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梅雨が明けて、りっちゃんはまた屋上に出て来る様になった。
りっちゃんが好きだった梅雨も、永遠に続くなんて事はもちろん無くて、当たり前の様な顔をして夏はやって来た。毎日の様に、太陽は熱い陽をまき散らし、空気をねっとりと重くして行った。
七月に入って、屋上は一段と暑くなった。それでも、りっちゃんは、屋上へと出る為の扉の、ちょっとした庇の下に座って、本を読んでいた。
「暑いなあ」
僕は、その日何回繰り返したか解らない台詞を、また口にした。
「そう? 私は全然大丈夫だな」
実際、りっちゃんは汗の一滴も流さずに、涼しい顔をしている。夏服のセーラー服だって、大半の女子が半袖を選ぶのに、彼女は長袖を着ている。暑さには強い人なのかも知れない。
光に溢れた屋上で、りっちゃんの白い長袖は、目を開けてられない程眩しかった。
「ところでさ」
りっちゃんはカバーを弄くる手を止めて、僕の目を覗き込んだ。
「何で、毎日の様にさ、私の所に来るの?」
今更そんな事を訊かれて、僕は少し面食らってしまう。
最初はもちろん、はっきりした理由があった。でも、「暇だから」と言う理由で毎日来ているうちに、そんな理由よりも、もっと大きい物が取って代わってしまっていた。
でも、それが何なのか、僕には皆目分からないのだ。
「迷惑だった?」
「ううん。そうじゃなくて。ただ単純に気になっただけ」
りっちゃんはそう言って、本を脇に置いた。立ち上がって、目も開けていられない様な、眩しい日差しの中へと歩いて行く。
僕は、目を細める。一瞬、りっちゃんが光の中で、蒸発したみたいに、見えなくなった。
「僕は」
梅雨に入る前の、あの日の事を思い出す。あれは、本当に羽根だったんだろうか。いつの間にか、ここへ通う様になって、あれが羽根だと信じ込んでしまっていた。
「はじめは、羽根を、探しに来たんだ」
それを言うのは、何故だかとても疲れた。
りっちゃんは、フェンスに背を預け、もたれかかった。太陽に灼かれたフェンスは、とても暑いはずなのに、彼女は平気な顔をしている。
そのまま、天に張り付いた様な青空を仰いだ。
「体育の時間にさ、なんか屋上に羽根みたいな物を見つけてさ。おかしな話かも知れないけど、あれは多分、大きな羽根だった。少なくとも、僕はそう思ったんだ。
で、確かめようとして、屋上に来てみたら、君がいた」
喋っているうちに、僕はだんだん変な事を考え始めた。
まるで、りっちゃんとその羽根に、何か関係があるかの様に思えたのだ。
僕は、頭を振って、その変な考えを追い出すと、言葉を続けた。
「まあ、今でもなんか痕跡とか無いかな、って思ってるんだけどさ。半分諦めてるよ」
りっちゃんは、ぼうっと僕の話を聞いていた。僕が言葉を切っても、目だけは高い空を捕らえている。
まるで、僕の言葉なんか、欠片も耳に入っていないみたいだ。
「ねえ、聞いてる?」
僕は、りっちゃんのそばに歩いていって、強めに彼女の肩を叩いた。掌に、びくっと言う震えが伝わる。
「うわっ」
彼女は、口から心臓が飛び出した様な、驚きの声を上げた。
「びっくりした」
短くそう言って、りっちゃんはまた天を仰いだ。僕もつられて、空を眺めてしまう。遠くの方に、この町へのしかかっている様な、入道雲が見える。
「羽根……、か」
「羽根が、どうかしたの?」
僕の言葉に、彼女はゆるゆると首を振った。首を振って、小さな、でも、はっきりとした言葉で、こう言った。
「翼と、何が違うのかなって」
翼と言う言葉を聞いて、僕は、もう一度あの光景を思い出す。あれは、羽根と言う言葉よりも、翼と言った方があっていたかも知れない。
「じゃあ、明日までに調べてくるよ」
僕の言葉に、りっちゃんはまた首を横に振った。
