雪の街のユーリ
ミストの街の冬は静かだ。
雪深いこの街は、真冬は外を出歩く事も困難で、雪掻きなどでの事故も多く毎年十数人の死者がでる。砦の騎士や兵士達も合わせればもっと増えるだろう。
しかし、そろそろ日が延び始めて冬も終わりが見えてきたなか、今年は老人が数人寿命を迎えたくらいで、白く冷たい手に連れ去られた人数は驚く程少なかった。
今、その理由の一つが軽く雪を除けられた人気の無い道を少し足早に歩いていた。雪道を歩くにはコツがいるものだが、その青年はまるで雪など無いかの様にすいすいと危なげなく歩いていく。
少し長めの黒髪を揺らして歩く青年の前髪から覗く目元は涼しげで、長い睫毛の奥の瞳は煙るようなグレーだった。すらりとした痩身を灰色のコートに包んでいて、全体的にモノトーンであるのに、不思議と目を引かれる雰囲気がある。
まだ昼を過ぎて数時間だが、山に囲まれた街の日の入りは早く、辺りは薄暗い。そんな道を青年は明かり一つ持たずに歩き、やがて一軒の石造りの建物の前で立ちち止まった。
両開きの少し重そうな扉の横には看板が下がっていたが、今は雪が張りついて読むことができない。
もし邪魔な雪がなければこう書かれているのが見えただろう。
『冒険者協会 ノイルザム王国ミスト支部』と。
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ギルドの中は別世界の様に暖かかった。
大きな暖炉には盛大に火が焚かれ、上に掛けられた大鍋からはもうもうと湯気が上がっていた。
ユーリは肺の中に溜まった冷たい空気を入れ換えるかのように、ゆっくりと大きく深呼吸をした。芯まで冷えきった体が少しずつ暖かさに慣れていくのを感じて目蓋を閉じる。
このかじかんだ鼻や指先がじんじんと痺れる感覚が嫌いではない。数年達っても未だに慣れないこの身体が、確かに自分の身体なんだと実感できる。怪我をしてもさして痛みを感じないくせに、雪に半日以上さらされれば流石に影響が出るらしい。しばらくそうして血液の流れを感じてから、ようやく目蓋を開くと人気のない室内を歩きだした。
「すみません、依頼完了の確認をお願いします」
飴色に磨かれた木製のカウンターの前で声を掛けると、うたた寝をしていた恰幅のいいおばちゃんが慌てて顔を上げた。
「ああ、はいはい!あらユーリじゃない。随分と早かったね。もう終わったのかい?」
「うん、夜明け前にでたから。ボアを何頭か仕留めてきたよ。今日はブラウンベアは出てこなかった。小屋は魔獣除けの香木を炊いてきたからもうあそこは大丈夫だと思うよ。…あとマリーさん、よだれが付いてる」
今日受けた依頼は、冬の間に山にある薪小屋へ住み着いてしまったボアの駆除だった。今年は比較的雪が少なかったせいか獣達も早々に目覚めて動きだしたようだ。ブラウンベアもいるかもしれないとの事だったが今日は見受けられなかった。
あらやだ、と言いながら慌てて口元を拭ったマリーの手に、苦笑しながら仕留めたボアの鑑定証とギルドカードを渡した。
「寒かったでしょう。今あったかいお茶を入れるから座ってなさい」
「ありがとう。マリーさんこそ待たせちゃってごめんね。旦那さんが心配してるんじやない?報告だけだし、明日の朝でよかったんだよ?」
「なに、これも仕事さね。それに家に居て見飽きた亭主の顔見てるよか、ここで昼寝してるほうが何倍も寛ぐってもんだ」
そういって笑うマリーに、ユーリも口元を緩めた。
暖炉のそばの椅子に座り、マリーの入れてくれたお茶に口を付ける。お茶はほんのりと甘く、茶葉の香りと共にスパイスの香りが鼻を抜けていく。喉を落ちれば、腹の中からほかほかと温まった。
「おいしい…」
ユーリの為にわざわざ用意してくれたのだろう。マリーの心遣いが心まで温かくしてくれる。
ユーリにお茶を渡したマリーは、カウンターに戻りさっそく仕事にかかったようだ。
「あら、随分と量があるね。こりゃ肉屋が大喜びするよ。依頼は小屋に住み着いたボアだけじゃなかったのかい?」
「ついでに伐採所の辺りも見てきからね。軽く手を入れてきたから、そっちも心配ないと思うよ」
「あらまあ、それはご苦労様だったね。あんたは気が利いて助かるよ。明日にも仕事ができると知ったら山の男達も喜ぶだろうよ。…どれ、依頼とボアの買取料金で合計32000Gだ。しかし運ぶのが大変だっただろうに、何頭仕留めたんだい?」
