく。



 ……そう。土下座である。



 日本古来より伝わる、謝意と誠意を最大限に表現する技術。そこに勢いとパワーをプラスする。

 つまり、フルパワー土下座である。

 僕ができる、現状ベストの選択がこれであった。

 そして、その思惑通り、璃緒は動きを止めてくれた。


「璃緒、改めて言わせてほしい。不用意な発言をしてしまって、申し訳なかった。本当にごめんなさい」


「……なによ」


「でも、これも言わせてほしい。僕は璃緒を傷つけるつもりは全くなかったし、今後傷つけないように精一杯努力する」


「……」


 僕は、再度頭を、地面に強く押し付けた。


「だから、僕にチャンスをください。お役目を――――君の悩みを解決する、それを果たすチャンスを」


「それは、どうして?」


「君の悩みをなくしてあげたいから」


 告白したいから、なんてまだ言えないけど。

 でも、これも紛れもない本心だから。

 だって、好きな人に悩みがあるなら、解決したいのが惚れた人の性ってやつじゃないか。


「私、雪女よ?妖怪よ?怖くないの?」


「大丈夫、それはこれから慣れるから」


 それを聞いて、璃緒は小さくため息を漏らした。


「……そこはせめて『怖くないよ』くらい言ってみなさいよ」


「ごめん」


 ぷっ、と璃緒が小さく噴き出した。ずっとしていた困ったような苛立ったような表情を、ようやく崩してくれた。


「いいわよ、許してあげる。なんか怒ってた私の方が馬鹿みたいじゃない」


「それじゃ……!」


「うん、少し頼りないけど……私の悩みの相談、お願いします」


璃緒は小さく一礼すると、ぼくに微笑みかけた。

それはあの日より少し大人びた、でも変わらず大好きな笑顔だった。














「日向は、夏は好き?」


いつかの夏の日。いつも遊ぶ小さな川の岸で、幼い璃緒は僕にそう問いかけた。


「好きだよ。明るいし、日は長いし、夏休みがある」


まだ小学生だった僕は無邪気にそう答えた。多分何も考えていなかったと思う。

それに対して、璃緒は表情を暗くした。


「私は、夏が嫌い」


「どうして?」


「だって、暑いじゃない。無駄に日も長いし、落ち着かないわ」


落ち着かない、という感想が僕には不思議に感じた――――まあ、当時の僕に落ち着きなんてものは無かったから、そもそも分からなかったのかもしれない。とにかく、僕にとって「落ち着かない」ことが悪いことだとは思えなかったのだ。


「夏になると変な気持ちになるの。自分の身体が自分のものじゃないみたいな、そわそわするような、そんな気持ち。だから私は、夏が嫌い」


「ふーん、僕はよく分からないや。でもさ、落ち着かないなら運動すればいいんじゃない?」


「運動?」


「そうそう。嫌な気分とかそういうの全部忘れて、走ったしスポーツしたり!きっと楽しいし、気分も晴れるでしょ!」


今思えば、本当に子供の発想だ。それでも、当時の僕にとってはそれが名案に思えたのだ。


「うん、そうね……そうしてみる」


それでも、璃緒は笑ってくれた。同い年の女子にはない、どこかオトナで透き通るような微笑み。僕はそれが大好きだった。


「よし、じゃあ競争だ!ゴールはいつもの神社で!今度は勝つから!」


「日向、いっつもそれ……でも、今度も負けないから!」













「そういえば、そんなことあったなぁ」


意識が少しずつ覚醒していく。景色は見慣れた、でも久しぶりな自分の部屋だ。窓の外は明るく、とうに日は昇っていた。少し寝すぎてしまっただろうか。

随分と懐かしいことを思い出した。まだ僕がこっちに住んでいた頃の話だ。

当時の僕は事ある毎に璃緒に勝負を挑んでいた。駆けっこ、腕相撲、縄跳び、鉄棒、エトセトラ……。

結果は全敗。そのどれもが圧倒的な差だった。

それでも僕は璃緒が好きだったし、実際仲は良かったと思う。よく二人で遊びに行ってたし。

ただ、幼いとはいえよくもまあ勝負ばかりやったものである。それに応じてくれる璃緒も璃緒だけど。

……あ。


「もしかして、本当に運動で落ち着かない気持ちが治っていたから……?」


勝負も、サンドバッグも、それで納得がいく。


「つまり、璃緒の悩みって、そういうことか!」


僕のやるべきことが、見えてきた気がした。

そうなればやることはひとつ。僕は携帯を取り出すと、昨日教えてもらったばっかりの璃緒のアドレスを呼び出し、電話をかけた。


コール音が八回。そして、璃緒が電話に出た。


「はい……」


「あ、璃緒?おはよう!早速なんだけど、今日空いてるかな?一緒に出掛けよう!」


しばしの沈黙。予定を調べてるのかな。


「ねえ、日向」


「ん、何?大丈夫?」


「アンタ、今何時か知ってる?」


「え、何時って……あ」


僕はこの時、はじめて時計を見た。そして硬直した。

網戸の向こうから、小さくラジオ体操の音楽が聞こえてくる。つまりは、六時半。


「今日の予定は空いてるわ。待ち合わせの時間と場所は後で教えて。それとーーーー覚悟しといてね」


「はい……」


僕は失念していた。田舎は、日の出が早いのだ。












午前十時、小さな川の川岸。

僕は、正座しながら凍えていた。

……あれ、これ昨日と同じパターンじゃない?


「で、申し開きがあるなら聞くけど?」


「ありません……」


気付いたことがあるんだけど、砂利の上で正座するのって結構痛いんだね。唯一の救いは璃緒の雪女の力のせいか砂利が熱くなくて、むしろひんやりしてることくらい。


「電話するなとは言わないわよ。でも時間くらいはちゃんとしなさいよ。その、準備とかも……あるし」


璃緒の今日の格好は白のワンピースで、長い髪をポニーテールにして纏めていた。肌は夏場とは思えないくらいに真っ白で、ちらりと覗くうなじや太ももに思わずドキッとしてしまう。

璃緒の言う「準備」を、きっとしてきてくれたのだろう。だから、こんなにも可愛らしい。


「うん、ごめんなさい。それと、可愛いよ」


「ッ!……馬鹿っ!!」


照れた顔も可愛いなぁ。これを言ったら怒られるかもしれないけど。








「それで、結局雪女ってどういうものなの?」


いつかのように川岸の斜面に並んで座った僕たちは、あの時より少しだけ真面目な話を始めた。


「見ての通りよ。周りのものから熱を奪う。それだけ」


確かに、璃緒の周りは涼しかった。冷蔵庫のドアを開けた時のような、そんな感じ。


「漫画みたいに氷柱出して攻撃とか出来ないの?」


「馬鹿。水はどこから用意するのよ」


「……え、出てこないの?」


「出てくるわけないでしょ、ファンタジーじゃあるまいし」


妖怪ってファンタジーじゃないのか……?


