四
泣き疲れた睡蓮は、胡坐をかく玉蘭の膝に頭を預けて横たわり、ぼんやりとした顔で天井を見上げていた。あれからどれほどの時間が経っただろう。散々泣き尽くして、体の中が空っぽになってしまったようだ。指先一つ動かすことさえ億劫で、何もする気が起きず、このまま眠りに落ちてしまいたい。
けれど、今があまりに幸福で満ち足りすぎていて、目覚めた時に全てが夢だったのではないかと思うと恐ろしく、睡蓮は今にも落ちようとする瞼を開くのに必死だった。そんな睡蓮を優しく抱き留めたまま、いつのまにか解けていた彼女の長い髪を何度も撫でていた玉蘭が、ふと穏やかな声で語り始めた。
「お嬢様は、俺と初めて出会った時の事を覚えていますか?」
「………ええ」
睡蓮はこくりと子供のように頷いた。忘れもしない。睡蓮が玉蘭と最初に顔を合わせたのは、門前に行き倒れていた彼が父に拾われ、使用人として働き始めた後の事だったと記憶している。当時まだあどけなさが残る少年だった玉蘭を、新しく入った使用人として母から紹介された睡蓮は、その凛とした美しい顔立ちに心から感心した事をよく覚えている。
玉蘭と名乗った少年は、ひどく優しい眼差しで睡蓮を見つめ、戸惑う彼女に惜しげもなく微笑みをくれた。他人からの好意に慣れていなかった幼い睡蓮は、気まずい思いで視線をそらし、消え入るような声で挨拶をするだけで精一杯だった。
そう告げると、玉蘭は少し寂しそうな顔で苦笑し、「いいえ」と小さく首を振った。
「やはり、覚えてはいらっしゃらないようですね。本当は、屋敷の前で倒れていた俺を一番先に見つけてくれたのは、お嬢様なのですよ」
「え?」
玉蘭は首を傾げる睡蓮の手を取り、その細い指の形を確かめるように撫でた。
「俺は今でもよく覚えていますよ。疲労と空腹で朦朧とする意識の中、俺の頬を優しく撫でてくれた小さな手のぬくもりを。俺も詳しい話は後から聞いたのですが、いつもは無口で人形のように大人しくしているあなたが、あの日に限って突然門の外に出たいと駄々をこねたそうです。不審に思った門番が扉を開けて様子を見てみると、薄汚れた格好で意識を失っている俺が倒れていて、お嬢様は迷わず駆け寄ったそうですよ。そこにちょうど出先から戻ってきた旦那様が現れ、俺を屋敷に入れるように指示したのです」
「………全然覚えてない」
そんな話は初耳だった。驚く睡蓮に、玉蘭は眉間に皺を寄せ、怒りの籠もった低い声で言った。
「無理もありません。あの日、門番に無理を言った罰として、奥方によって寒い地下室に一晩閉じ込められたせいで、お嬢様は高熱を出して寝込んでしまわれたのです。数日後に回復し、ようやく再会できた時には、お嬢様は俺の事をすっかり忘れてしまっていました」
――――はじめまして。睡蓮といいます。
あの時、玉蘭がなぜか驚いたような顔をしていた理由が今になってようやく分かった。それでも玉蘭はすぐに親しみの籠った笑みを取り戻し、ぎこちない睡蓮との会話に根気よく付き合ってくれた。
「覚えていなくても構いません。俺にとってお嬢様は大切な命の恩人です。朱家に仕える事を決めたのは、追っ手から身を隠すためという理由もありましたが、一番はお嬢様のことを放っておけなかったからです。
どんなに冷たい仕打ちを受けても、必死に涙をこらえている幼いあなたの強がりが危なっかしくて見ていられなかった。そんなお嬢様が、俺だけの前では子猫のように甘えて、素直に涙を流してくれる。それがどんなに嬉しく、誇りに思っていたか、あなたは知らないでしょう」
思いがけない告白だった。睡蓮は動揺し、ほのかに赤面した頬を俯くことで隠した。
「………わたし、ずっと玉蘭に迷惑をかけてばかりいる思っていたわ。お前は優しいから、虐待されている雇い主の娘を見捨てられず、無碍に突き放すことができずにいるのだと。悪いと思っていながら、それでも、わたしはずるくて弱いから、お前に依存して離れることができなかったの。本当に、ごめんなさい」
過去の己の身勝手な振る舞いに恥じ入り、睡蓮は深くうなだれる。その露わになった白く細い項を、不意に、玉蘭の指先がするりと撫でる。思わずぞくりとして、睡蓮が顔を上げると、玉蘭は唇を歪め、まるで痛みをじっと耐えているような、今まで見せたことのない苦悩の表情を見せた。
「お嬢様が謝る必要はありません。俺は、決して優しくなどありませんよ」
「………玉蘭?」
しかし、不思議そうに睡蓮が名を呼べば、玉蘭はすぐにいつもの笑顔に戻り、話を別のものに変えた。
「お嬢様は、これからどうなさるおつもりですか?」
「どうって?」
「このまま俺の妃として後宮にいるわけにはいかないでしょう? お嬢様がここから出られるように俺が何とかしてみせます」
その言葉に驚いた睡蓮は、玉蘭の腕にしがみつき、大きく首を振った。
「いやよ、玉蘭。わたしをどこにもやらないで。わたし、お前の側にいたい」
せっかく再会できたのに、もう一度離ればなれになるのは絶対に嫌だった。しかし、玉蘭は厳しい声できっぱりと言い放った。
「いけません、お嬢様。あなたと離れがたいのは俺も同じです。でも、お嬢様は俺の主人だ。あなたの存在を知ってしまった以上、このまま後宮に囲っておくわけにはいきません。外に出た後の事も全て俺が面倒を見ますから、どうかご安心を」
「違う、そうじゃなくて………!」
玉蘭が自分を遠ざけようとしている事実に、睡蓮は大いに傷ついていた。睡蓮は玉蘭とならこのままどうなっても構わないと覚悟していたのに。玉蘭が側にいなければ、睡蓮はもう生きていけない。これ以上、もうひとときも離れていたくないと思うのは睡蓮だけだというのか。
「―――っ」
睡蓮はくしゃりと顔を歪めた。やはり、玉蘭は睡蓮を女として見ていないのだ。最初から分かっていた事実を突きつけられ、止まっていたはずの涙が再びこぼれ出した。
玉蘭が戸惑っている。睡蓮は昔から彼を困らせてばかりだった。だが、それも今回が最後になるかもしれない。後宮を出てしまえば、皇帝である玉蘭と会う事は極めて難しいだろう。律儀な玉蘭はまめに手紙をくれるだろうが、こうして直接彼のぬくもりを知っている睡蓮が、それだけの関係では満足できるはずもない。
「お嬢様………」
うつむく睡蓮の頬に、玉蘭が手を伸ばす。その長い指をぱしりと振り払い、驚いた玉蘭を強い眼差しで睨めつける。睡蓮は覚悟を決め、薄く開いた彼の唇に、己のそれを強く押しつけた。