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僕は、暫く川を眺めていた。川は、泡を作ったり、渦を巻いたりしながら、それでも同じ所へ流れて行く。
川に、ひとつ小石を投げ込んでみる。小石は、沈む事無く、川の流れに運ばれて行った。
ふと目を上げると、面白そうな物が目に入った。
立ち上がって、そろりと一歩を踏み出す。
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あれから間もなく、梅雨がやって来た。毎日の様に飽きもせず雨が降り続け、空気がどんどん黴臭くなって行く。
僕は、いつの間にか屋上へと通う様になっていて、そのうちに、僕は彼女を、「りっちゃん」と呼ぶ事に何の躊躇いも無くなっていた。
雨が降る日には、りっちゃんは屋上には出なかった。屋上へと続く階段の、一番高い所にある踊り場で、階段に腰掛けながら本を読んでいた。埃っぽく、暗い踊り場でも、りっちゃんは大して気にしていないようだった。そして、部活に入っておらず、昼休みに友達と何かするわけでもない僕にとって、この踊り場は、いつの間にか心地よい場所となっていた。
りっちゃんは毎日先にここへ来て、僕が来ると、本から目を上げて、僕と他愛も無い話に興じるのだった。
「あのさ」
その日、件の踊り場に着いた僕は、先に来ていたりっちゃんに、未だに訊いた事の無い質問をした。
「りっちゃんって、何年生なの?」
「私?」
驚いた様に自分を指差し、「うーん」と何かを考え始めた。立っていた僕は、彼女の隣に座る。
と、言うか、驚く事もなかろうに。
「なんか考え込む様な事でもあるの?」
アインシュタインは、自分の年を覚えていなかったと言う。訊かれるたびに、訊かれた当時から、生まれ年を引き算して答えていたらしい。
だからといって、今りっちゃんが考え込んでいる事の説明にはならないけど。
「一応、二年生かな」
「何なの、一応って」
普通の高校生なら、年くらいはっきり解るはずだと思うけど。
「口癖みたいな物なんだよ。言い直すね。私は、二年生だよ」
今度は、はっきりした口調だった。これ以上の詮索は止める事にする。
「達也は二年生でしょ?」
「ああ、そうだよ」
僕が何年生かって、教えた事あったかなあ。まあ、見た事があって、学年も解るのに、名前だけ解らない、って事もあるもんなあ。
「って事は、もう十二回目か……」
りっちゃんは何かぶつぶつと呟いていたけれど、最近、これをいちいち気にしていたらきりがない事に気がついた。不思議な事を口走る人だ、と言う事だけ解ってれば良いのだ。
「って事は、同い年なのか?」
「うん。まあ、そうだね」
その割に、僕は彼女の事を知らなかった。そんなに大きくも無い高校だ。同級生の顔の、見覚えくらいありそうな物だけど。
しかも、僕は彼女の名前すら知らないのだ。何度も尋ねようとしたが、その度にはぐらかされてしまう。もちろん、あの微笑みでだ。
「ま、いっか」
考えてみれば、彼女は毎日昼休みに、ここへ来るのだ。あんまり人気がある所が好きじゃないのかも知れない。だとすれば、僕が彼女の事を知らなかったのも、納得がいく。
僕は、階段を見渡す。ひとつ下の階には、下級生のクラスがある。昼休みの喧騒が、静かな階段に響いている。ちょっと下を覗けば、そこにはたくさんの一年生がいるのに、ここだけ、校舎から切り離されたかの様に、静かだった。
「何の本を読んでるの?」
りっちゃんは、癖なのだろうか、会話をしながら、手にしている文庫本のカバーを指先で弄くっている。
「これ? これはね、北杜夫。昨日は小泉八雲で、一昨日は江戸川乱歩」
なんと言うか、それは女子高校生のチョイスではなさそうな気もするけれど。
「面白いの?」
「うん。面白いよ。」
そう言って、りっちゃんはまたカバーを弄くり始めた。人差し指で、カバーのはじっこを小さく捲っては、ピン、と放す。無意識のうちに、それを繰り返しているようだった。
「なら、僕は邪魔だったかな?」
彼女は一人で本を読むのが好きなのだ。だから、人目につかないこんな所で、一人で本に没頭しているのだ。僕はそう確信していた。
「ううん。全然」
慌てて、りっちゃんが手を振る。手を振りながら、ずいとこちらに身を乗り出した。
「全然邪魔じゃないから!」
珍しく強い調子の彼女の言葉に、僕は少し驚いて、これでもか、と言う程身をのけぞらす。
「あ、ああ、そう……なんだ……」
「うん! 本当だから!」
まあ、そう言ってくれるなら、僕だって安心出来る。りっちゃんは体を引っ込め、それと同時に、僕も楽な姿勢へと戻った。
「だから、まだ、ここにいていいから!」
「あ、うん。じゃあ、もう少し、いさせてもらうかな」
また身を乗り出してくるんじゃないか、と思って身構えたが、今度はそうではないみたいだった。
「それにしてもさ、いっつも本読んでるな、って思ってね」
りっちゃんに僕が話し掛けるとき、いつも彼女は本から目を上げるのだ。それは僕に、まるでいつ何時も彼女が本を手放していないかの様に思わせた。
「まあ、本は好きだしね。昔は好きじゃなかったんだけどさ。ひまな時間が出来て、本を読んでみたら、好きになったんだ」
彼女はそう言って、踊り場の窓から、外を見やった。細い糸の様な雨が、ぱらぱらと校庭に降り続いている。灰色の砂は、色を濃くして、柔らかく湿っているようだった。この前までは透き通っていた空気も、雨のせいで、少し煙っている。
「梅雨って、良いよね」
りっちゃんはまた、唐突にそんな事を言い出すのだ。
「そう? 僕は早く夏が来て欲しいけど」
梅雨が好き、って奴は、そんなに多く無いんじゃないだろうか。僕はただ単にそう思って行っただけだったが、僕のこの言葉に、彼女は目をつむった。
「この落ち着いた感じは、梅雨にしか無いじゃん」
りっちゃんは、深く息を吸い込む。気付けば、本のカバーを弄くっていた指が、ぴたりと止まっている。
僕も彼女に倣って、目をつむってみた。ひんやりと冷たい空気が、僕の体を包み込んでいる。下の階の喧騒が、とても遠くにあるかの様に思える。
程よい湿気が、こんなにも心地よい物だなんて、初めて知った。
「確かに、夏はみんな落ち着きが無いよね」
僕の言葉に、隣から賛同の声が聴こえる。
「そうそう。だから、夏より、夏になる前の、今が好きなんだ」
目をつむりながら、深呼吸をする。深呼吸をしながら、これから来る夏に、思いを馳せる。
今年も、暑い夏になるのだろう。
「ああ、今が続くと良いなあ」
ぽつりと漏れたりっちゃんの言葉は、僕には拾う事が出来なかった。
何でそんな事を言い出したのか、僕には解らなかったからだ。
ただ、いつもの様に、唐突な事を言い始めたなあ、位にしか、思っていなかった。