「あとは……日向も見たと思うけど、人よりも運動神経がずっといいみたい」


昨日のことを思い出す。異常に揺れるサンドバッグ。僕を押し退ける腕の力。飛び退いた距離。

あれは、小さな女の子には到底不可能なほどの力だった。


「見てて」


璃緒は立ち上がると、軽く力を込めて跳んだ。

その軽やかな動作とは裏腹に、璃緒はその一跳びで斜面の向こう、川のすぐ近くまで辿り着いてしまった。立ち幅跳びの世界記録だってここまでいけるかどうか怪しい距離だ。

まるで漫画だ。でもこれは現実だ。


「ああ、やっぱり」


僕が慌てて璃緒に駆け寄ったとき、璃緒は少し憂鬱そうだった。


「私、本当はこんなに跳ぶつもりはなかったの。せいぜいこの半分くらい。でも、こんなに跳んじゃった」


「どういうこと?」


璃緒は砂利の中から、片手で掴める程度の大きめの石を拾った。


「最近になって、変に力が入りすぎちゃうの」


そして川に向けて投げた。

石は川のほとりはるか向こうまで飛んでいき、数秒後に川に落ちて大きな水柱をたてた。


「自分の身体なのに、自分の思う通りに動いてくれないの。すごく変な気持ち」


「そわそわして……落ち着かないような?」


こくり、と璃緒は頷いた。


「毎年夏になるとこんな感じ。でも、今年は今までよりずっと酷いわ」


だから私、夏が嫌いなの。

璃緒はうんざりとした表情でそう言った。

どうして夏なのか、その原因はよく分からないし、あまり興味もない。雪女が夏を嫌いでも特におかしくはないし。

どうすればいいか。やるべきことは、前と変わっていない。


「よし――――じゃあ、運動しよう!」


「……何で?」


「だって、落ち着かないんでしょ?昔と一緒で。だったら昔と同じようにすればいい。つまり、運動だ!!」


璃緒は呆れた様子だった。


「運動って……走れとでも言うの?」


「いいね、ランニング!!とりあえずやってみよう!!」


「別にいいけど……私がいつも走ってるコースでいい?」


ぼくは了承した。やっぱり走ってるんじゃん。


「よーし、じゃあ早速行こうか!それで、どれくらいのコースなの?」


璃緒は少し考えてから答えた。


「多分、20キロくらいかしら」


「……へ?」













あつい。空気が暑い。日差しが暑い。身体が熱い。

今、大体10キロくらい。

めっちゃキツい。


「……休憩する?」


「まだ、まだぁ……!」


 油断はしていなかった。

 昔から運動は得意だったし、中学に入ってからも毎日ランニングは欠かしていなかった。

 だけど、それをはるかに凌駕する程に璃緒の走るペースは速かった。

 僕は改めて雪女が――――妖怪という存在が現実離れしているかを実感した。


「やっぱりやめましょ」


「あっ」


 璃緒が僕の肩を掴んで、ふんわりと静止した。ふんわりと言っても、その力は本当に強くて全く抵抗はできなかった。


「はあ、はあ……」


「大丈夫?」


「なん、とか……」


 最後の強がりで、それだけ言ってみせる。もっとも、璃緒には多分バレてるので無意味だ。

 呼吸を整えて、ようやく周りの景色を見渡せるだけの余裕が生まれる。場所は最初にいた川岸の近くまで戻っていた。

 それに今気づくくらい、僕には余裕が無かったみたいだ。


「なんか、情けないなぁ」


 思ったことがぽろりと零れる。


「馬鹿。人間が妖怪と張り合ってどうするのよ」


 それもそうか、とは思えなかった。


「そうは言っても、僕は璃緒に勝ちたいし、勝たないといけないからね」


 惚れた弱みで、男の意地だ。


「勝つって……どうして私に勝つ必要があるのよ?」


「えっ」


 言葉に詰まる。いや、それを直接言うのは流石にキツい……!!


「まさか昔の約束とかじゃあるまいし……お役目とかと関係あるのかしら」


「は、ははは……」


 ごめんなさい。その「まさか」なんです。

 ……なんてことは言えない。まだ。


「まあいいわ。時間もちょうどいいし、お昼にしましょ」


 璃緒はそう言うと、手に持ったバッグから包みを二つ出した。

 ま、まさか。期待に胸が膨らむ。


「こんなに暑くても保冷剤要らずなのよ。こんなことだけは便利だわ、雪女も」


 そうして、僕は璃緒の『準備』を、もうひとつ知るのだった。












 川岸に座りながら、僕たちは璃緒の作った弁当を開いた。

 玉子焼きに唐揚げ、それといくつかのサンドウィッチ。よくある弁当のラインナップだ。

 でも、それを璃緒が作ってくれたと思うと途端に特別に感じてしまう。現金な男だと我ながら思う。


「で、では」


「う、うん」


「「いただきます」」


 なぜか変に緊張している僕たちは、おそるおそる弁当に手を伸ばした。僕は玉子焼きに、璃緒はサンドウィッチに。

 そして、一口。


「おいしい!」


「そ、そう?よかった、失敗してなくて」


 ふわっとした触感と、柔らかな甘みが口の中に広がる。お世辞抜きに、玉子焼きは美味しかった。

 家庭的な味だ。ほっとする。


「唐揚げも、美味しいよ」


 それから僕は、何かを口に含んでは「おいしい、おいしい」と言うだけのマシーンと化した。

 僕がおいしいと言う度に、璃緒は少し照れくさそうにはにかんだ。それが嬉しくて僕は何度もおいしいと言った。


「ねえ」


 そうやって弁当のほとんどがなくなった頃、ずっと黙っていた璃緒がおずおずと話しかけてきた。


「やっぱり私のこと……怖くはない?」


 璃緒は不安そうな顔だった。


「今日一緒に走ったりして分ったでしょう?私、やっぱり普通じゃないの」


 有り得ない距離を跳んだりアスリート並みの速度で長距離を走ったり周りを凍らせる女の子が普通か、と言われれば、まあ確かにノーと言わざるを得ない。


「どれだけ隠しても、やっぱり隠しきれない部分はあるわ。肌が冷たすぎるとか、運動ができすぎるとか……。お陰で、学校でも私に近づく人なんていない」


 璃緒は自分の身体を抱きしめた。まるで寒い日に凍えているみたいに。


「僕は、璃緒を怖いなんて思ったことはないよ」


お世辞じゃなくて、本心だ。

僕にとって璃緒は真面目で健気で、可愛い幼馴染だ。それが少し普通とは違う特技(?)を持っていた、というだけであって。


「……本当に?一度もない?」


「えーと、一度だけ目つきがちょっと怖いなー、って思ったことはあるけど……」


転校してきた初日のことだけど。


「なんですって!?」


「やばっ」


しまった、口が滑った!

僕は慌てて川に向かって逃げ始めた。


「待ちなさい!」


しかしそれを追うのは雪女の璃緒だ。恐ろしい距離の跳躍をすると、あっという間に璃緒は僕の前に立ち塞がった。


「日向、アンタ昨日から失言多くない?」


「わかる?なんか口が滑っちゃうんだよね。気持ちが浮わついちゃってるからかな」


「ふーん」


「で、許してくれる?」


「正座」


「はい」


日差しで熱を帯びた砂利が急速に冷やされていくのを、僕は痛みと共に足で感じることになった。

……正直な話、妖怪どうのよりこっちの方がずっと怖いです。本人には絶対に言えないけど。










「でもね、雪女だって悪くないと思うんだよ、僕は」


そろそろ砂利の痛みに慣れ始めた頃、そろそろ怒りも収まったと思って僕は話しかけてみた。

璃緒の目つきは鋭いままだけど、これはまあ昔からのじゃれ合いのようなものだから、多分本気で怒ってはいない……と思う。


「どうして?」


「なんか格好いいじゃん」


怒ったような表情が、今度は憐れみのそれに変わる。うれしくない。


「……というのは半分冗談で」


「あやしい」


イエイエ、ソンナコトナイデスヨ?


