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翼の話  作者: 杉並よしひと
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 家に着くと、ちょうど、お母さんは買い物から帰って来た所だった。

「お母さん!」

 玄関の扉に手を掛けたまま、お母さんは振り返った。

「あら、どこ行ってたの?」

 お母さんのいつも通りの顔を見て、僕は勝手にじれったくなって来た。心を落ち着けて、ゆっくりと話す。

「訊きたい事があるんだけど、答えてくれる?」

「うん。何でも良いわよ」

 お母さんは、まだ余裕の表情で、新聞受けから夕刊を引き抜いた。エコバッグを持った手に新聞を持ち替えて、ポケットから鍵を出す。

 きっとこれは、いつもの日常の一場面なのだ。そう思うと、僕は無性に腹立たしくなって、でも、それはお母さんに向けるべき物でもなくて、やり場のない怒りだけが、僕のお腹の中に陣取った。

 だから僕は、お母さんに、言葉を突き刺した。

「調べたんだけどさ。僕の言ってた、女の子の事」

 お母さんの顔から、笑みが消える。もう、僕を騙しきれるとは思っていない。微笑みがはがれて、すっと真面目な顔が出て来た。

「それが何か、大事な事なの?」

「うん、これ以上ない位、大事な事」

 遠くで鳴いていたヒグラシが、息をひそめた。

 息も出来ない様な静けさが、僕を締め付ける。ずっしりと重い空気が、僕の肩にのしかかる。知らない間に、僕は地面を踏みしめていた。

 ゼリーみたいな空気を、一杯に吸い込んで、僕は口を開く。

「何で、隠してたの?」

 お母さんは僕に背を向けて、玄関のドアを開けた。中に入って、買い物袋を、玄関に置いた。

「ちょっと、何の事かしら……」

「もう、嘘はつかなくていいから」

 僕は、強い調子でそう言い切った。もう、僕は知っている。これ以上お母さんが言葉を重ねたって、結局それは、ただの嘘でしかないのだ。

「僕、調べたんだ。あの夏の事、あの女の子の事。全部、覚えてるはずだった。覚えてるはずだったのに」

「仕方ないでしょ」

 吐き捨てる様に、お母さんはそう呟いた。

「もし、私があなたに本当の事を教えていたのなら、それはそれでなる様になったのかも知れない。

 でもね、あの子は、あなたを助けて、亡くなったの。それを、まだ小さいあなたが全部背負うのは、思っている異常に大変なの。

 私は、向こうの親御さんに、さんざん恨み言を言われた。最初は謝ってもいたけれど、それも最初のうちだけだった。あの人達は、あなたにまで責任を押し付けようとした。あの子がいたから、あの子がいたからってね。

 それを受け止めるには、あなたは幼すぎたのよ」

 お母さんは、僕に何も喋らせたく無いみたいだった。僕に伝える事だけ伝えて、それで終わりにしたいと思っている風だった。

 お母さんの言葉で、僕は全てを悟った。でも、それがはっきりとした形を持っている様には、到底思えなかった。全部に答えを出してからじゃないと、りっちゃんに謝る事すら出来ないと思った。

