二
―――玉蘭との別れは突然訪れた。
睡蓮が十五歳の冬、玉蘭はある日忽然と姿を消した。父や他の使用人にも何も告げず、身の回りの物を全て残して屋敷からいなくなってしまったのである。血相を変えた姉や奥方から玉蘭の行方をしつこく問い詰められたが、睡蓮にも心当たりは一切なく、彼の少ない荷物の中からは書き置き一つ見つからなかった。
使用人が前触れもなく辞める事は珍しくもないが、玉蘭はそのような不義理をする人間ではない。まさか何かの事件や事故に巻き込まれたのではないかと屋敷は一時騒然となり、使用人総出で捜索に当たったものの、その行方はようとして知れなかった。
玉蘭を幼い頃から兄のように慕い、心の支えにしていた睡蓮にとって、彼の失踪は強い衝撃と共に深い悲しみを残した。その傷が癒える間もなく、今度は半年後に父が馬車の事故で亡くなり、まるで後を追うようにして母が流行病で命を落とした。
相次いで保護者を失い、天涯孤独の身となった睡蓮を、さらなる不幸が待ち受けていた。亡き夫にかわり、朱家当主の座に納まった奥方が姉と結託し、長年目障りな存在であった睡蓮をついに屋敷から追い出したのだ。持たされたのは僅かな金子ばかりで、ほとんど身一つのまま市井に放り出された睡蓮は、途方に暮れるしかなかった。この時、玉蘭の失踪からすでに一年が過ぎようとしていた。
全てを失った睡蓮は、唯一残された銀の手鏡をお守りのように握りしめ、行く当てもなくとぼとぼと歩いていると、人通りの多い四つ辻の中央に不自然な人だかりが出来ていることに気付いた。人々の視線の先には何やら木製の看板が立てられており、そこに書かれた文章に皆が注目している。文字が読めない睡蓮は、側にいた旅人らしき男に内容を尋ねた。
「宮女募集だってよ。天子様が代替わりしたから、新しい後宮を作るんだと」
宮女とは後宮に仕える女、つまりは皇帝の妃を指す。屋敷からほとんど出たことのない睡蓮にとってはあまりぴんと来ない話だったが、去年この国を治めていた偉大なる先帝が崩御し、その末の公子がこの度新皇帝としてめでたく即位したのだという。それに伴い、数千人規模を持つ先代の後宮を解体し、新たな主のために国内外から様々な美女を募集するのだそうだ。
「嬢ちゃんも応募してみたらどうだい? まあ、正直別嬪とは言えねえが、もしかすると天子様は意外と物好きな男かもしれんぞ」
カカカと豪快に笑いながら、なかなか失礼で不遜な発言を残し、男は去っていった。睡蓮は立て札に書かれた読めない文字を眺めながら、ぼんやりと考えた。睡蓮にとって皇帝など雲上の存在であり、ましてやその妃になろうだなんて大それた事は夢にも見た覚えがない。
今の睡蓮に必要なのはそんな夢物語ではなく、今夜口にする食事や温かな寝床であり、すなわちそれらを得るための金を稼ぐ職だった。学のない睡蓮に難しい仕事はできないが、長年意地悪な奥方や姉にこき使われていたおかげで、一通りの下女仕事は完璧に仕込まれている。宮女募集によって多くの女性が集まれば、それ以上に彼女たちを世話する人間も必要となるだろう。そうなれば睡蓮の働き口の一つや二つも見つかるはずだ。
そんな漠然とした考えで始まった睡蓮の職探しは、本人が驚くほど呆気なく解決した。何と、当初睡蓮が希望を出していた下女ではなく、宮女としてあっさり採用されてしまったのだ。理由は『人員不足』という、至極単純なものである。先帝の崩御は睡蓮の母と同じ流行病による突然死であり、今回の即位は国にとって想定外の事件だった。宦官達は新しい後宮に収める女を吟味する暇もなく、質より量を確保する事にとにかく必死だったのである。
幸か不幸か。そうして睡蓮は千人を超える宮女の一員に迎えられた。希望とはかなり違う形ではあったが、睡蓮には選ぶ余地などないに等しい。世間知らずの睡蓮が他の仕事を探してあてもなく路頭をさ迷っていても、道端で飢え死にする悲惨な結末が待っていただろう。それに比べれば、例え顔も知らぬ男の妻になる道を選んだ方がいくらもましに決まっている。
睡蓮はそれから二年の月日を後宮の中で何不自由なく暮らした。最初の数週間ほどは皇帝のお手つきになる事を恐れ、眠れない夜を過ごしていた睡蓮だったが、即位から間もない皇帝は政務に忙殺され、ほとんど後宮を訪れる事もない。そうでなくとも、寄せ集めの後宮とは言え、美しく可憐な女達がそこかしこにひしめく花園において、芸に秀でたところもない平凡な容姿の睡蓮が出る幕はない。
早々に己の立場を弁えた睡蓮は、苦労の多い人生において思いがけず訪れた平和な日々をそれなりに順調に過ごしていた。
―――今日という日まで。
* * * * *
「―――朱才人様。これより先は、お一人でお進み下さい」
過去の記憶を振り返っていた睡蓮は、はっと我に返った。前を歩いていた女官がいつの間にか立ち止まり、睡蓮に向かって深く頭を下げている。後宮の自室を出てから、女官と共に数え切れないほどの扉をくぐり抜け、気がつけば王宮の最奥に位置する一室に辿り着いていた。