「調べるだけじゃ、面白く無いよ」
僕は、気になった事の答えはすぐに欲しい。人に聞いて解るのであれば、躊躇い無く人に聞くし、本に書いてあるなら、その本を見つけて、ページを繰るはずだ。
でも、りっちゃんは違うのだ。気になった事と、出来るだけ長く向き合っていたいのだ。出来るだけ長く向き合って、「面白い」時間を過ごしたいのだろう。
熱いコンクリートの上に横たわっている、りっちゃんの本を見た。あれが、りっちゃんの興味だし、あれがりっちゃんの考え方なのだ。
僕は、忙しい訳じゃない。りっちゃんに付き合う事にした。
「じゃあ、例えば翼って聞いて、何を思い浮かべる?」
僕は、りっちゃんにそう問いかける。
「鳥の……、かな」
「でも、鳥の羽根とも言うよね」
「じゃあ、飛行機の、かな」
「でも、飛行機の羽根って言う人もいるよね」
「達也のいじわる」
急に、りっちゃんは口を尖らせた。さて、どこが意地悪だったんだろう。
「じゃあ、達也は、何を翼って言って、何を羽根って言うの?」
妙に強い調子だ。そんなに、羽根と翼の違いが気になるのだろうか。それとも、こういう細かい事も、気になる性格なんだろうか。
とにかく、僕は頭の中に、翼と羽根のはっきりとした違いなんて、持っていなかった。
「翼の方が、幻想的だよな」
だから、大雑把なイメージの違いしか解らない。
「羽根だと、この手に触れそうだけど、翼はそれすら許されないと言うか」
「あ!」
りっちゃんはいきなり大声を上げた。僕は続けようとした言葉を、思わず飲み込んだ。
「イカロスは、翼だ! イカロスの羽根なんて言わないしね」
薮から棒に、何を言っているんだ。ただ、彼女の言葉を反芻してみて、僕は気付いた。
「ギリシャ神話か。って事は、僕の言っている事も、それなりに当たってるんじゃない?」
「そうかも知れないよ」
りっちゃんは、急に興奮して来た様で、「うーん」と唸りながら、首を傾げている。
イカロスの羽根、って言い方は、本当に無いのだろうか? 僕は一瞬そう考え、それが何の意味も無い考え事だと言う事に気付くまで、少し時間がかかった。
「イカロスはさ、結局は海に落ちちゃったんだよね」
僕は、そう言いながら、イカロスの翼の話を思い出す。
王の不興を買い、迷宮に幽閉されたイカロスとその父ダイダロスは、鳥の羽根を集め、蝋で固めて、翼を作った。
しかし、その翼で飛び立ったイカロスは、父親の注意を聞かず、天高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かしてしまう。
集めた羽根は散り、イカロスは海へと落ちてしまった。
初めてこの話を聞いたときから、イカロスは馬鹿な奴だなあ、と思っている。調子に乗らなければ、イカロスは生きて脱出出来たのに。ダイダロスは、深く悲しんだだろう。
本当に、馬鹿げた話だ。
「でも、私はイカロスが羨ましいよ」
りっちゃんはそう言って、屋上にごろりと仰向けに寝転がった。僕もそれに倣う。
一面の空だった。ずっと高い所に、小さく鳥の飛んでいるのが見える。鳥は羽根、いや、翼を羽ばたかせて、ゆっくりと輪を描いて飛んだ。
あれは、まぎれも無く翼だと、僕は思う。
「だって、イカロスは、ずっとそのまま、飛んでは行かなかったんだもん」
すぐ横から、りっちゃんの声が聞こえる。
多分、イカロスの話を聞いて、イカロスを羨ましいと思う人は、いないはずだ。僕だって、イカロスみたいな最期は迎えたく無い。空へ向かって飛び立ったのに、大海原へ落ちて行ってしまう。英雄でも、何でも無い。
でも、りっちゃんはそのイカロスが羨ましいと言う。
それは、やっぱり僕には解らなかった。
鳥は、まだ輪を描いて、のんびりと飛んでいる。
自分の翼で飛ぶのは、どんな気持ちなんだろうかと、僕はふと考えた。