三
三年ぶりに再会した玉蘭は相変わらず麗しく、その痩せた輪郭は会えなかった月日の分だけ精悍さを増していた。涼やかな双眸を見開いたまま、食い入るようにこちらを見つめる玉蘭を、睡蓮はぽかんとした表情で見上げた。
「玉蘭………お前、こんなところで何をしているの?」
「―――っ、それは、こちらの台詞です! お嬢様こそ、一体何故ここにいらっしゃるのですか!?」
「何故って………子作りのため?」
「こ、」
その率直すぎる言葉に、玉蘭の視線が睡蓮のさらけ出された白い胸に落ちる。次の瞬間、白皙の頬が鮮やかな朱に染まり、不自然に目を逸らした玉蘭は、両手を上げて素早く体を起こした。
「なっ、何て格好をしているのです、お嬢様!」
「脱がしたのはお前だけど」
「―――っ」
一気に顔色をなくした玉蘭は、慌ててその辺りに落ちていた単衣を睡蓮の裸の肩に着せ、慣れた手つきで素早く帯を結んでいく。睡蓮はぱちりと瞬きながら、玉蘭の戸惑う様子をまじまじと観察した。人間、自分以上に取り乱している者を見ると、かえって冷静になるものらしい。睡蓮はいつの間にか震えが収まっていた手を伸ばし、玉蘭のなめらかな頬を確かめるように撫でた。
「―――玉蘭」
「はい」
玉蘭は動きを止め、睡蓮の縋るような眼差しを真っ直ぐ受け止めた。そっと、睡蓮の小さな手の上に、待ちわびていた温かな手が重ねられ、睡蓮はほうとため息をつく。
(ああ)
懐かしくて、いとおしい。間違いない。この温もりは確かに玉蘭だ。睡蓮は両手を広げて玉蘭の首に抱きつき、その広い胸に頬を預けて目を閉じた。しなやかな腕が心得たように背に回され、耳元で優しい声が響く。
「………昔話をしましょうか、お嬢様」
* * * * *
「俺の本当の名前は、龍蘭と言います。そして、人は皆、俺を龍帝と呼ぶ」
―――龍帝。東大陸最大の国、聖龍国を統べる君主の呼称である。
後宮に入ったばかりの頃、妃教育の老師から何度となく聞かされた名だ。睡蓮は宮女になって初めて己が住む国と皇帝の名を知った。たとえ知らなくても市井に生きる人間は問題なく暮らしていけるため、睡蓮のような者は決して珍しくない。
「俺は先帝の末の公子として生を受けました。と言っても、俺の母は父が地方へ行幸した際、気まぐれに手をつけた下級貴族の娘で。野心のない母は父に妊娠を報告する事なく、生まれた赤子を私生児として手元で育てました。
しかし、十五歳になった俺の元に、都から使者がやってきました。どこで嗅ぎつけたのか、皇帝の落とし種である俺を、正式な公子として迎えにきたと言うのです。突然の事に俺はもちろん抵抗しました。貴族とはいえ、ほとんど平民と変わらない生活をしてきた俺にとって、国家の存亡などはっきり言ってどうでもよかった。いきなり自由を奪われ、連れ去られるようにして馬車に押し込められた俺は、厳しい監視の目を盗み、隙を突いて逃げ出したのです。
けれど、行く当てもなく方々を彷徨っている内に、ついにとある屋敷の前で力尽き、行き倒れてしまいました。そこからはお嬢様もご存じの通りで、俺は追っ手から身を隠すために、使用人として朱家に仕える事になりました」
徐々に現在へ近づいてくる玉蘭の過去を、睡蓮は一言も聞き漏らさぬよう、息をひそめて聞いていた。玉蘭はそんな睡蓮の背を、赤子をあやすように撫でている。そして、場面はようやく睡蓮が最も知りたかった失踪の理由にたどり着いた。
「それから十年間、俺は朱家で思いがけず平和な生活を送る事が出来ました。けれど、ついに三年前、追っ手に居場所を特定され、屋敷の外へ使いに出ていたところを捕らえられてしまった。もちろん抵抗はしましたが、これ以上暴れれば朱家に圧力をかけると脅迫され、俺は大人しく捕まる事を選びました。
この時、流行病が王宮内で急速に広まり、数多いた公子達が次々に命を落としていた事から、彼らは十年前よりもかなり必死でした。王宮に連れ戻された俺は、否応なく帝位争いに巻き込まれていきました。その後の紆余曲折は省きますが―――最終的には皇帝までもが病に倒れ、唯一健康体で生き残った公子である俺の元に、帝位が転がり落ちてきたというわけです」
無意識に玉蘭の襟を強く握りしめていた睡蓮は、青ざめた顔で彼を見上げる。己に起きた出来事を語る玉蘭の表情は淡々としていて、まるで他人事のようだった。巨大な権力を前にして、個人の意思などなきに等しく、諦めて流れに身を任せるしかなかったのかもしれない。突然何も告げずに姿を消した玉蘭に対し、一時は見捨てられたと憤りさえ感じていた睡蓮は身勝手な己を恥じた。
「―――とまあ、ここまで長々と話しておいて何なのですが、俺のことなどどうでもいいのです」
「え?」
―――どうでもいい?