「まあまあ、雪女のいいところを見せてしんぜよう」


僕は立ち上がると、璃緒の手を引いて川の流れの近くまで連れて行った。実は足が少し痺れていて地味に大変だったことは内緒だ。


「そう、その辺に立って……僕が合図したら、周りを一気に冷やして欲しいんだ」


璃緒は訝しんでいる様子だったけど、一応は承諾してくれた。

僕は靴と靴下を脱ぐと、ズボンを捲って川に足を踏み入れた。あらかじめ川原で探しておいた、大きな石を手に持って。

そして僕は、その石を思いっきり水面に叩きつけた。


「今だっ!!」


飛沫が上がると同時、僕は叫ぶ。璃緒はそれに今までで一番強い冷気で応えた。

そして僕の思いつきは、成功した。


「わぁ……」


水飛沫が璃緒の冷気によって瞬時に凍りつき、小さな氷の結晶になってゆっくりと舞い降りる。

それはまるで、雪のように。


「綺麗……」


璃緒が最初に冷気を出した時、コップ一杯分の麦茶があっという間に凍りついた。つまり、それだけの力がある、ということなのだ。

僕はそれを逆に利用出来ないかと考えた。周りに小さい水滴を沢山出して、それを瞬時に凍らせたら何か綺麗なものができるのではないか、と。

ダイヤモンドダストって言うんだっけ?……少し違う気がするけど。


「ね、雪女もそう悪くないんじゃない?」


気付いた事がある。璃緒の口数が減ったこと、その理由は自己評価の低さだ。

璃緒は雪女の、妖怪としての自分を肯定出来ていないのだ。だから昔は僕に隠していたしーーーー知られると、それが原因で嫌われるのを怖がってしまう。

そこまで分かれば簡単だ。後は僕が雪女を肯定してしまえばいい。

そして、それは僕にとって何の苦にもならないのだ。だって璃緒そのものが好きなのだから。


「そうね……悪くない、かも」


璃緒は景色を見て、うっとりとした笑みを浮かべた。


「でも、やり過ぎちゃったみたい」


「……あー」


景色に浮かれていたけど、足下を見ると川が冬のように薄く氷を張り始めていた。僕は慌てて川から出る。


「大丈夫?足寒くない?」


「うん、そんなに辛くはないかな」


何故だか知らないけど、僕はあまり寒さを感じていなかった。氷が張るほど冷たい水の中にいたというのに。

璃緒の近くにいすぎたせいで慣れてしまったのだろうか、なんて。


「璃緒の方こそ大丈夫?疲れてない?」


「ええ、疲れてはいないんだけど……すごく、落ち着かないわ。何でかしら」


落ち着かない、というと夏が嫌いな理由のアレだろうか。どうしてこんな時に?


「落ち着かないの?またランニングでもする?」


「馬鹿。アンタがついて来れないじゃない」


それを言われると耳が痛い。ついでに足も痛い。


「でも、そうね。早く家に帰ってストレス解消部屋に行こうかしら」


璃緒は僕に背を向けると、川の外に向かって歩きはじめ、







「――――え?」


その瞬間、璃緒の足下が爆ぜた。







「なに、これっ!?」


「璃緒っ!!」


舞い飛ぶ砂利を腕で防ぎながら、僕は叫んだ。

まるで地雷が炸裂したような光景だった。璃緒を中心に、地面が小さなクレーターのように抉れている。


「うそ、」


呆然とした璃緒は一歩後ずさった。そしてまた、同じように地面が爆ぜる。


「璃緒!!大丈夫!?すぐ向かうからっ!!」


腕で顔を守りながら、僕は璃に向かって駆け出した。

砂利は勢いは強いけど、そこまで痛くない。幸いなことに璃緒も大きな怪我はないようだった。


「駄目、日向!!」


爆発がまた起こる。でも僕を弾き飛ばすには足りない。強引に砂利の爆風に突っ込んだ。

璃緒の下まで、あと少し。


「待ってて、今助けるから!!」


そして、璃緒の肩に手が届く距離に辿り着いて――――


「私に近付いちゃ、駄目ぇーーーー!!!」


璃緒が僕の右手を払いのける。

たったそれだけで、僕の身体はさっきの砂利のように、簡単に吹き飛ばされてしまった。


「がッ――――!?」


景色が回転して、やがて静止する。

気が付けば僕は仰向けに倒れていた。視界がチカチカして、身体中が痛んで、そして右手が灼けるように熱い。

その右手がどうなっているのか、あまり見たくはない。


「ちがう、ちがうの、これは、わたしはっ!!」


辛うじて首だけを動かすと、錯乱した様子の璃緒が見えた。

小さな身体が恐怖と驚愕に震えていて、その間も足下では爆発が相次いでいた。

今すぐにでも側に行ってあげたいのに、身体は全く動かなかった。


「ごめん、ひゅうが、ごめん、わたし――――ッ!!」


小さな子供が泣き叫ぶような声が響く中、僕の意識はそのまま遠ざかっていった。













「ひゅーが、大丈夫?」


目を開けた時、視界に移ったのは見慣れた天井とビャクの顔だった。


「……なんとか」


少しずつ意識がハッキリしていく。辺りを見渡すと、そこは鬼頭の実家の、僕の部屋だった。

さっきまで川原にいて、璃緒の足下で爆発が起こって、助けようとした璃緒に吹き飛ばされて、


「っ!璃緒は!?」


「落ち着こうねー」


あわてて飛び起きようとして、顔面をビャクの肉球に押さえつけられる。


「むぎゅ」


「治療したとはいえ、もう少しだけ安静にしてもらうからねー」


そういえば、と思って自分の右手を見る。

右手は包帯でぐるぐる巻きになっていたが、痛みはほとんど無く関節も問題なく動いた。


「あれ、右手ってもっとひどかったような……」


少なくとも僕の感覚では、最低でも骨折はしているはずだと思っていた。でも、今の感触だとせいぜいが打撲だ。


「まあ、妖怪の力を使えばそれくらいは治っちゃうのさー」


「妖怪……」


そんな力を持つ妖怪もいるのか。ありがたい反面、少しゾッとする部分もある。こんな気持ち、璃緒には抱かなかったのに。

でも、璃緒だってそれだけの力があったのだ。さっきの爆発や、僕の右手のように。


「ビャク、教えて。何があったの?あれは……妖怪の暴走か何かなの?」


「――――それについては、儂から話そう」


襖が開く。祖父ちゃんが、いつになく真面目な表情で部屋に入って来た。


「まず、お前に謝らなければならん。今回の件は、正直言って予想外じゃった。氷川の娘が、いや、雪女がここまでの能力を持っているとは考えられんかった。本当に……すまなかった」


祖父ちゃんは深々と頭を下げた。でも、僕の頭の中はぐちゃぐちゃで、それどころじゃなかった。


「待ってよ、分かんないよ。雪女って……妖怪って、なんなの!?」


祖父ちゃんの謝罪が欲しいわけじゃない。

何が起こったのか。それが知りたいだけだ。


「……ひゅーが、君は雪女のことについて、どれだけ知ってるかな?」


足下のビャクが、静かに問いかけた。


「知ってるって……えーと、周りのものを冷やす力があって、運動がとても得意で、夏には落ち着かなくなる……それくらい」


「そうだよね。それしか知らないはずだ。君も、璃緒も。でもね、それは雪女の力の半分だけなんだ」


半分?いったい、何を言ってるの?


