一
「はあ」
困った事になった。睡蓮は深い溜息をついた。
刻は真夜中。朱塗りの格子越しに窓の外を眺めれば、煌々と夜空に輝く月は間もなく中天を過ぎようとしていた。辺りは恐ろしいほど静まりかえっており、灯りを落とした広い室内は月明かりに照らされてぼんやりと薄暗い。いつもの睡蓮ならば、もうとっくに柔らかな寝台へ潜り込み、心地よい夢の中にいる時刻である。
しかし、今宵ばかりはそうもいかない事情があった。
「朱才人様。皇帝陛下のお召しでございます」
背後から女官に呼びかけられ、睡蓮はぴくりと肩を震わせた。『朱』とは睡蓮が生まれた家の名であり、『才人』とはここ後宮において、睡蓮が賜った役職である。生家を疎んじる睡蓮はその名で呼ばれることを密かに嫌っていたが、ここではみだりに真名を口にしてはいけないという決まりがあった。
睡蓮はゆっくりと窓から視線を戻し、緊張した面持ちで年嵩の女官を振り返った。仮面のように無表情の女官は、睡蓮の不安な心情などどこ吹く風で、ただ己の役目を全うするためだけにそこにいる。
これから彼女の先導に従い、睡蓮が連れて行かれる先は皇帝の寝所である。紆余曲折あり、睡蓮が後宮に入ったのは今から二年前。幸か不幸か、これまで一度もお呼びがかからなかった睡蓮の元に、今夜初めて皇帝から指名が来たのだ。
「…………」
睡蓮は無言で立ち上がり、女官の後に大人しく付き従った。足音を立てぬよう、人払いされた回廊を歩きながら、睡蓮は袖の中に隠し持っていた小さな銀の手鏡をこっそりと覗き見る。そこに映し出されているのは、特別な今夜のために無理矢理派手に飾り立てられた少女の頼りない表情である。
甘いにおいがする香油を丹念にすり込み、頭上に高く結い上げられた長い黒髪。髷に幾つも刺さった玉と真珠の簪は、睡蓮が動く度にしゃらしゃらと涼やかな音を立てる。幾重にも重ねられた色鮮やかな絹の着物は、まるで婚礼衣装のように華やかで初々しい。
しかし、時間をかけて入念に化粧を施された凡庸な顔立ちは、不器量ではないものの可憐な美姫とはほど遠く、肉付きの悪い痩せた体はさぞ抱き心地が悪かろうと、睡蓮はまだ見ぬ相手に申し訳なくさえ思う。
「はあ」
睡蓮はもう一度ため息をつく。
一体どうしてこんな事になってしまったのかと―――。
* * * * *
刻を遡ること十八年前。睡蓮は裕福な商家である朱家の娘として生まれた。といっても、母は美しいが身分の低い使用人の女であり、つまりは妾腹である。そうなれば当然、正妻である奥方からは母子共々辛く当たられ、三歳年上の異腹の姉からは散々な虐めを受けて育った。まあ、良くある話である。
正妻に息子はなく、一人娘(もちろん睡蓮は勘定に入らない)として蝶よ花よと甘やかされて育てられた姉は、その華やかで美しい顔立ちとは裏腹に、蛇のように陰湿な性格で、大人しく地味な容姿の睡蓮を弄び、嘲笑うことを生き甲斐にしていた。
ある時は冬の凍った池に突き落とされて肺炎になり、またある時は夏のうだるような熱さの中、真っ暗な倉庫に何時間も閉じこめられ、脱水症状で死にかけた事もある。せっかく伸ばした髪を切られたり、腕をつねられたりすることはしょっちゅうで、睡蓮の痩せた体には生傷が絶えなかった。睡蓮の母は我が子の受けた仕打ちに当然気がついてはいたが、妾の分際で正妻の子供に口出しできるはずもなく、黙って傷の手当てをしてくれるだけであった。
そんな睡蓮の唯一の味方は、八歳年上の玉蘭という使用人の青年だった。睡蓮が五歳の時、屋敷の前で行き倒れていたところを父に拾われたのだという。物腰がどこか優雅で、はっとするような美しい顔立ちをしていることから、奥方や姉のお気に入りで、その勤勉な働きぶりから父も一目置いている存在だった。
玉蘭は睡蓮を見下して無視をする他の使用人達とは違い、姉の魔の手から逃れ、庭の片隅で一人膝を抱えて蹲る睡蓮を探し出し、優しく慰めてくれた。
「辛い時は泣いても良いんですよ、お嬢様。あなたは何も悪くないんですから」
そう言って、血が滲むほどに噛みしめた睡蓮の唇をなぞり、しゃくり上げる背中を何度も撫でてくれる温かな手が大好きだった。奥方や姉からどんなに酷い仕打ちを受けようと、睡蓮は決して泣こうとはしなかった。涙を見せれば相手を喜ばせるだけだと分かっていたからだ。それに、泣いたところでどうにかなる問題ではなかったし、只でさえ肩身を狭くして生きている母を困らせたくなかった。
