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翼の話  作者: 杉並よしひと
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 八幡神社の前は、まだ明るいのに、多くの人でごった返していた。

「早く来すぎたかな……」

 腕時計に目をやる。まだ時計の短針は、「5」に少し届かない。

 八幡神社の境内へは、この石段から上がるしか無い。だからだろうか、いつもは人気の無い階段も、今日はかなり賑やかだ。

 たくさんの人が上って行く石段の、端っこに陣取って腰を下ろす。みんな、僕には目もくれずに、揃って楽しそうな顔をして、石段を上って行く。

 ふと、本が読みたくなった。いつも本を手放さないりっちゃんの気持ちが、解る気がした。こうして退屈をしている時こそ、本は面白いのかも知れない。普段はあまり本を読まないから、本当にそうなのかは解らないけど。

 こうしているうちにも人出が増えて、僕はもっと端の方へと、動いて行った。

 やがて、石段の前の通りに、バスが停まった。僕が乗って来たバスの、三本後のやつだ。バスから降りて来る人を、一人一人確認する。

「やっぱりこの次のバスかなあ」

 そう呟いて、諦めようとした時だった。

 切れた降りる客の波の最後に、一人の浴衣姿の女の子が付いて来ていた。閉まりかけたバスの扉から、慌てて降りて来て、道路の段差につまづいている。浴衣も草履も、馴れていないんだろうか。僕は、もう一度彼女をよく眺めた。

 綺麗な長い黒髪が、彼女の動きに遅れて付いてくる。夕闇がすぐそこまで迫っているのに、白い肌はその中に浮かび上がっているようだ。痩せ気味な体には、紺色の浴衣を着ていて、所々にぱっと花が咲いている。

 気付くと、僕の目は彼女を追いかけていた。多分、口はだらしなく開いていただろう。瞬きもしなかったに違いない。

 だから、僕は彼女と目が合うまで、彼女が誰なのか、考えてもいなかった。

「お待たせ」

 りっちゃんだったのだ。

「うわっ」

 僕は、この上なく間抜けな声を上げてしまった。

「ああ、りっちゃんか」

「達也、なんかぼおっとしてたけど、可愛い女の子でもいたの?」

 君を見てました、なんて、言える訳ない。

「いや、単にぼおっとしてただけだよ」

「ふーん」

 りっちゃんは、疑いの目を僕に向けていたけど、気にしない様にして、立ち上がる。

「じゃ、行こうか」

「うん」

 そう言うと、りっちゃんは、ごく自然に僕の手を取った。

 うわ、小さい。そんなに大きい訳でもない僕の手より小さい。それに、すべすべしてて、柔らかくて、暖かい。

 何でだろう。特別な事は何も無いのに、僕は興奮していた。お祭りの空気が、そうさせたのかも知れないし、夜が迫る神社と言う場所がそうさせたのかも知れない。石段の上の方を見上げると、いつもより少しだけ、空が明るい。

 僕は、りっちゃんの手を、握り返した。

 それに応えてくれたのだろうか、りっちゃんは、僕の前を歩きながら、にこりと笑った。僕はもう、これ以上無いほど照れてしまって、まともにりっちゃんの顔を見る事が出来なかった。もったいない事をした。

 石段を上りきると、そこは別世界だった。

 橙色の提灯が辺りを照らし、たくさんの人が、出店を覗いたり、話したり、輪になって踊ったりしている。寂しく見えていたはずの橙色の灯が、人の波が、今は僕を歓迎してくれているかの様だ。

 みんな、何かにうかされている。そう思った。と、同時に。

 昔こんな事があったのかも知れない。そうとも思った。

「どうしたの? ほら」

 りっちゃんが、握った手をぶんぶんと振った。はっと目が覚める。いけない。今日は事あるごとに考え事をしてしまう。

 僕は、りっちゃんの方へ、笑顔を向けた。

「ああ、ごめん。ちょっと考え事を、ね」

「本当に大丈夫? 気分悪いなら今日は止めとく?」

 りっちゃんの心配そうな顔を見て、僕は深く反省した。

 うかされていたとしても、楽しめる時に楽しめば良い。いや、楽しめるときは、楽しまなければいけないのだ。

 つまり、今は、楽しまなきゃいけない。

「よし」

 僕は、りっちゃんの心配を吹き飛ばそうと、余計な位の元気をだした。

「じゃあ、今日は遊ぼう。何か、したい事ある?」

 りっちゃんは、安心した様な顔をして、頷いた。

「うん」

 そして、また僕の手を取る。りっちゃんの顔に、大輪の花が咲いた。

「私、やりたい事が、たくさんあるんだ」

「ああ、どこでも良い。付き合うよ」

 僕の言葉を聞いて、りっちゃんは「本当?」と訊くと、ぐいぐいと僕の手を引っ張り始めた。祭りの人ごみの中を、ぐいぐいと縫って行く。両脇の出店の灯が、眩しい線を描いて、どんどん後ろへと流れて行く。


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