「璃緒の、雪女の本当の能力。それは――――雪女自身が第二種永久機関である、ということなんだ」









「きっとひゅーがには分からないと思うから簡単に説明するね」


何も分からない僕に、ビャクは続けた。


「熱がエネルギーである、というのは聞いたことがあるかな?温度が下がるということは、つまりその物体のエネルギーが失われている、ということだ」


わかるかな、とビャク。


「エネルギーの総量は一定だ。でも、一箇所に集中していたエネルギーは拡散して、やがて使えないものになってしまう。それが空気中の熱エネルギーだ。でも雪女は、その周りのエネルギーを吸収することができる」


「それって、」


「そう。雪女は周りのエネルギーを自分の運動のためのエネルギーとして使用することができる。何処でも、幾らでも、無限にエネルギーを得、それを使うことができる。それが彼女の運動能力の正体だ。裏を返せば――――周りを冷やす能力は、その副産物でしかない」


周りの熱エネルギーを奪い、それを自分の運動に使う能力。第二種永久機関。

それが、璃緒の本当の能力?


「じゃあ、昼間のあれは――――」


「ひゅーがが思ってる通りだよ。川を凍らせた璃緒は、その身体に莫大なエネルギーを抱えてしまったんだ。自分でも制御しきれない程に。そしてそれを放出した結果が、アレだよ」


そんな。じゃあ、僕の思いつきのせいで……?


「僕たちはここまでの事態になるとは思っていなかった。今までの雪女では、自分の中に溜め込めるエネルギーの量に限界があったから。……でも、璃緒は違った」


なにを言っても言い訳にしかならんが、と祖父ちゃんが引き継いだ。


「氷川の娘が吸収、そして放出できるエネルギーの量は規格外のものじゃ。あの川の状態を見て儂は驚いた。夏場の川を表面だけとはいえ凍結させるなど、儂らには――――」


「だとしても!!」


話し終えるよりも先に、僕は祖父ちゃんの襟元を掴んで引き寄せた。頭の中は、混乱から怒りに変わっていた。


「どうして雪女の本当の能力を、璃緒に教えなかったんだ!!璃緒にそれを伝えて、気をつけるように言っておけばそれだけで済んだんじゃないのか!!」


祖父ちゃんはそれに答えなかった。代わりに、ビャクが僕の腕に前脚を添えて、やんわりと制止した。


「ごめんね、ひゅーが。それはできないんだよ」


「どうして!!」


「永久機関が、人類の悲願だからじゃ」


「雪女が永久機関であると知られれば、人類は雪女を研究材料に利用する恐れがある。かつて迫害され、幽閉されていた妖怪はただえさえ立場が弱く、人権も危うい存在なんだ。それがとても価値のある能力を持っていたと知られれば――――どうなるか、分からない」


「だから儂らは、雪女の能力を隠した。人側には勿論、大多数の妖怪にも。全ては雪女を守るために、じゃ」


僕はこれ以上、何も言えなかった。

頭の中が怒りと悲しさと、申し訳なさとどうしようもなさでごちゃ混ぜになって、何も考えられなかった。


「璃緒は、どうなったの?」


震える声で、それだけを絞り出した。


「家で静かにしておるよ。処遇は、追って伝える」


「処遇って、なんだよ。璃緒は、何も悪くないだろ!!」


「それでも、問題が起きてしまったのは事実じゃ。その原因が、お前だったとしても」


「ッ!」


「悪いようにはしない。それだけは約束する。どんな決断になろうと、それは氷川の娘を守るためじゃ」















しばらく安静に、と言ったまま、祖父ちゃんは部屋を出ていった。ビャクは何も言わず、僕の足の上で丸くなっていた。

窓の外はもう真っ暗で、部屋の電気も付けないままだったから、部屋の中は真っ暗だった。ぼくは布団の中で上体を起こして、ずっとビャクの背中を撫でていた。

それは、ビャクが妖怪だと知る前には、よく見た光景だったと思う。


「ねえ、ビャク」


「なんだい、ひゅーが?」


でも僕は知ってしまった。ビャクがただの猫ではないと。こうして呼びかければ、応える存在であると。


「ビャクたちは、雪女が永久機関だって分かったってことは、雪女のことを調べたんだよね?それはどうして?」


ビャクはふたつの尻尾を、器用に僕の腕に巻きつけた。


「……僕たち妖怪は、遥かな昔に人に反逆して、そして敗北した者たちの末裔なんだ。人類に敗北した妖怪たちは異界に幽閉され、やがて永い時間を経て、少しずつこの世界に戻ることを許されたんだ」


でもね、とビャクは続ける。暗闇に、その瞳が煌めいた。


「人の世界に帰り、そして人の文明を、科学を知った僕たちは、あるひとつの疑問にたどり着いたんだ。それは即ち――――『物理法則に反するこの力は何なのか』と」


猫の顔の筈なのに、ビャクの顔には不安が感じられた。言葉が通じるから、なのだろうか。


「もっと簡単に言うとね、妖怪たちは今更自分が怖くなってしまったんだ。有り得ない力を平然と使っている自分たちは一体何者なのか、って」


僕はビャクの頭を優しく撫でた。ビャクは嬉しそうに目を細めた。


「そうして、僕たちは自分たちの存在を科学的に示そうと試みた。雪女の能力も、そうやって判明した成果のひとつさ。でも、『何をしているか』は判明しても、『何故出来るのか』には、ついに辿り着くことが出来なかった」


「ビャクは……猫又のことは、分かったの?」


ふいに、ビャクの感触が消滅する。直後に右肩に重さを感じて、それはそのままぼくの頭へと駆け登っていった。


「僕はね、シュレーディンガーの猫だよ。生と死が重なり合った、全てが曖昧な、量子の猫の成れの果て……って、ひゅーがには難しかったかな」


「しゅれ……聞いたこと、あるような、ないような……」


頭に感じていた重みがまた消滅して、ビャクはまた僕の膝の上に現れた。


「いいんだよ、ひゅーがはそれで。何も知らなくても側にいてくれる、そういう存在は僕たちにとってとても有り難い存在だ。でも――――ごめん。もう君には、知らないままでいて欲しくない」