けれど、決して平気なわけではなかった。本当は大声で泣き喚き、助けて欲しいと誰かに叫びたかった。そんな睡蓮の悲痛な心の声を、玉蘭だけが聞き届けてくれた。彼だけが睡蓮を心のままに泣かせることが出来た。広い屋敷の中で睡蓮がどこに身を隠していても、玉蘭は必ず見つけ出し、その眩しいほどの美しい笑顔で孤独の闇を優しく照らしてくれるのだった。
自然と睡蓮は玉蘭に心を許し、彼も仕事の合間に何かと睡蓮を気にかけてくれるようになっていた。それが余計に姉の怒りを買うことに繋がるのだが、幼い睡蓮にはどうすることも出来なかった。
やがて、姉が年頃となり、婿養子を迎える事になった。色鮮やかな婚礼衣装を着た姉の晴姿は清楚で美しく、遠く離れたところから式の様子を眺めていた睡蓮は、ほうと賞賛のため息をついた。
「すごく綺麗ね」
嫌みではなく、心からの言葉だった。けれど、あの可憐な微笑みの裏側に、残酷で陰惨な内面が潜んでいるとは誰も思うまい。睡蓮は花婿となった男に心底同情していた。隣に立っていた玉蘭は、美しい花嫁から呆気なく視線を外すと、睡蓮を見つめて優しく微笑んだ。
「そうですね。でも、お嬢様の方がずっと綺麗で可愛いですよ」
さらりと綺麗な笑顔で言ってのける玉蘭を、睡蓮は胡乱な目で睨んだ。
「お前、目が悪いのね。一度病院へ行った方が良いわ」
「そんなことはないですよ。ほら、婚礼衣装の刺繍の目を数えて見せましょうか」
ひいふうみいと、本当に数え始めた玉蘭を遮り、睡蓮は呆れた顔で首を振った。昔から玉蘭はとろけるほど睡蓮に甘く、ことあるごとに「綺麗」だとか「可愛い」だとか、歯の浮くような台詞を浴びせてくる。お世辞ならば笑って済ませるが、玉蘭はどうやら真面目にそう思い込んでいるらしく、なおさらたちが悪かった。睡蓮は玉蘭のことを信頼していたが、彼の美的感覚だけはあてにしないと心に決めていた。
「じゃあ、きっとおつむが弱いのね。顔はとびきり綺麗なのに、もったいない。いつか悪い女の人に騙されないように気をつけなさいよ」
「辛辣ですねえ。ああ、いつからこんなに意地悪な子になってしまったのでしょうか。少し前までは俺の腕にしがみついて、可愛らしく泣いていらしたのに―――」
「それはっ! 子供のときの話でしょうっ?」
睡蓮は頬を真っ赤に染め、玉蘭の腕をぱしりと叩いた。先日十四歳の誕生日を迎えた睡蓮は、最早玉蘭の胸を借りなければ泣くこともできなかった無力な幼子ではない。成長するにつれ、睡蓮は姉の嫌がらせを回避し、被害を最小限にとどめる要領の良さを覚え、いつしか玉蘭の手を煩わせることも少なくなっていた。
玉蘭はどこか寂しそうに微笑み、そっぽを向く睡蓮の頭をくしゃりと撫でた。
「そうですね。いつまでも子供だと思っていたのに………お嬢様もいつかはお嫁に行ってしまう日が来るのでしょうね」
そんな日は訪れるのだろうかと、睡蓮は疑問に思う。嫁に行くには金がいる。母には期待できないし、父の考えは知らないが、あの奥方が睡蓮のために何かを施してくれるとは考えにくい。否むしろ厄介払いできると、喜び勇んで金を出す可能性もある。そうでなければ、この家で一生奴隷のように飼い殺されることになるだろう。それだけは何としても避けたいところだった。
「じゃあ、玉蘭がわたしをもらってよ。わたし、お前なら良いわよ」
「………お嬢様。冗談でも、他の誰かにそんなことを言ってはいけませんよ」
口が裂けても言うものかと、睡蓮はうつむいて自嘲する。もしもこの言葉が姉の耳に届いてしまったら、身の程知らずだと馬鹿にされ、玉蘭と会うことを固く禁じられてしまうだろう。
「でも、お嬢様がそう思ってくれて、とても嬉しいですよ。婚礼衣装を着たあなたは、きっと天女のように美しいのでしょうね」
涼やかな目をうっとりと細め、玉蘭は夢見るような瞳で睡蓮を眺めた。やはり冗談で言っているわけではないらしい。本当に趣味の悪い男である。
けれど、このあと玉蘭から誕生日の贈り物として渡された銀の手鏡は文句なしに素敵な品で、喜んだ睡蓮はそれからどこへ行くにも肌身離さず大切に持ち歩くのだった。