手渡されたお金をありがたく頂戴して、カードも受け取る。どちらも懐にしまうふりをしながら、イベントリに収納した。視界の隅に現われた文字を煩わしく思いながら視線が不自然にふらふらしないように意識する。
「ボアは4頭だよ。一頭は結構大きくて麓まで下ろすのが大変だった。何度か往復して、麓からは人に頼んで手伝ってもらったんだ。正直くたくただよ。」
嘘っぱちである。
ボアは血抜きしたらすぐにイベントリに入れて、ついでにホロホロ鳥も何羽か仕留めて汗一つかかずに余裕で帰ってきた。麓の手前でわざわざ自身にヒートの魔法をかけて、体に水を掛け汗を擬装までした。そっちの方がよっぽど気疲れしたほどだった。
「ボアはって事は他にも何か仕留めたのかい?」
「ホロホロ鳥を何羽か狩ってきたけど、食べる分を残してボアの運び賃にあげちゃったから」
「若いのにホントたいしたもんだよ、あんたは。細っこい身体して見えるのに、そこらの連中よか頼りになるよ。こりゃ街の若い娘っこ達が騒ぐのも無理ないねぇ」
「…いくら食べても肉が付いてくれないんだよなぁ。ムキムキとは言わないけど、もうちょっと男らしくならないかなぁ」
「そりゃ羨ましい限りだね。あたしの肉を分けてやれたら良かったんだけどねぇ!」
アッハッハッハと、マリーはその豊満な肉を揺らして豪快に笑った。確かに女にしてみれば、食べても太らない身体は垂涎のまとだろう。ユーリだって元の身体の時であれば、羨ましく思ったはずだ。
だが、今の男の身体ではちっともありがたくなかった。特に冒険者という仕事柄、男ばかりの環境では筋肉信仰が根強く、その中ではひょろっとした優男のユーリは舐められて絡まれる事も多かった。初対面で唾を吐かれた事もある。
「それなりに鍛えてるんだけどなぁ」
「なぁに、見た目ゴツくても、壁になるしか役に立たたない奴も沢山いるさね。あんたをバカにする奴も最初だけで、すぐに見直すだろうさ。現にこの街であんたに喧嘩売ろうなんて奴はよそ者しかいないだろう。ボアを4頭も仕留めて山から運んで来れる奴は早々いないよ。自信を持ちなね」
「…ありがと、マリーさん。マジ大好き。いい女過ぎて惚れちゃうよ」
「アッハッハッハ、そりゃ惜しかったね!あたしも20歳は若かったらあんたに嫁にもらって貰ったんだけどね!」
ギルドで長く働いているマリーは、ユーリの悩みも良くわかってくれている。ちょっと口は悪いが頼れるお母さん、という感じに冒険者に良く慕われていた。
今この街に冒険者はユーリひとりだ。
冒険者は冬になる前ミストの関所を越えて南の国に移動する。雪で仕事にならないからだ。
ユーリが他の冒険者の様に移動せず、この街で雪に埋もれて過ごした理由の一つはマリーがいるからと言っていい。
沢山の嘘をつき続けて、いつか関係が破綻する事に怯えて、罪悪感に心がひしゃげても、この母親の様に包容力のある人の傍にもう少し居たかった。
どうせこの街にも長くは居られないのだから。
「そうだ、山でミストラビットを見かけたよ。そろそろここら辺にも降りてくるんじゃないかな?」
「そりゃいいね!ちびたちが喜ぶだろうよ。今朝もウサギ狩りはまだかってわざわざ聞きに来たからね」
ミストラビットはこの辺りのみに生息する小型のウサギの魔獣で、冬になると全身の毛が真っ白になり大変手触りが良く美しい。その毛皮で作られたコートや襟巻きは高値で取引され、この国の重要な輸出品となっている。
しかし元々頭数が少なく、一時は密猟者に乱獲されたこともあって、この街ではいつの間にか大人は森で密猟者を、子供は街の側に罠を張ってウサギを狩るのがルールとなっていた。
実は今朝、ユーリも密猟者の二人組を捕まえて街の警備兵に引き渡してきた。
捕まえたのはこの冬7組目だ。おかげでユーリは兵士の方達からなかなかの信頼を得ていた。
「ミストラビットが出てきたって事はもうすぐワイバーンが飛び始めるね。今年は他の冒険者も早めにやってくるだろうから、こりゃ忙しくなるよ」
マリーはそう言って結露に曇った窓の外を見た。
つられて見た外はまだ雪に白く埋もれていて、それでもその雪の厚みは確実に薄くなっている。きっと積もった雪の下には既に草達が芽生えているのだろう。
ボアやミストラビットは人よりずっと鋭い感覚でそれに気付いているのだ。
もうすぐこの街の長い冬が終わり、春が来る。