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伝説の伝道師~ムジュラにおけるジェンダー~

ゼルダの伝説シリーズのネタばれ要素を含みます。ゲームをプレイ中の方はご注意ください。





 小説を書くにあたって、男と女に纏わる話というのはしばしば取り上げられる。いわば時代や地域、文化などの垣根を越えた普遍的なテーマである。正直、ネタが尽きているのではないかと思われるほど(小説に限らず)男女が主題の作品は存在している。なのに、今この瞬間も多くの作家を惹きつけてやまない。それは、いくら話題にしても語り尽くせないほどのロマンであると同時に、答えなき問題に挑み続ける宿命なのかもしれない。


 私が最も大きな影響を受けた『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』は男女について様々な角度から考えさせられるテレビゲームだ。ゼルダの伝説、通称“ゼル伝”はアクションRPGであるが、その中で“ムジュラ”は他のゼル伝作品とは趣が異なる。ダンジョンを攻略し、謎解きを楽しむゲーム性より、ムジュラが重きを置いているのは人間性だからである。


 ざっと、ムジュラの物語を説明しよう。主人公の少年“リンク”は、月が落下する前のあと三日で終わる世界“タルミナ”に迷い込む。リンクが時のオカリナを駆使して同じ三日間を繰り返し、タルミナを破滅から救うというのがメインストーリーである。ざっくりだと伝えづらいが、本作の面白さはゲームクリアに直接関係しないサブイベントのほうにあるといっていい。なぜなら、タルミナの住人との会話や人助けをするイベントが豊富で巧みに作られており、人間ドラマとしての側面が強いからである。当然、男女観も随所に見て取れ、ゼル伝の世界を理解する手掛かりとなる事柄はたくさんある。だが、明示的にメッセージを押し付けるようなことは皆無で、ほとんどの場合はプレイヤーの想像に任せている。あれやこれやと思いを巡らせる“余地”がこちらにある点は、何とも心憎い。


 私はムジュラで遊び物事を深くまで考えるようになった。大いに感銘も受けた。大袈裟かもしれないが、敬意を表せる作品なのだ。ただの一プレイヤーとして、感謝感激を心の内にとどめておくわけにはいかない。何か恩返しがしたい。いつしかこの気持ちを皆さんにもお届けしたいと思うようになった。それゆえ私はこうして“伝説の伝道師”となっているに過ぎない。以下に伝説を通した私の見解を述べることにしよう。


 最初の見解……基本軸は二元論で構成されている。


 二元論というと難しく聞こえるが、そういう時は辞書を引いてみるといいかもしれない。すると「ある対象の考察にあたって二つの根本原理をもって説明する考え方」などと解説されていることだろう。余計わかりづらいと思われた方は、例えば「人間とは“善と悪”どちらが本性なのか」ということを思い浮かべて頂きたい。二元論で調べると、もしやあなたの辞書に「マニ教」の言葉が載ってはいなかっただろうか。マニと聞いて“マニ屋”が連想されれば、その人はムジュラをよく知っているはずである。知らない人や忘れてしまった人のために説明しておくと、マニ屋とはタルミナの中心地“クロックタウン”にある怪しげな店だ。なぜ怪しいかといえば、店内に入ると奇怪なBGMが流れ、店の奥には敵キャラのものと思しき鎧が置かれ、果ては盗品を売買しているからである。また、リンクがお面を被って店主のおじさんに話しかけると覆面お断りと叱られる。客には意外と容赦しないのだ。……それはともかく、マニ屋には二元論と関係するトピックが多い。


 まずは、善と悪の面。実は、店主のおじさんはマニ屋の隣の店舗で雑貨屋もやっている。店として善良な雑貨屋と悪徳なマニ屋を同時に営んでいるのだ。さらに、雑貨屋におけるおじさんの接客は人当たりが良い点も注目すべきである。同一人物の接客態度の変化にも善と悪が感じられることだろう。またこれは「人には二面性がある」とのメッセージにも受け取れる。ちなみにタルミナ平原のミルクロードへ続く道付近を飛んでいるハゲワシに似たモンスター“タックリー”はリンクの所持品を盗むが、その時盗まれたアイテムがなぜかマニ屋で売り出される。それがどういう経緯なのかは不明だが、店頭に並ぶ時の品物のネーミングセンスや説明が独特、というより悪くて面白い。敢えてタックリーにアイテムを盗まれて、自分のものにどんな名前を付けられるか。気になった方は試してみてはいかがだろうか。また、時を戻せばアイテムも元に戻る。すなわち盗まれたことにはならないのだが、実世界でそんなことはできない。マニ屋では盗品であってもしっかりと値段をつけられ、金を払って取り返さなければならない現実の厳しさを実感できたりする。こうした“バッドな楽しみ方”ができるのも、ムジュラならではの良さである。