どうして、と問うと、ビャクは「僕のわがまま」と笑った。














 いつか、凍えるような冬の夜に、璃緒の手を握ったことを思い出した。

璃緒が家出した、と聞いた僕は慌てて外へ飛び出して、近所の神社の奥で、震えている璃緒を見つけた。

 僕は璃緒の手が凍ったように冷たいことに気が付いて、必死に自分の手で暖めようとした。

 今思えば雪女の彼女にそんなことをする意味があったのか分からないけど、でも僕にはそうしないといけないと思っていた。


「あったかいね」


 そう言って笑った璃緒があの時何を思っていたのか、今の僕には分からない。

























窓から差し込む光で目が醒める。時計は、午前八時を指していた。

ゆっくりと身体を起こし、身体を確認する。もうどこも痛くない。右腕さえ。

包帯を外すと、傷ひとつない普通の右腕がそこにあった。


「妖怪の治療ってすげえなぁ……」


足の上で寝ているビャクをゆっくりと抱えて脇に降ろす。寝顔は相変わらず可愛いもんだ。そのまま着替えると、居間に向かった。

多分、今日中に璃緒の処遇を聞かされるだろう。そう思うと気が重かった。










「璃緒の処遇が決まった。彼女には、異界に帰ってもらうことになる」


 午前十時。祖父ちゃんは淡々と、僕にそれだけを告げた。

 僕は、その内容をなんとなく予想していた。

 祖父ちゃんは昨日「全ては璃緒を人間から守るため」と言った。その言葉に偽りがないのなら、璃緒を人間から遠ざける選択をするはずだ。

 そして、その条件に最も合う場所は、異界――――妖怪の住む世界だ。


「異界って、ウチの奥にある門から行くんだよね?」


「ああ」


「璃緒は、こっちに戻ってこれるの?」


「わからん」


「……僕は、璃緒に会いに行ける?」


「それはだめじゃ」


 分かっていた。その解答も全て、予想通りだった。

 それが璃緒を守るために最善であることも、理解できた。

 ただひとつ。僕自身が納得できないことを除けば。


「僕は嫌だ」


「分かってくれよ、ひゅーが。君一人の初恋のために、色んなものを犠牲にするわけにはいかないんだよ」


 座る僕の足元から、窘めるビャクの声。


「じゃあ、璃緒の気持ちはどうなのさ。璃緒は、それに納得してるの?それが一番大事じゃないの?」


 それでも足掻く。

 この際僕の気持ちはどうでもいい。璃緒がこの決定に納得しているか、それが一番気がかりだった。

 でも、この回答も結局は予想通りのものだった。


「彼女からはすでに承諾の返答を貰っている」


 きっと賢い彼女のことだ。我慢して言ったに違いない。

 なのに、どうして、そんな簡単に諦めてしまうのだろうか。僕にはそれが嫌だった。


 僕なんて三年待ったんだ。

 それより前だって、何度負けたって、一度も諦めたことはなかった。

 今だって諦めてはいない。


「祖父ちゃん、ビャク、僕はまだ――――」


 その時、僕の言葉を遮るように電話が鳴る。

 祖父ちゃんが即座に出てしまい、僕はそのまま固まる羽目になった。


「鬼頭だ。どうした?……うむ、ああ……」


 祖父ちゃんはしばらく電話の声に相槌を打っていたが、やがて話が終わったのか受話器を置いた。


「祖父ちゃん、僕は――――」


「――――璃緒が行方不明になった」


「まだ諦めて――――って、え?」


 今、なんて?


「璃緒が、行方不明になった。家出したらしい」














「璃緒が家出って……どうしてさ!?」


「そんなもの、お前の方が分かってるんじゃないのか?」


 祖父ちゃんは明らかに狼狽した様子だった。それだけ予想外だったのだろう。


「彼女は今精神的に不安定だ。そんな状態で下手に動き回るのは危険としか言いようがない」


 ビャクは落ちついているように見えるけど、僕の足元から降りて近くをうろうろと歩き回っている。それが不安な時の仕草であると僕は知っていた。


「そもそも、雪女が夏に長時間外出するのはあまりよくないんだ。周りの気温が高ければ、それだけ吸収する熱量も増えてしまうから。普通の雪女はそれをなんとなく察しているけど、璃緒は今自棄になってるから――――」


「僕、探してくる」


 僕は立ち上がった。

 璃緒が家出したことが分かった。

 このままだとよくないことも分かった。

 だったらやることは一つしかない。


「言うと思っとったよ、日向。だが、お前はここにいろ」


 それを、祖父ちゃんは即座に制止した。


「どうして!」


「これは妖怪の事情じゃ。お前みたいな子供が出しゃばったところで、できることなど何もない」


「ひゅーが、僕からもお願いするよ。昨日のこと、忘れてはないよね」


 ビャクは後ろ足で立つと、僕の右手を前足で掴んだ。

 昨日のことを思い出す。成す術もなく吹き飛んだこと。右手がどうなったか。

 分かっている。よく分かっている。


 でもそれは、諦める理由にはならない。


「祖父ちゃん、ビャク。僕はずっと璃緒に負けてきたんだ」


 それはもう、何度も負けた。

 指で数えるのはとっくに不可能で、何十も何百も、下手したら千回を超えているかもしれない。


「それでも僕は、一度だって諦めたことは無いんだ」


 今思えば、僕が負け続けた原因は璃緒が雪女だったからだ。

 でも、それを負けの言い訳にするのは好きじゃない、と思った。


「今度こそは勝てると思ってた。今でも思ってる」


「ひゅーが……」


 それが、惚れた男のみっともない意地だったとしても。







「だから、行かせてよ。璃緒がまだ悩みを抱えているなら――――僕の『お役目』は、まだ終わってない」







 しばらく座敷は沈黙に包まれた。

 しびれを切らしたころ、沈黙は祖父ちゃんのでかい溜め息で破られた。


「本当に、考えなしに突っ込むつもりだったのか、この馬鹿孫は……」


「ば、馬鹿孫ってなにさ!?」


 事実じゃ馬鹿、と祖父ちゃんは僕の頭を小突いた。地味に痛い。


「……しかし、この馬鹿さが必要になるとは、世も末じゃな」


「そんなこと言うなよー、おじいちゃん」


 え、なに、何の話?

 よく分からないまま混乱している僕の両肩を、祖父ちゃんは強く掴んだ。


「いいか、馬鹿で真っ直ぐなお前に一つだけおまじないをくれてやる」


「おまじない……?」


 ものすごく胡散臭いワードなのに、あまりにも祖父ちゃんの目が真剣で、


「よく聞けよ。もし妖怪と相対するのなら――――『何だってできる』と思い込め。出来るか?」


 僕は、それを思わず信じてしまった。


「――――うん、出来るよ」













 晴れた空の下の、細い畑道を全力で走り抜ける。

 日差しが熱くて、空気が熱で篭っていて、でも吹き抜ける風が気持ちいい。

 僕の好きな地元の夏だ。でも、今は楽しんでいる場合じゃない。


「どうせ、璃緒が家出するならあそこに決まってるんだ……!」


 いつかの冬の日を思い出す。

 よく知った畑道は、小さな神社に続いている。












 神社は、夏とは思えない冷気に包まれていた。

 夏にある筈のない霜を踏みながら、僕は自分の予想が当たったことを悟った。


「やっぱりここにいたね、璃緒」


 神社の奥、賽銭箱の前の階段に璃緒は腰掛けていた。 

 まるで凍えているみたいに、自分で自分の身体を抱きながら、俯いて。


「心配したよ。さ、帰ろ」


 僕は右手を伸ばした。


「ちかづかないで」


 それが璃緒に触れる前に、強い冷気が僕を拒絶した。

 霜焼けになりそうな右手を、僕は下ろして握りしめた。


「日向、私のこと……聞いた?」


 璃緒が顔を上げる。

 ずっと泣いていたのか、顔が赤くて、目元が腫れていた。


「聞いたよ」


 僕は頷いた。


「私、永久機関っていうのだってね。よく分からないけど、とってもすごくて、おまけに人類の悲願なんだって」


 璃緒は笑う。それは僕の好きな透き通るような笑顔じゃなくて、暗く濁った嘲りだった。


「無限のエネルギーですって!!信じられないわ。ただ周りを寒くして、ちょっと力が強いって、それだけだって思ってたのに!!」


 ただの雪女。ただのファンタジーだったら、どれだけよかっただろうか。

 それを科学で見てしまったから、それはたちまち『異常』と捉えられてしまう。


「どうしよう、日向。私――――化け物だったみたい」


 璃緒の瞳から、涙が零れた。

 雫は赤い痕を伝って落ちると瞬時に凍り付き、砕けた。


「璃緒は、どうして家出したの?」


「……私は、あそこには帰りたくないの。異界は、異常なことを当たり前のように思っている人たちの場所よ。そこに帰ったら、私は……本当に、ただの化け物だって認めることになってしまう」


