25
光の中に、彼女がいた。
この町を見下ろす様に、胸を張って、フェンスのそばに立っている。髪は夕方の風になびいている。
そして、その背中には、大きな「翼」があった。
僕は、眼を閉じるのも忘れて、惚けた様にその姿を見ていた。
やがて、その人は、こちらを向いた。逆光で、顔はよく見えないはずなのに、その顔が笑顔である事は、どうしてか、解った。
体から力が抜けて行く。立っているのがやっとだった。
微笑んだ彼女は、おもむろに口を開いた。
「来てくれたんだね」
僕は、彼女の姿の迫力に負けない様に、どうにか、大きな声を出した。
「うん、来たよ」
そして、彼女の名前を呼ぶ。
「りっちゃん」
りっちゃんは、その言葉を聞いて、幽かに微笑んだ。そして、すぐにその微笑みを引っ込めると、真面目な顔になって、また町の方に向き直ってしまった。横顔も、凛々しかった。
さあ、行け。僕は、りっちゃんに謝罪の言葉を、言わなくちゃ行けない。今を逃すと、もう永遠に言えない気さえした。
息を深く吸い込む。でも、それと同時に。
「私は、もう、行かなくちゃならないんだ」
りっちゃんはそんな事を言うのだ。
「行かなくちゃって、どこに?」
僕は、今さっき決めた覚悟も忘れて、そう尋ねた。でも、その答えを、僕は知っている気がした。
暫く、静かな時が流れた。永遠の様な一瞬が過ぎて、りっちゃんの声が風に乗って聴こえた。
「ここじゃない、どこかだよ。とっても遠い所」
「どれくらい、遠いの?」
「それは、私も知らない。でも、遠い所って言う事だけは、知ってる」
「なんで、そんな所に、いっちゃうのさ」
「『声』が、そう言ってるからだよ。もう、こっちにはいられないんだって」
「そんな声、無視すれば良い」
「無理だよ」
「無理じゃないよ。こっちにいてよ。まだ、りっちゃんと一緒に、したい事があるんだ。まだ、見たい物があるんだ。まだ、食べたい物があるんだ。だから」
「駄目だよ」
りっちゃんのその声は、冷たく僕を突き放した。氷柱みたいな鋭さで、僕を突き刺した。何を言おうとしていたのか、全部忘れてしまった。ただ、僕は口を開けたり閉めたりしながら、声にならない声を上げていた。
「ごめんね。私は、もうエネルギー切れなんだ。こっちの世界で、この姿でいるのは、どうしても無理なんだって」
前にも、りっちゃんはそんな事を言っていたはずだ。
「それにさ、私が死んだ時の願いは、もう叶っちゃったしね」
りっちゃんはそう言って笑った。や
でももし、例えその言葉が本当だったとして、やっぱりそう割り切るのは、無理だと思った。願いが叶ったなら、絶対に、新しい願いが生まれるはずだ。それなのにりっちゃんは、無理矢理物わかりが良い振りをしている。
そんな笑顔は、見ていて、心がチクチクした。小さい心の傷が寄り集まって、だんだん大きな亀裂になっていく様な気がした。
全部、僕のせいだ。僕が、あんな馬鹿な事をしなければ。
「りっちゃん」
僕は、胸を絞る様にして、そう呼びかけた。声が、風にかきけれて行く。
「りっちゃん」
でも、大きな声が出ない。りっちゃんに届かない。
「りっちゃん」
「りっちゃん」
どうしても大きな声が出し難い。何かが僕を押し潰そうとしている。
僕は喉を抑えて、必死でかすれた声を出す。
「りっ……」
声が出なくなった。
りっちゃんを連れ去ろうとする何かが、僕を邪魔だと思って、こうしているのかも知れない。
「っ……!」
声が出ないのに、僕は口を開けたり閉めたりした。そうすれば、少しは声が出る気がしたのだ。でも、声どころか、息の欠片すら出て来やしない。
だんだんと、息苦しくなって行く。
苦しくて、膝を付いて、そして両掌を地面に付けてしまった。
思わず、遠くのりっちゃんへと手を伸ばしてしまう。
「……っ!」
でも、りっちゃんは僕から眼をそらした。ぎゅっと眼をつぶって、僕を見ない様にしてしまった。
やっぱり、僕には謝る事すら許されないのだろうか。
伸ばした手から、力が抜けてくる。体を支える肘が、がくりと曲がるのが解った。
その瞬間だった。
「もう行きますから! だから、もうこんな事はよしてください!」
りっちゃんの声だった。涙を流していた。頭を両手で抱えて、何かに懇願していた。
「たっちゃんは悪く無いのに! なのに! なのに!」
りっちゃんは、空へ噛み付きそうな勢いで、叫んだ。
「なんで苦しんでいるんですか!」
次の瞬間、りっちゃんは惚けた様に黙り込んでしまった。口を開けて、ぼうっとして、しばらくすると、膝から崩れ落ちてしまった。
「ああ、私のせいだったんだ」