 次は、昼と夜の面。これは店の営業時間のことだ。雑貨屋は昼間、マニ屋は夜間にのみ営業しているのだが、その奥にゼル伝らしい昼夜観が至妙に表現されている。特に、必然的に良からぬイメージを抱いてしまう“夜”の描き方には相当のこだわりが感じられる。

 「物騒なのは昼と夜のどちらか」という問いに、大抵の人は「夜だ」と答えるだろう。ムジュラでも、真夜中に一人で爆弾の仕入れをするおばあさんがスリに襲われるのをリンクが助けるイベントがある。言葉遊びではないが、夜に「一人」、「おばあさん」、「爆弾」、「スリ」と結びつけて「危険だ!」と思わない人はいるまい。この例や、マニ屋の実態に象徴されるように「夜は怖い」と思いがちだが、ムジュラの夜の解釈はそう単純に済まさない。

 『時のオカリナ』以降、ゼル伝シリーズは昼夜の時の流れをゲーム内に取り込んでおり、同じ場所でも昼と夜では何らかの変化が起きているシステムを定番としている。ムジュラでは、とある所にカリスマダンサーの幽霊が出たり、紙を欲しがる謎の人物の手が出てきたりと、不気味な夜の演出が目立つ。ただ、ひたすら怖がらせるだけではない。コミカルな面を取り入れて怖さを中和しているのだ。カリスマダンサーの幽霊は“奇妙なステップ”を踏み続けているし、謎の人物は“やけくそ気味”に必死であり、紙を欲しがっている時点で何を言わんとするかは想像できる。とはいっても「やっぱり夜は恐ろしいものである」と思われる方は少し視点を変えてみてほしい。暗くて様子がわかりづらく、ちょっとの音でも耳につく静寂に包まれる。そうしたことで逆にテンションが上がったり、ぞくぞくと興味をそそられたりする時間帯ではないだろうか。まして夜は寝るのが当たり前の子供にとって、深夜は未知の時間である。ゼル伝は子供も遊ぶゲームであるから、その点きちんと配慮されている。怖いけれど一体何が起こっているのだろうか。夜に関心が高まるのは自然といえよう。

 そんな好奇心に応えてくれるのが、丑三つ時になると牧場に出現する“オバケ”を撃退するイベントである。オバケは、牧場の牛を狙う悪いヤツらだ。牧場を営む姉妹のうち、妹の“ロマニー”とリンクが協力してオバケをやっつけるのである。このイベント自体に子供目線の夜を溶け込ませているのは秀逸だ。ロマニーは、オバケを何とかしなければならないと姉の“クリミア”に訴えているが、クリミアはロマニーの言うことを真に受けず信じてくれない。「夜にオバケが出る」という、いかにも子供らしい発想のロマニーと戯言に付き合っていられない大人のクリミア。これは、夜の見方における子供と大人の二元的対比である。また、子供が見知らぬ夜を、得体の知れない敵であるオバケに重ね合わせている点も注目だ。ちなみにロマニーが例えるオバケという怪物は所謂“ゴースト”の類ではないと推理できる。その根拠は、まず、牧場の牛達をさらおうとするオバケの行為だ。これは、一昔前に実際に話題となった“キャトル・ミューティレーション”(cattle mutilation)をネタ元にしていると思われる。直訳すると“畜牛の切断”となるが、まさにそのままである。飼育されている牛が何者かの手にかけられ突如無惨な姿に変わり果てるということらしい。惨殺されるだけでなく、連れ去られたような痕跡を残して牛が姿を消すケースもあったようだ。ゲームにミューティレーションを反映するのは残酷すぎるので、ムジュラではさらわれる方を採ったのだろう。怪奇じみたこの事件は、なぜか大概夜中に多発し、朝異変に気付くという顛末だった。現実との共通点は、オバケを退治しない、または退治に失敗した場合に表される。どういう結果になるかは、ご自身の目で確かめてほしい。次の根拠は、光と上空が関係する。オバケは怪しい光とともに現れ、牛をその妖光で照らし、上空に連れ去っていくシーンがある。この様子はまるで、UFOが人知を超えた光線を照射して、牛を引き上げているように見える。ちなみにキャトル・ミューティレーションは、その不可解さゆえに“宇宙人”が牛を使って何らかの実験をしたのではないかと噂された。光と上空の強調は、オバケの正体が宇宙人であることをほのめかすものだと、私は思う。三つ目の根拠は、BGMである。オバケ関連にのみ使われるBGMは、他の曲と比べて異質な感じがするのだ。電子音を基調としたそのメロディーは『ウル○ラQ』や『Xファ○ル』のテーマ曲と、どこか似ている。我流の言葉で表すならば“超常現象的な侵略”である。少なくとも、幽霊を連想させる“おどろおどろしいBGM”ではないのは確かだ。ちなみにオバケは大挙して牛小屋にじわじわと迫ってくるが、これも宇宙人の侵略をモチーフにして、かつて流行したインベーダーゲームを彷彿とさせる。つまりは、怖すぎず、刺激をもとめ過ぎず、かといって興味や関心を薄れさせることもなく、ゲームとして面白い夜を作り上げているのである。