 祖父ちゃんから、転校する前は璃緒は異界に住んでいたことを聞いていた。

 どうしてこっちに来たのかは分からない。

 でも、きっと璃緒は、自分のことを人間だって思い込みたいのだ。


「私は、普通になりたかった。特別でなくていい、何も出来なくてもいい、普通に人を好きになって、恋をして、そんな――――普通の女の子に」


 璃緒は弱々しい瞳で僕を見つめた。僕に縋っているみたいだった。


「ねえ、日向。私遠くに逃げようと思うの。だから――――」


 冷気が和らぐ、璃緒が僕に手を伸ばして、そしてそれを途中で止めた。


「――――ううん、なんでもないの。ひとりで行くわ」


 彼女はなんて言おうとしたのだろうか。

 もし「一緒に来て」なんて言ってきたら、いやそれは夢の見過ぎだろうか。

 でも、もし璃緒が何て言ったとしても、これから僕のやることは変わらないのだ。


 僕は宙を彷徨う璃緒の手を、右手で強引に掴んだ。璃緒の手は、氷のように冷たかった。


「璃緒――――」


 璃緒の大きくて鋭い瞳が見開かれる。驚愕か、期待か。

 それを僕は、裏切らないといけない。


「――――勝負をしよう」












 璃緒はそれを聞いて固まった。そして表情が変わる。驚きから混乱へ。そして怒りへ。


「馬鹿に……しているの!?」


 今までにない、強い冷気が襲い掛かってきた。右手に痛みが走ったけど、我慢して腕を掴み続けた。


「なんで今、そんなお遊びみたいなことをしないといけないわけ!?」


「僕は真剣だよ」


 凍傷になりそうな右手を、さらに強く握る。


「僕はずっと璃緒に負けてきた。でも今度は勝てると思って、そのためにここに戻ってきたんだ。勝ち逃げなんて、許さない」


 僕は本心を告げる。

 今度こそ勝ちたいから。負けたままで終わりたくないから。

 勝って、まっすぐ璃緒に告白したいから。


「わ、私は妖怪よ!雪女よ!……化け物なのよ!?」


「それが、どうしたの?」


「勝てるわけないでしょう!?」


 璃緒の言い分はもっともだ。

 でも、それが勝てない理由にはならない。


「じゃあまた勝てばいいじゃないか。雪女なんでしょ?永久機関で無限のエネルギーなんでしょ?また僕を負かせばいい」


 わざと挑発するような言動をしてみる。

 あの頃と同じなら、彼女はきっと負けず嫌いなままだから。


「まあ、それでも今度は僕が勝つよ。今の璃緒には、負ける気がしないね」


「言ってくれるじゃない……ッ!!」


 冷気がさらに増す。

 でも、緊張なのか興奮なのか、あまり寒さは感じなかった。

 むしろ、胸がひどく熱を持って、暑いくらいだ。


「全力で来なよ。今度こそ、僕が勝つから」


「いいわよ……!今度も、負けないから!!」














 勝負は単純な競争にした。

 ここから、昨日会った川岸まで先に着いた方が勝ち。昔やったようなものと同じの、とてもシンプルなものだ。

 距離は大体3kmくらいだろうか。早ければ十分程度で着いてしまう。ましてや雪女の璃緒なら。

 本当に一瞬の勝負だ。


「準備はいい?」


「それはこっちの台詞よ」


 本当にお遊びのようで、あの頃を思い出す。

 勝っても負けても、何も起こらないかもしれない。

 それでも。


「よーい……スタート!!」


 僕が合図すると、二人揃ってスタートする。

 僕は前へまっすぐ。璃緒は――――斜め上に跳躍していった。


「高っ……!」


 たった一回の跳躍で、璃緒は僕のずっと先まで行ってしまった。

 そしてもう一回跳躍すると、遥か遠くまで飛んでいく。

 これが、本気を出した妖怪の力。それに、僕は勝たなければいけない。

 僕は、勝てるだろうか?


「『なんだって出来る』と思い込め」


 祖父ちゃんの言葉を思い出す。

 だったら思い込んでやる。

 妖怪にだって、僕は勝てるのだと。


 ――――心臓が、ひどく熱い。











 



 どうして璃緒のことを好きになったのか。

 実は、その理由は結構曖昧だったりする。


 多分、他の女子に迎合しない一匹狼な感じとか、シンプルに運動している姿が格好良かったとか、あるいはただ見た目が可愛かったとか。

 色々あると思う。でも、どれも決め手とは言い難かった。


 ただ、ひとつ「これだ」というものを挙げるとするならば。


「いつでもかかってきなさい!今度も負けないから!」


 ――――あの、なんだって出来るって確信しているようなキラキラした目が、とても眩しくて、羨ましかったことだろうか。













 細い畑道を全力疾走する。

 璃緒との距離は順調に引き離されている。もう璃緒の姿は辛うじて見えるかどうかくらいだ。

 璃緒に勝つためには、3kmの道を全て全力疾走するくらいの速度が必要になる。いや、それでも足りないかもしれない。

 そんなことできるのだろうか?

 考える前に必死に前進を動かした。


「やっばい、これ追いつけるかな……」


 足はほぼ全力疾走だ。100メートル走るのと同じくらいの勢いで動かしている。

 でも、その割にはあまり疲れは感じていない。マラソンの序盤のような、軽い息苦しさくらいしかない。


 ……これ、もう少し足を速く動かせるんじゃない?


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。

 だからやってみた。そうしたら、もっと早く足が動いた。


「おお、意外と……いけるもんだね」


 景色が流れる速度がぐんと上がり、璃緒との距離が少し縮まる。自分にこんなポテンシャルがあったなんて驚きだ。

 璃緒は相変わらずすごい勢いの跳躍を繰り返している。エネルギーの吸収を続けているのか、上から小さな氷の結晶が雪のように降っていた。

 その光景を見た周りの人は、璃緒と僕を驚いた表情で見つめていた……って、なんで僕も?

 

「まあいいや、急がないと」


 璃緒との距離は縮まったけど、まだ足りない。

 でも、身体はまだ余裕があるみたいだ。

 だったら、ともっと足を速く動かしてみる。景色がさらに速くなる。距離がもっと縮まる。


 ……なんか楽しくなってきたな。

 

 ああ、そうか。

 僕は今、あの頃と同じように遊んでいるのかもしれない。

 璃緒には少し申し訳ないけど、僕はこの競争を、楽しんでいたかった。

 ……というか、勝ったらどうするとか、そういう約束してなかったな。


 距離は少しずつ縮まっている。

 後ろを振り向いた璃緒も、驚いているようだった。

 これならいけるかもしれない……!

