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その日、僕が高校の屋上を訪れたのは、全くの偶然だった。
四時間目の体育の時間、ふと校舎の屋根を見上げた俺の目に、奇妙な物が目に入ったのだ。
よく晴れた初夏の空に、きらりと、白い物が光って見えた。それだけ聞くと、何か硬質な物をイメージしてしまうけれど、そんな事は無くて、それはとても柔らかそうに、風をはらんで揺れていた。
あれはなんだろう。
うちの学校の屋上は、鍵などは取り付けられていない。生徒が自由に出入り出来る。けれど、誰も、暑くなり始めるこの時期に、好んで屋上へ行こうとはしなかったし、そもそも屋上に出来る用事などありもしなかった。
僕は最初、それを何かの羽根なんだと思った。ちらりと見えただけだったけれど、羽だ、と言われればすんなり納得してしまいそうだった。
でも、すぐにそれはおかしい、と思い至った。ただの羽根にしては、大きすぎる。僕は運動場から屋上を見上げたのだ。鳥の羽根が一枚落ちていた所で、僕の目に入るはずが無い。
とにかく、僕はその正体が気になったのだ。気になった事は放っておけない。僕は体育を終え、制服へと着替えると、すぐに屋上へと階段を駆け上った。最上階から屋上への階段は、誰も使わないからだろうか、床にも壁にも埃が積もり、空気はもう長い事そこから動いていないようだった。
屋上へと続く扉を推す。蝶番が錆び付いていて、なかなか動かない。僕は肩を扉に押し付けて、そのまま体重を掛けた。蝶番の部分がぎぎっ、と軋み、屋上への扉はゆっくりと開いた。
扉の隙間から、線になって光が飛び込んでくる。
そのまま、勢いをつけて、扉を開ききった。一陣の風が吹き込み、淀んでいた空気を、どこかへ運び去った。
顔を上げると、扉の向こうに、何者にも遮られない空が果てしなく広がっている。
僕は、しばらく惚けた様に空を見つめていた。ぼうっとしている自分に気付き、慌てて屋上を見回す。
さっき、僕が見た物は何だったのだろう。ここから見えるところに、さっき見た様な物は無い。太陽に焼かれたコンクリートが海の様に一面に広がり、何の為にあるのか解らないアンテナが、空を指差している。屋上はぐるりと、白い棒の組合わさったフェンスで囲まれていて、どこか檻の中に放り込まれた様な感じがした。
ふと、一人の女の子が座っている事に気付いた。フェンスを背もたれにして、なにやら分厚い本を読んでいる。長めの黒髪が風に靡き、それが煩わしいのか、時折それを掻き上げ、耳へと掛ける。風で飛んでしまわない様に、注意して本のページを捲っている。この学校の制服では珍しい、長袖のセーラー服を着ていた。
彼女のひとつひとつの動きが、僕の目を捉えて放さない。
だからだろう。その子が僕に気付いて、目が合ってもまだ、僕は声を掛けられなかった。
「君は、ここが好きなの?」
耳元で話し掛けられた様に、よく聴こえる透った声だ。その声で僕は、はっと我に帰る。
「そう言う訳じゃないですよ」
ここに来た訳も話そうかとも思ったが、思いとどまる。
「あなたは?」
僕が問いかけると、彼女は本をパタンと閉じた。閉じてからも、指先でカバーを弄くっている。膝の上の本から目を上げないまま、彼女は応えた。
「私は、人を探してるの」
なんと言うか、どこかずれている人の様だ。
「こんな所で探したって、見つからないんじゃないですか?」
「良いの。別に、その人に用事がある訳じゃないしね。急いでる訳じゃないの」
彼女は、そう言って微笑んだ。その微笑みに、どんな意味があるのか、全く以て解らなかった。けど、少し引っ掛かる事がある。
「もしかして、屋上から見下ろして、探してるんですか?」
「何で解ったの?」
彼女は、心の底から、「驚いた」と言う風に、目を見開いて、僕の事を見つめた。冗談半分で言った事に、これだけ驚かれるとは、逆にこっちがびっくりしてしまう。
「呼び出した訳でもないのに、人を探しに屋上に来るなんて、それくらいしか思いつかないじゃないですか」
「ああ、そうだね」
彼女は、得心したように、深く頷いている。
「つまり、君は、そう言う人なんだね」
何なんだ、この人は。初対面なのに、いきなり僕を決めつける様な言い方をしている。むっとして、僕は言い返した。
「そう言う人って、どういう人ですか?」
しかし、彼女は相変わらず微笑みを浮かべている。僕の隠した敵意を知らないのか、見抜いているのか。のらりくらりと躱して行く。
「気になった事は、とりあえず確かめてみる、って所かな」
悔しいけど、当たっている。僕がここへ来たのだって、何か不思議な物を見てしまったからだ。今だって、あれが何なのか気になっている。けれど、それと同じ位、僕はこの人の事が気になった。彼女の名前は何だろう。幾つなんだろう。何が好きなんだろう。そして、この何もかも見透かした様な笑みは、何なのだろう。
「あなたは、誰なんですか?」
失礼な位唐突な僕の問いかけにも、彼女は微笑みを崩さなかった。
「それより前に、君の名前を聞いていいかな?」
確かに、それが礼儀だろう。
「僕は、黒部達也。君は?」
僕がそう言うと、彼女ははっとした顔をした。暫く、僕の顔に穴があくほど、見つめた。照れくさくなって、僕は目を逸らす。少し湿った風が、僕の頭上を流れて行く。遠くに、青い山々が並んでいる。夏の近づく空は、薄い湯気を含んでいるようだった。
「懐かしいな。この感じ」
彼女は小さくそう呟くと、もう一度僕に向き直った。恥ずかしそうな、小さな声が聴こえた。
「りっちゃん、で良いよ」
その後に、更に小さな声が続く。
「…………に、さ」
ふわりと穏やかに吹いた風に、小さな声は流されて行った。
「え? なんて言ったの?」
僕は少し大きい声で、そう問い返した。
「ううん。何でもない」
何かを取り繕う様に、彼女はそう言って、もう一度さっきの言葉を繰り返す。
「りっちゃん、で良いよ」
良い訳ないだろう、と思ったが、やっぱり彼女は平然としている。弱い風に髪をたなびかせながら、鼻歌でも歌い出しそうなくらいだ。
こんな姿を見せつけられて、こっちばっかり焦ってちゃ、馬鹿みたいだ。僕はそう思い直して、
「ああ、解ったよ」
とぶっきらぼうに言った。
何かが引っ掛かる。でも、何が引っ掛かっているのかは、よく解らなかった。
相変わらず、空は抜ける様に青い。