聞き間違いかと思い、驚いた顔で見上げる睡蓮の細い両肩を、玉蘭は強い力で掴んで引き寄せる。うっとりするほど端正な顔が、鼻先が触れ合うような距離で、何故だか目尻をつり上げてこちらを睨みつけている。ああ、この表情には見覚えがある。幼い頃、滅多に怒る事のない玉蘭が、彼の気を引こうとわざと危険な真似をして、怪我をした睡蓮をこっぴどく叱った時の怖い目だ。
「一体何があったのです? どうしてお嬢様が後宮にいて、皇帝なんぞに大人しく身を差し出しているのですか?」
「皇帝なんぞって………」
皇帝はお前じゃないの、とは怒れる玉蘭を前にしてとても言い返せなかった。普段優しい人が怒ると実に恐ろしいという話は本当である。睡蓮は幼少期の恐怖を思い出してもじもじと俯き、消え入るような小さい声でぽつりぽつりと己の身に起きた出来事を語り出した。
玉蘭の失踪後、両親が相次いで死亡し、頼る者がいなくなった事。奥方と異母姉によって身一つで屋敷を追い出された事。路頭に迷い飢え死にするよりも、宮女になる道を選んだ事―――。
玉蘭ほどではないが、睡蓮なりに苦労してここまでたどり着いた日々の話を、彼は最後まで口を挟むことなく静かに聞いていた。しかし、その表情は能面のように冷ややかで恐ろしく、睡蓮は震え上がる思いだった。無謀な事をしたと、玉蘭は怒っているのだろうか。それとも、呆れている?
けれど、世間知らずな睡蓮には他に選択肢などほとんどなかったのだ。どんなに愚かに見えても、あの時の睡蓮は生きるために必死だった。
「………お嬢様」
静かな声で玉蘭に名を呼ばれ、睡蓮はびくりと身構えた。思わず目を瞑ると、ぽろりと涙がこぼれた。あっと気付いた時にはもう遅い。今まで我慢してきた感情が一気にあふれ出し、睡蓮の頬を濡らしていく。本当は、ずっと心細かったのだ。一人で生きるのはとても辛くて、思っていたよりも苦しい事だった。
それでも、睡蓮はどんなに絶望しても、死のうと思った事はない。それは玉蘭の存在があったからだ。生きていれば、いつかは玉蘭に会えるかも知れない。そんな儚い期待を胸に、先の見えない毎日を今日まで過ごしてきた。声を上げる事もなく、ぼろぼろと大粒の涙が流す睡蓮を、玉蘭は息も出来ないほどきつく抱き寄せた。
「今までよく頑張りましたね、お嬢様。可哀想に。お一人でさぞ怖ろしかったでしょう。寂しかったでしょう」
「―――っ」
玉蘭の白い指先が、いつの間にか強く噛みしめていた睡蓮の唇をなぞり、優しくほどいていく。
「ぎょくらん」
舌足らずな声が漏れ、ぴんと張り詰めていた最後の糸が切れた。次の瞬間、睡蓮は声を上げて赤子のように泣き出していた。
「玉蘭、玉蘭………!」
玉蘭のしなやかな背に爪を立てて強く縋り付き、彼の名を壊れたように繰り返し叫ぶ。玉蘭は睡蓮の必死な力にびくともせず、彼女の存在全てを全身で受け止め、温かく包み込んだ。
「泣いても良いんですよ、お嬢様。あなたは何にも悪くないんですから」
その懐かしい言葉に、睡蓮はますます涙が溢れて止まらない。
「―――っわたし、すごく、さみしくて………でもっ、ぎょくらんが、いないから、ずっと、なけなくて―――っ」
苦しそうに何度もしゃくり上げる睡蓮を、玉蘭は目を細めて哀れむように見つめた。
「突然いなくなってしまい、本当に申し訳ありません。ずっと連絡したかったのですが、周囲の目が厳しく、お嬢様にご迷惑がかかると思いできませんでした。
王宮に連れてこられてからも、あなたは今頃どうしているだろうかと、気が気ではありませんでした。本当に、ご無事で良かった………」
それはこちらの台詞だと、睡蓮は心から思った。
しかし、安堵した玉蘭に痛いほどきつく抱きしめられ、嬉しさのあまり何も言葉が出てこない。睡蓮はその後、玉蘭のたくましい腕の中、涙が枯れ果てるまで泣いて、泣き続けた。