 そう思って、交差点を曲がったときだった。


「げっ!!」


 家と家に挟まれた、小さく長い路地。

 車一台通れるかどうかの細い道の奥を、軽トラックが塞いでいた。

 運転手は離れているみたいで、しばらく動く気配はない。

 一応人が通れるくらいのスペースは空いているけど、走って通るには少し狭すぎる。


「マジか……」


 僕に与えられた選択肢は二つ。

 スピードを落として隙間を通るか、迂回して別のルートを通るか。

 どちらにせよ、タイムロスになることには変わりなかった。

 璃緒はというと、早々に軽トラックを飛び越していってしまった。


「まずい、非常にまずい……」


 僕も璃緒も、このあたりの地理に関しては詳しい方だ。だから、どの道を通れば川に一番近いか、お互いによく分かっている。

 そして、この道が最短ルートなのだ。ここを通らなければ面倒くさい迂回ルートを通る羽目になる。

 ただえさえスピードに差があるのだ。ここで余計なタイムロスをすれば、絶対に負ける。

 どうする?どうすればいい?

 速度を緩めている暇はない。考えている間にも、軽トラックはどんどん近づいていた。

 その時、ふとあることを思いつく。




「……じゃあ、璃緒と同じように飛び越えればいいんじゃないか?」





 簡単な話だ。

 璃緒に追い付きたいなら、璃緒と同じように進めばいい。

 とはいえ、あそこまでのジャンプはちょっと人間には厳しいかもしれない。


 じゃあ、荷台と屋根を蹴って三段跳びの要領で飛び越せばどうだろうか?

 頭の中でシミュレーションする。うん、こっちならいくらか現実的だ。

 あとは、身体がそれについてくればいいだけ。



 ――――出来るか?と心臓に問う。


 ――――出来るさ、と心臓が応える。



 記憶に焼き付いた、昔の璃緒の目を思い出す。

 なんだって出来ると、迷いなく信じていた、あの目を。

 今の僕が、同じ目をしているなら――――!!



「と、べぇええええええええええええ!!!!!!!!」


 全速で助走を付けて、右足で地面を大きく蹴る。

 同時に、左足を前に突き出した。

 身体が前へ、そして上へ跳ねる。左足が、荷台に届いた。



「もう、いっちょおおおおおおおおお!!!!!」



 左足を、荷台に叩き付ける。左足に全体重を乗っけて、そのまま全身を上へ押し出した。



「さいごぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」



 今度は右足を前に突き出して、屋根に届いた。

 そして僕は、軽トラックを思いっきり飛び越したのだった。



「やっ……たぁああああああああああああ!!!!!」



スローモーションに感じる中で、僕は空を飛んでいるような錯覚を覚えた。

 普段見たことのない高さで細い道を見下ろす。

 前方には璃緒の姿が見えて、やっぱり僕を驚いた目で見ていた。

 どうだ璃緒。僕だってやるでしょ?

 僕は璃緒に向かってピースサインを突き出してみせた。

 ――――心臓が、熱い。












「鬼頭だ。どうした?……なに?……うむ。分かった。こっちでなんとかする……うむ」


「どうかしたのー?」


 鬼頭陽太郎は、溜め息を吐きながら受話器を下した。

 そんな姿を、猫又のビャクは面白そうに眺めている。


「馬鹿孫と氷川の娘が道端で跳び回っているらしい」


「それはまた……随分と派手にやってるねー」


 陽太郎はこめかみに手を当てた。


「ここまで派手にやるとは、まったくあの馬鹿は……」


「……とか言ってるけど、最初に仕向けたの君の方じゃないかー」


 ビャクはクスクスと笑う。






「ねえ、鬼頭――――いや、『オニガシラ』って言った方がいいかな?」







「かつて妖怪たちを率いて人間に反旗を翻し、しかし負けて人類への服従を強要された種族、それが鬼」


「……もうずっと昔の話じゃ。儂の遥かな祖先の、な」


「でもその能力は受け継がれている。何も知らないひゅーがにも」


 陽太郎は沈黙した。


「鬼の能力は単純だ。自分の心臓から望むだけのエネルギーを生産し、それを様々なことに利用できる。身体能力の強化や、傷の修復、他にもいろいろ。つまり、それは――――」


「――――第一種永久機関。零から一を、一から無限を生み出す、エネルギー保存則に……いや、物理法則に真っ向から喧嘩を売るような能力じゃ」


「僕も話には聞いていたけど、実際に見てびっくりしたよ。ひゅーがの怪我、あっという間に治っちゃうんだもん」


 ビャクは、昨日の夜を思い出す。

 事故から運ばれた日向の右腕は、目も当てられない惨状だった。恐らくは、二度と動かせないくらいの。

 それが、まるで巻き戻し再生を見ているかのように治っていくのをビャクは見た。

そして確信した。鬼頭日向は、間違いなく鬼の血を継いだ妖怪であると。


「だから、ひゅーがと璃緒を会わせたの?璃緒に、第二種永久機関である雪女に正面から向かえる、鬼のひゅーがを」


 ビャクは、一昨日のことを問いただす。正確には、今日に至るまでの、計画を。


「氷川の娘は聡明だが、その分どこか冷めた部分があるからな。能力のあるなしに関わらず、いずれ苦労すると思ったんじゃよ。だからこれは……老婆心、というやつだ」


 賢い子には馬鹿をぶつけてやればいいんじゃ、と陽太郎は鼻を鳴らした。

 強引だねー、とビャクは苦笑する。


「だが、それだけじゃ。あいつが仮に鬼でなかったとしても、同じように差し向けたじゃろう。それが違う過程を踏んだとしても、同じ結果になるだろうと、儂は思っておるよ」


「それは、どうして?」


「ああいう冷え切った心を融かすためには、無限の熱量ごときでは足りない。馬鹿で真っ直ぐな――――心の熱が必要なんじゃ」


「……ああ、暑い。暑苦しいったらありゃしない」


「当たり前じゃろう。今は夏なんじゃから」

















微かにだけど、川の流れの音が聞こえてきた。ゴールまで、あと少しだ。

璃緒はまだ僕の前にいる。少しずつ距離は縮まっているけど、追い越すにはまだ足りない。

どれだけ速く走れたって、勝てないと意味はない。


璃緒はウサギみたいに斜め上への跳躍を繰り返して移動している。多分、エネルギーの吸収と放出を繰り返すときに一番効率がいいんだろう。

でも、曲がり角ではそれが出来ない。そのせいで、直角な交差点ではいつも速度を落としているのを見ていた。


……次の突き当たりで、川沿いの道に出る。そこからはゴールまで一直線になる。

勝負を仕掛けるなら、そこだ。


僕の数メートル前を行く璃緒が、突き当たりの直前で着地する。いつもならすぐに次の跳躍をするけど、突き当たりだからそのまま走って角を右に曲がった。


(今だ!)