りっちゃんのその言葉で、僕は解った。たった今、『声』がりっちゃんに話し掛けたのだ。『声』が、りっちゃんを向こうへ、力づくで引きずって行こうとしている。
僕は、それを止めなきゃならない。
僕が苦しんでいるのは、僕が言葉を伝えられないからだ。情けない僕が、自分で背負った物の重さに、押し潰されようとしているからだ。
僕は、四つん這いで、りっちゃんの元へと這って行った。りっちゃんの足下まで辿り着いて、やっとの事で腕にしがみつく。
「りっちゃん……、行っちゃ…………、ダメだ……」
半分も声にならなかった。ただかすれた声みたいな息が、ヒューヒューと出てくるだけだった。
「そんな『声』なんかに……、負けちゃ…………、ダメだ…………」
りっちゃんは、僕を見下ろした。一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに微笑んで、しゃがみ込んだ。僕の目の前に、りっちゃんの顔が来る。
「ありがとう」
小さな、囁く様な声が聴こえた。
そして、りっちゃんは立ち上がる。きっ、と空を睨みつけて、叫んだ。
「解りました! そっちへ連れて行ってください! だから!」
そして、りっちゃんは胸一杯に息を吸い込んだ。
「もう、これ以上たっちゃんを苦しめないで」
りっちゃんは、涙を流していた。
頬に一筋、夕日を照り返しながら、落ちて行った。
その光が、今の僕には、この上なく眩しかった。
「私は、たっちゃんに感謝してる」
りっちゃんは、僕の隣へしゃがみ込んだ。大きな翼が動いて、風を起こした。
だんだん、息苦しさが無くなって来た。
僕は、りっちゃんの右手を握った。そうしていないと、今すぐにでも、りっちゃんがどこかへ行ってしまいそうだった。
「私は死んじゃったけど、たっちゃんのそばにいられたから、色んな物を見る事が出来た。たっちゃんは私の事、気付いてなかったと思うけど、私はずっとたっちゃんのそばにいたから、少しだけ長生き出来たみたいな感じだった。
それにね、たっちゃんが私の代わりに色んな物を見てくれるなら、私はそれで良いんだ」
違う。りっちゃんは、死ななくてよかったんだ。なのに、そんな事を言うなんて、どう考えてもおかしい。
その時だった。突然、天から声が降って来た。僕にもはっきりと聴こえた。
『願いを、聞き入れた。もう時間だ』
冷たい、無機質な声だった。男か女かも、若いのか老いているのかも、解らない声だった。
「たっちゃん、私、もう本当に行かなきゃ」
りっちゃんはそう言って、立ち上がった。僕も、手を繋いだまま立ち上がる。
「今まで、ありがとう。楽しかった」
『いつまでそうしているのだ。早くしろ』
「うるさい!」
久し振りに、声が出た。すーはーと息をしてみる。大丈夫だ。
「お前は、誰なんだ! りっちゃんを苦しめるなら、僕が許さない」
『私に名前などない。ただこうして、世界をあるべき姿になる様に、回しているだけだ』
「死ななくていい人間が死んで、あるべき姿な訳ないだろ!」
『それをお前が言うとはな』
今一番、この声を憎いと思った。
『お前が、この者を殺したんだぞ』
僕は、何も言い返せなくなった。それだけは、変えようもない事実だったから。
「たっちゃんは悪く無いよ。たまたま、私がドジ踏んだだけだから」
りっちゃんは優しい声でそう言うと、急に口調を変えた。
「いい? 私をそっちへ連れて行きなさい。そうしたら、もう、二度とたっちゃんを苦しませないで」
こんな時に限って、声は返事をしなかった。
気付けば、右手にあったりっちゃんの手を、ほとんど感じていなかった。向こうが透ける位、色が薄くなっている。
「じゃあね、たっちゃん。たっちゃんは、まだこっちに来ないでね」
そう言うと、りっちゃんは大きく翼を動かした。強い風に、僕は思わず顔を覆ってしまった。
次に眼を開けると、りっちゃんは翼をはためかせて、頭上高くに飛び上がっていた。
そうだ。言わないと。
「りっちゃん、全部僕のせいだ。いくら謝っても足りないだろうけど、謝る!」
りっちゃんは、僕を見下ろして、悲しそうな顔をした。
「ごめん! 本当に、ごめん!」
返事は、なかった。
ただ、一回翼を大きくはためかせると、りっちゃんは高く高く、藍色の天に昇って行った。
今になって、りっちゃんが何だったのか、気になった。天使にも見えたし、幽霊みたいに、透けてもいた。高く高く昇って行って、星々の世界に行ったのかも知れないし、自分が星になったのかも知れない。
ただ、りっちゃんはまぎれもなく、翼を持っていた。
だから、もう二度と、手は届かないのだ。
いや、もう手を触れる事も、許されないのかも知れない。




