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翼の話  作者: 杉並よしひと
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 驚く事に、学校が夏休みに入っても、僕は屋上へと通っていた。

 塾にも行っておらず、部活にも入っていない僕にとって、夏休みは退屈な一日の寄せ集めだった。趣味も無く、宿題をそんなに溜めている訳でもない。だからといって、一日中家に籠っているのも、体には良く無いだろう。

 そうやって、自分の中で理由を付けて、僕は屋上へと通っているのだった。もう、気付けば自然と、足が学校へ向いているのだ。

 りっちゃんの方も暇なのか、僕と同じく、毎日の様に屋上にいた。何で毎日来ているのか、僕はりっちゃんに訊かなかったし、りっちゃんも僕に訊かなかった。僕は訊こうとも思わなかったし、訊いた所でどうなるとも思っていない。

 何より、訊いてしまったら、今のままではなくなってしまいそうな感じが、どこかでしたのだ。

 七月下旬の、真夏日が続く日の中でも、彼女はずっと屋上にいて、本を読んでいた。それでも、顔には汗ひとつ見せていない。

「今日も来てるんだ」

 僕は、フェンスにもたれて座っているりっちゃんに、声を掛けた。

 アンテナの影が、くっきりと地面に落ちている。全ての物が、強い光の中で、強いコントラストを為していた。

「そうだけど。なんか、呆れてない?」

「いや、全然そんな事ないけど。暇なんだな、とは思ってる」

「ほら、やっぱり」

 そんな会話を交わしながら、僕はりっちゃんの隣に腰掛けた。地面に着いた手が、じんわりと温まって行く。

 暑い。とにかく暑い。

 この辺りでは、この学校が一番高い建物で、ここから街全体を見る事が出来る。僕は振り返って、フェンス越しに、平べったい街と大きくうねる川を見ながら、持って来たハンカチで汗を拭った。

 今、僕とりっちゃんは、確かにこの町で、一番空に近い所にいるのだ。

 だから、暑い。

 太陽が近い。

「暑く無いの?」

 思い返せば、僕は毎日の様にそんな事を訊いている。

「全然。私、暑いのは平気だから」

「そうなんだ」

 夏休みなのに、好き好んでこんな所に来るなら、暑さに弱くちゃ駄目なんだろう。でも、それだけじゃ無いとは思う。そんな消極的な理由じゃなく、屋上へ足を向かわせる理由が、確かにあるはずなのだ。ただ、それを聞き出そうなんて、微塵も思っていない。

 僕はりっちゃんの言葉を、かなり信用していた。なぜなら、彼女は、七月に入ってから、途端に元気になったからだ。

 いつも本を読んでいるから解り辛いけど、話してみると解る。声のトーンは、梅雨が明けてから明るくなったし、言葉の数だって、前に比べると増えている。

 平気だから、と言う言葉の裏には、確かに想像した通りの意味が、込められていそうだった。

「達也こそ、暇なの?」

 りっちゃんは、今思いついた様にそう尋ねた。

「まあ、暇って言っちゃあ暇かな。塾にも行ってないし、部活にも入ってないしさ」

「友達と遊びに行ったりとか、しないの?」

 なぜか、口調がお母さんっぽくなっている。まるで僕が独りぼっちでないか、心配しているみたいだ。

「みんなは海に行くって言ってたけどね。僕はいいやって言って断ったんだ」

 すっ、と、りっちゃんの息を吸い込む音が聴こえた。僕は、ふと隣を見る。

 りっちゃんは、いつも通りの笑みを浮かべていた。

「やっぱり、泳げないから?」

「まあね。学校の水泳で結構巧くはなったんだけどね。自分から泳ぎには行かないよ」

 そして、付け足す。

「何で、僕が泳げないって解ったの?」

 りっちゃんは、いつもの微笑で、それに答えた。

「なんとなく、だよ。そんな、ガンガン泳げる様な感じじゃないじゃん。達也って」

「失礼だな」

 そう、僕が泳げないのには、ちゃんと訳があるのだ。

「僕はさ、まだ、少し水が怖いんだ」

 りっちゃんは、黙って僕の話を聞いている。りっちゃんの目を見て話すのには、向いていない話だろう。

 そう思った僕は、りっちゃんと同じ様に、フェンスにもたれて座った。こうしていると、立っているときよりも、空が広く見える。

「僕はさ、五歳の夏に、川で溺れたんだ。

 その日僕は、お盆のど真ん中で、僕は一緒に遊ぶ友達もいなくて、一人で川縁で遊んでた。川って言うのは、ここから見える、あの川の事だよ。

 そのうちにさ、中州へ渡ってみたくなったんだよ。あそこから川を見たら、どういう風に見えるんだろうってね。

 あともう一つ、中州には、綺麗な花が咲いてたんだ。紫色で、花びらに細かく切れ込みが入って、まるで細い花びらがたくさん集まっているみたいな花だった。それを、採りたかった。

 で、川を渡ろうとしたんだけど、五歳児の身長だからさ、すぐに足がつかなくなったんだ。まずい、って思った時には、もう流されてたんだ。

 で、気付いたら、病院のベッドの上だったんだ」

 また、僕はあの瞬間の事を思い出す。悪夢の様に、僕は何度も何度もそれを夢に見た。僕の好奇心は、すんでの所で僕を殺す所だったのだ。

 りっちゃんの横顔をちらりと盗み見る。何を考えているのか、全く読めない。汗を一滴もかかず、髪はさらさらと静かな風に揺れている。その横顔は、まるでこの世の物じゃないみたいに綺麗だった。

 ここから見える頬は少し赤味を帯びてて、でもその赤味を覆う白さが、陽の光を跳ね返している。目は、どこか遠くの何かを捕らえて、動かなかった。

 風で乱れた髪が、頬の方へと流れて行った。りっちゃんは細い指で、乱れた髪を耳へ掛けた。

 途端に、恥ずかしさがこみ上げて来た。いつもの様に見ているりっちゃんの横顔を、今日に限って綺麗だなんて、恥ずかしいにも程がある。

「良かったね。助かって」

 りっちゃんにしては珍しい、ぼそりとした言葉が聴こえた。

「うん。まあ、それは感謝してもし足りないよ。もしかしたら、こうして生きている事だって、奇跡なのかも知れない」

 真面目に、僕はそう思っている。川の流れの冷たさと、病院の壁の白さにうなされた夜が明けると、僕は真っ先にその事に思いを巡らせるのだ。

 ああ、夢だった、と。

「それにさ、私とこういう形で会えたかも、解らないしね」

 そう言って、りっちゃんは恥ずかしそうに笑った。ほっぺたが、さっきよりもほんのりと赤くなっている。

「まあ、そうかも知れないけどさ」

 僕はそう言って、視線を空へと逃がした。

「あ、自分ばっかり、ずるいよ」

 ごまかさないでよ、と、りっちゃんの声が聞こえるが、無視だ、無視。

 まだまだ明るい夏の空は、見ていると吸い込まれそうな程、青い。天頂に近付くに連れて、青は濃くなっているみたいだ。


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