僕は全速力から、さらに加速した。そして、


「うぉおおおりゃああああああ!!!」


両足を突き出したドロップキックの体勢で、思いっきり跳躍した。力強く踏み切った僕の身体は地面と水平に吹っ飛び――――


「これでどうだぁあああああああ!!!!」


――――そして両足が激突する。

突き当たり、川に沿うように取り付けられた、ガードレールに。


「なっ――――」


がいぃぃぃぃん、と鈍色金属音が響き、それに驚いた璃緒が慌てて振り返った。

僕はそれに目もくれず、勢いのまま折り畳んだ膝をバネのように伸ばした。右に、ゴールに向かって。


「なに、それぇええええええ!?」


弾丸のように弾き飛ばされた僕の身体は、緩い放物線の軌道を描いた。衝撃を膝を使ってうまく吸収しながら着地すると、その勢いを殺さないようにまた走り始めた。

そして、


「璃緒、追い付いたよ!!」


僕は、璃緒の隣まで辿り着いたのだ。









「嘘でしょ、アンタ―――――」


 あり得ない、という表情で璃緒は僕を見つめた。


「もうゴールはすぐそこだよ、璃緒!」


 僕は全速力から、さらに足に力を込めた。身体はそれに反応して、さらに速度を上げた。

 璃緒も焦ったように跳躍した。


 速度は互角。

 勝敗を分けるのは、お互いの意地だけだ。


 そして、意地だったら、僕は絶対に負けない自信がある。


「どうして、どうして――――!!」


 璃緒が叫ぶ。疑問に戸惑いながら。


「今度こそ、今度こそ――――!!」


 僕は叫ぶ。確信を持ちながら。




「僕の、勝ちだぁああああああああああああ!!!!」




 璃緒が何度目かの跳躍を終えた瞬間、僕は思い切り跳ねた。

 その勢いに任せて――――僕は川岸に頭から突っ込んだ。

 璃緒よりも、ほんのコンマ数秒だけ早く。

 まあ、そこまではよかったんだ。そこまでは。


「――――あっ」


「――――えっ」


 跳び過ぎた。それはもう、余りにも。

 昨日の璃緒のそれすらもはるかに超える勢いで頭からダイブした僕は、膝ほどの深さしかない川に頭からダイブした。

 当然、この勢いなら顔面が川底に命中するわけで……。


「ひ、日向ーーーーーーー!!?」


 水の冷たさと頭部への強烈な衝撃、そして璃緒の叫び声を感じながら、僕の意識は遠のいていくのだった。

















 意識が、ゆっくりと目覚めていく。

 赤い光と、後頭部に感じる柔らかくて、温かな感触。


「日向、目が覚めたの?」


 目を開くと、璃緒が僕の顔を覗き込んでいた。ホッとしたような表情を浮かべて。

 しばらくして、僕は璃緒に膝枕されているのだと気付いた。


「うん、なんとか。……えーと、何があったの?」


 正直、記憶が少し曖昧だ。

 璃緒と競争をして、なんとか勝って、そのまま川にダイブして……


「馬鹿、なんであんな真似したの!?普通だったら死んでたわよ!!」


「あいたっ!?」


 頭頂部に痛み。璃緒が勢いよくチョップしていた。それも何度も。

 妖怪のチョップは少し洒落にならない。

 でも、璃緒があまりにも泣きそうな顔をしていたから、僕はそれを黙って受け入れた。


「心配、したんだから」


「……ごめん」


 それっきり、璃緒は黙ってしまった。

 僕も言い出しづらくて、結局同じように黙ることしかできなかった。











「……ねえ、日向も妖怪だったのね」


 沈黙を破ったのは、璃緒だった。


「日向を川から引き揚げたとき、顔面血まみれで、そのまま死んじゃうんじゃないかってすごく不安だったの。なのに、傷が自然に治っていって……。それに、競争の時だって!あんなの人間じゃ無理よ」


「……」


「日向は、自分が妖怪だって聞いてどう思った?怖かった?それとも、違う?」


「璃緒……」


「うん」







「僕――――妖怪だったの?」







「――――は??」


 いや、だって。

 僕が妖怪?そうなの?


「アンタ、聞いてないの……?」


「う、うん。祖父ちゃんが「何でも出来るって信じろ」って言ってたから信じてみたら、本当に全部できちゃって……」


「それで、日向はどう思ったの……?」


「えーと……「人間やればできるもんだな」って」


「……」


 あれ、璃緒の目つきが可愛そうな人を見るやつに見えるんだけど。


「世界のどこに、こんな馬鹿げたスピードで走る人間がいるっていうのよ!!気付きなさいよ!!」


 い、痛い!!頭頂部にチョップしないで!!


「本当に、馬鹿よ……この馬鹿」


「うん、知ってる」


 僕は馬鹿だから。

 ロマンチックに告白する方法だって、分からない。


「ねえ、璃緒」


「……うん」


「君が、好きです。」


「……知ってるわ、馬鹿」


 璃緒の瞳から、涙が零れた。

 頬を伝って零れた雫は瞬時に凍って、僕の頬に触れる前に融けて落ちた。
















「これから、どうしようかしら」


 陽は沈みかけていた。周りに街灯が少ない川岸は、あっという間に暗くなった。


「私は妖怪で、異界に行くことが決まってて……日向も、妖怪だって分かっちゃった。きっとそのままじゃ済まないわ」


「じゃあ、一緒に逃げる?」


「へ?」


「だって、異界に行きたくないんでしょ?僕だって、璃緒と離れたくない。じゃあ、逃げちゃおう」


 僕は寝ころんだまま、璃緒の頬に手を添えた。

 ひんやりとして柔らかな、女の子の感触。


「だって、僕たちは妖怪だ。それもとびきりすごいやつ。なんだって出来るんだから、家出だってやっちゃえばいい」


「本当に馬鹿な考えね……子供みたい」


「でも、悪くないでしょ?」


 今は夏で、僕たちは子供だ。

 少しくらい浮かれてたって、いいじゃないか。

 璃緒は、頬に添えた僕の手を握った。



「うん。馬鹿で、子供で、でも――――あったかい」



 璃緒は雪女だ。

 そんな彼女の心に、少しでも熱を伝えられたのなら。

 こんなに嬉しいことはない。


「ところで、璃緒」


「ん?」


「告白の返答、まだ聞いてない」


「なっ――――察しなさいよ、この馬鹿!!」


 璃緒の顔が一気に真っ赤になって、頬も急に熱を帯びた。

 比喩じゃなく頭から蒸気が吹き出そうなほど慌てた姿が可笑しくて、僕はつい噴き出してしまった。













 この後、僕と璃緒の長いようで短い逃避行とか、なんとかこっちで住めるように祖父ちゃんと死ぬ気で交渉したこととか、色々あったんだけど、それはまた別の話。

 ただひとつ、言えることは。





「ねえ、日向」


「どうしたの、莉緒?」


「ずっと言いそびれてたから、今言うわ。――――好きよ、あなたのこと」


「……蒸気噴き出すほど恥ずかしいなら、やめればいいのに」


「ッ!うるさい、この――――馬鹿!!」







 あつかったあの夏の日を、僕たちはずっと忘れない。

矢野顕子「飛ばしていくよ」を聴きながら

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― 新着の感想 ―
[良い点] 青春!という感じでとてもさわやかなお話でした! 勢いよくだぁぁぁぁっと読めて面白かったです。 ツンなおなごはカワエエです。 ご馳走様でしたァッ! [一言] 視点がおかしくなっている箇所が…
[良い点] 幼馴染が雪女っていいわね! [気になる点] >璃緒はそのままグラスを傾けた。自分の口ではなく、僕の頭に向けて。 >麦茶色の氷塊は僕の脳天に見事に命中し、砕け散った。痛みと冷たさが頭に沁みて…
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