 だから、お母さんが隠し続けて来た事、そしてまだ隠している事を、僕は知らなければいけなかった。

「あなたがそれを背負うと言うのなら、もうそれでも良いのかも知れない。私たちは、あなたを傷つけようなんて思っていないのだから、今までこうして来た。

 でも、今からは違うの。

 自分で背負いに来たのだから、全部自分で背負いなさい」

 お母さんはそう言うと、ずんずんと外へと歩いて行った。家を出て、裏手の高台へ続く坂を登って行く。

 僕は、何も考えていなかった。ただ、交互に右足と左足を前に出して、ただ無心にお母さんの後をついて行った。僕は、僕の知りたい事だけに興味があった。

 だらだら続く坂の途中で、お母さんは道を折れた。辺りはまだ住宅街だったけど、そこまで来て、僕はやっとお母さんがどこへ向かっているのか、解った。

 やがて、長い木の塀が見え始めた。ここまで来て、僕の予想は確信に変わる。夕暮れ時だからかも知れないけれど、さっきから、人を見かけない。

 静かな道をしばらく歩くと、瓦の屋根を載せた、門が現れた。

 お母さんは、その門をくぐった。僕は、一瞬、門の前で立ち止まった。門を見上げて、息を吸い込む。眼を閉じて、えいっと門をくぐった。

 門をくぐった途端、僕は逃げ出したくなった。自分で探っておきながら、自分で知りたがっておきながら、実際に自分の眼で見るのは、やっぱり怖かったのだ。

 門の向こうには、石畳の道が続いていた。。

 道の両側に、たくさんのお墓が並んでいた。全部同じに見えて、でも、一つ一つはやっぱり違う形をしている。お花が備えてある物もあれば、苔が生している物もある。

 そんなお墓の群れの中を、お母さんは迷う事なく進んで行った。右左にお墓を見ながら、僕はだんだん、下だけを見る様になった。

「ねえ、どこまで行くの?」

 僕の問いかけに、お母さんは答えなかった。ただ、一つのお墓の前で、ふと立ち止まった。

 他のお墓と何も違わない、一つのお墓の前に、僕は立った。何も言われなくても、僕はこれが何か、解った。

 僕は、一歩前に踏み出して、もう一度しっかりと、お墓を見つめた。

 「葉山家之墓」と、しっかり掘られた、どっちかと言うと新しいお墓だった。お花は供えられていないが、墓石の綺麗さが、まだお参りに来る人がいる事を示していた。

 それは、りっちゃんがまだ忘れられてない、と言う事と一緒だった。それが更に、僕の背に重くのしかかってくる。

 さっきのお母さんの言葉が、頭の中にぐわんぐわん、とこだました。

「あなたの記憶は、正しかったのよ」

 お母さんの声が聴こえる。

「あなたには、確かに仲の良い女の子の友達がいた」

 ざあ、と風が吹いた。近くの木が揺れて、僕は何かに襲われる様な、怖さを覚えた。

「あなたは調べたと言っていたから、もう知っているのかも知れないわね。彼女は、いや、りっちゃんは、十年前の夏に、亡くなったわ」

 お母さんは、改めて僕の知っている事を話した。

 僕の後ろから、お母さんの静かな声が続く。何故だろう、振り返りたく無かった。

「りっちゃんは、本当に良い子だった。毎日のようにうちに来て、あなたと遊んで、夕方になったら帰って行った。あんまり詳しく家の事を聞いた訳じゃないけど、とっても溌剌としてて、何より、あなたと遊ぶのが楽しくてしょうがなかったみたい」

 祭りの夜を思い出す。あの夜、りっちゃんは本当に楽しそうに、出店を回っていた。

「でもある日、りっちゃんは亡くなった」

 僕は、拳を握り込んだ。拳の中に、汗がじわじわとしみ出してくる。

 まだ湿り気を残した風が吹き、首もとをぬらり、と撫で付けて行った。

「川で溺れたあなたを助けようとして、りっちゃんは溺れてしまった。あなたが中州に打ち上げられているのを、近くを通りかかった人が見つけたのだけれど、そのとき、りっちゃんはあなたにしがみついたまま、亡くなっていたそうよ」

 僕は、耳を塞ぎたくなった。

 僕は幼なじみの女の子の存在を、信じていた。お母さんもお父さんもお姉ちゃんも、その子を妄想の中だと言う。そんなみんなが、僕を騙そうとしているんだと思っていた。

 でも、小さい頃の記憶とは、怖い物だ。みんなにそう言われているうちに、僕自身でも、自分の記憶が曖昧になっていた。

 やがて僕は、全てが夢だったのではないか、とさえ思う様になった。

 でも、今の僕はどうだ。女の子と過ごした時間を、夢だと思い込もうとしている。一人の女の子の、生きている間の想い出を、僕は捨てようとすらしていたのだ。

 そして、僕は悟った。

 みんな、僕を守ってくれていたのだと。

 かけらでも、助けられた時の事を覚えていたら、僕は何か大きなトラウマを抱えたままだったかも知れない。

 女の子の存在を曖昧にしたままだったからこそ、僕は楽しい事や、面白かった事を思い出しては、

「これは妄想じゃない」

 と言い張ってたのだ。

「結局、あなたは助かって、りっちゃんは亡くなった。でも、あなたは、りっちゃんの命を貰って、今こうして生きているの」

 両掌を、まじまじと見る。最後に触った時、りっちゃんの手は冷たかった。りっちゃんは冷たくなる事を選び、僕はそのおかげで暖かいままでいられる。

 どうしよう。

 僕は、りっちゃんに迷惑を掛けてしまった。

 そんな僕が、毎日りっちゃんの元を訪れて、遊んだり一緒に過ごしていたなんて、厚かましいにも程がある。

 りっちゃんは決して人を貶したりはしない。だけど、僕の事は、多分、恨んでいる。

「だから、今こうして教えてあげたんだから、たまにはりっちゃんに会いに来なさい」

 お母さんは、ふう、と大きく息を吐いた。

 僕は、りっちゃんに会いに行かなければならない。唐突にそう思った。

 さっき見た、おじいさんと火を思い出す。

 今日は、お盆の最終日で、あの火は、送り火だったのだ。

 僕はあのおじいさんも、彼が見送っていた人も知らない。だけど、おじいさんは僕に、やらなければいけない事を、教えてくれていた。

「お母さん、教えてくれてありがとう」

 僕は、りっちゃんのお墓に背を向けた。僕は、もうこれ以上ここにいたって仕方ない。

「じゃあ、僕、行ってくるから」

「え? 行ってくるって、どこに……」

 お母さんの言葉を待たずに、僕は駆け出した。

 もう、ここにいる必要はない。

 だって、りっちゃんは、ここにいる訳じゃない。

 いつもの、あの場所にいるはずだと、僕は確信していた。


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