睡蓮は小さく頷き、長い袖の中で手鏡をぎゅっと握りしめる。これをくれたあの人は、今頃一体どこで何をしているのだろう。生きているのか、死んでいるのか。今となってはむしろ分からない方が良いとさえ思ってしまう。もしもどこかで偶然にも彼の死を知ってしまう事があったなら、こんな時でさえ彼を心の支えにしている睡蓮はどうなるのだろう。
「――――っ」
睡蓮は息を詰め、皇帝の寝室にゆっくりと足を踏み入れた。広い室内に人の気配はなく、恐る恐る部屋の中央まで足を進める。全てが最高級の調度品で統一された空間に生活感はなく、部屋の奥に鎮座する大きな寝台が目に入った瞬間、睡蓮の緊張は最高潮に達した。
不意に、白檀の甘い香りが鼻を掠めた。かと思うと、背後から白い夜着に包まれた男の腕が伸ばされ、驚いた睡蓮は胸の前で握りしめていた手鏡をうっかり取り落としてしまった。
「あ………」
柔らかな毛氈の上へ転がり落ちた手鏡に割れた気配はない。その事に安堵しつつも、睡蓮の意識は否応なく背後に佇む人物へと集中する。皇帝はいつの間に室内へ入ってきたのだろう。それとも最初から中にいたのかもしれない。睡蓮は恐ろしさのあまり、振り向く事もできずにただ立ち尽くすしかできなかった。
極度の緊張で硬直する睡蓮を無視して、皇帝は無造作に彼女の帯を解き始める。あれほど着付けに時間をかけた衣装が呆気なく剥かれていき、睡蓮はあっという間に薄い単衣一枚の頼りない姿にされてしまう。
「……………」
皇帝は無言のまま、肌寒さと恐怖で震える睡蓮の背中を寝台へと押しやった。褥の上へうつぶせに倒れ込んだ睡蓮の背に、皇帝の大きな体が覆い被さってくる。どうやら皇帝は睡蓮と甘い蜜事を交わすつもりはないらしい。最初から分かっていた事だが、皇帝はただ世継ぎを作るためだけにこれから睡蓮を抱くのだ。
覚悟は出来ていたはずだった。後宮に入った時点で、いずれは受け入れるべき運命であると観念していた。それなのに、いざ直面してみると、睡蓮は恐怖と嫌悪のあまり体の震えが止まらない。
(玉蘭)
そっと、睡蓮は音もなくその名を口にする。彼の名前を呼ぶのは久しぶりだった。玉蘭が姿を消してからというもの、睡蓮は心の中でさえ彼の名を口にする事を己に禁じていた。そうしなければ、玉蘭への想いが溢れて止まらなくなってしまそうだったから。
―――そう、睡蓮は玉蘭に恋をしていた。
物心がついた頃からずっと、先の見えない暗闇のような辛い日々を過ごしていた睡蓮にとって、玉蘭は唯一の救いの光だった。実母よりも睡蓮を思いやり、優しく守ってくれた存在に、幼い睡蓮が心惹かれていくのは当然の成り行きだろう。八歳も年が離れていた事から、玉蘭は妹を見守るような気持ちだったに違いない。それでも構わなかった。玉蘭の側にいられれば、睡蓮はそれだけで十分すぎるほど幸せだったのに。
「―――っ」
睡蓮は紅を乗せた唇をきつく噛み、こぼれそうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。睡蓮が涙を見せる男は、愛しい玉蘭ただ一人だけだと心に誓っていた。しかし、皇帝の指先がおざなりに肌へ触れる度、睡蓮は泣きたくてたまらなかった。
『辛いときは泣いても良いんですよ、お嬢様』
ふと、玉蘭の優しい言葉が脳裏をよぎる。
どうか無事でいて欲しい。例え睡蓮の事を忘れてしまっても、どこかで生きてさえいてくれればそれで良い。それ以上は何も望むまいと、来る日も来る日も願い続けていたのに。幼い頃の弱くて臆病な睡蓮に戻った彼女は今、どうしても玉蘭に会いたくてたまらない。
(どうか、助けて)
わたしは今ここにいる。
昔のようにわたしを見つけて抱きしめて。
そして、今すぐここから連れ出してほしい。
「――――玉蘭っ」
しまった。そう思った時には遅かった。はらりと涙を流す代わりに、睡蓮の唇から零れたのは、愛しい彼の名だった。
「あ………」
咄嗟に唇を押さえた睡蓮は、顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。それまで作業的に睡蓮の体に触れていた大きな手がぴたりと止まる。次の瞬間、急に強い力で睡蓮の腕を掴むと、皇帝はうつぶせになっていた彼女の体を強引に上向かせた。
(―――殴られる!)
睡蓮は衝撃を覚悟し、固く目を瞑った。仮にも妻が閨の中で他の男の名を口走れば、夫が激怒するのは当然だろう。相手が誇り高き皇帝であるならばなおさらだ。夫以外の男に心を許したふしだらな女として、この場で切り捨てられても無理はない。睡蓮はそれでも構わないと思った。愛する人を想いながら別の男に抱かれるくらいなら、いっそひと思いに殺された方がましだった。
「お………」
怒りのあまりか、皇帝が初めて震える声を発した。睡蓮は目を瞑りながら、死刑宣告を待つ気分でその先の台詞を待ち構える。しかし。
「お嬢様―――っ!?」
次の瞬間、皇帝が叫んだ言葉に、睡蓮は思わず目を開けた。彼女の視界に飛び込んできたのは、どこか見覚えのある美しい男の顔で。
「………玉蘭?」