 ここで、リアルの世界との間に一つの疑問が生じる。リンクを含めゲームの中では子供でも夜遅くまで起きていることである。いや、世のため人のためにはしょうがないという意見もあるだろう。だが、世間一般の常識として子供が夜更かしをするのはいただけない。そこでマニ屋が重要な役割を演じる。マニ屋では最期の夜に“夜更かしのお面”が売り出される。このアイテムには、“拷問道具”だったという、一見してどうでもいい情報が付け加えられている。その真意とは何なのだろうか。

そもそも夜だけ営業している胡散臭いマニ屋は、子供はおろか大人ですら足を踏み入れづらい。夜更かしのお面は、お金を払って購入するアイテムの中では一番高価で“大人のサイフ”を満杯にしていても買えない。買うにしても最期の夜まで待つ必要がある。何とか手に入れても「夜更かし=眠らない=眠れない=拷問=悪いこと」のイメージを与えられる。つまりは、「そこまでして夜更かしをするの?」と諭しているのではないだろうか。これは、子供の頃ムジュラに熱中しすぎて夜更かしをしたことがある私には、自分でも少々胸の詰まる思いがする考えである。だが、「夜更かしは絶対にダメ!」とは伝えない優しさに救いがある。二元論を用いながらもどちらかへの極端な考え方(夜=悪いなど)に陥らせない工夫が、このゲームには入念に施されているのだ。


 そして、真と偽の面。こう書くのが合っているのか否か……マニ屋のおじさんの全身を注意深く見ると、意味がわかるはずである。雑貨屋にいる時とマニ屋にいる時では、体の一部が明らかに違ってはいないだろうか。これを「なるほどそうか」と笑える人もいれば、笑えない人もいる。そういったデリケートな問題の扱いに、ムジュラは慎重である。陽気に笑い飛ばしてもいいが、人の“まこと”と“いつわり”とは何かを考えるきっかけにしてみることを私はオススメする。ちなみにこのネタは、前作『時のオカリナ』をよく知る人ならば容易に気付く仕掛けになっている。マニ屋のおじさんは“時オカ”で釣り堀を営むおじさんと瓜二つなのだが、その釣り堀のおじさんも同じ偽装工作?をしているのだ。悪戯好きな“あなた”の分身となったリンクであれば、釣り竿を使ってそいつを引っ掛ける遊びもしたことであろう。


 多少、“マニ”アックな視点から話を進めてしまったので、ゼル伝に倣い軌道修正する。シリーズ作品を俯瞰で眺めてみると実はそこにも二元論が存在している。それぞれの全体のコンセプトを大まかに紹介しよう。

 まず、ゼル伝の最高傑作であると評され、分析の基点となる『時のオカリナ』。リンクは、時を越えて巨悪を倒す戦いをする。“現在と未来”あるいは“現在と過去”の概念が作品を形作る。『ムジュラの仮面』は“生と死”。死者の魂を宿した仮面を被ると、リンクの姿が変わる。すなわちリンクの身を借りて死者は生き返るのである。また、リンクにとっての本当の世界“ハイラル”と、そのパラレルワールドであるタルミナとの関係性も忘れてはいけない。『風のタクト』では“海と陸地”。風向きを自由に変えられる“風のタクト”を振り、リンクは大海を駆け巡る。『トワイライトプリンセス』は“光と影”。本作でリンクのパートナーとなる“ミドナ”とリンクの相容れない微妙な距離感は象徴的である。そして、最新作の『スカイウォードソード』は“空と大地”。空に浮かぶ“スカイロフト”を拠点にしてリンクは大地へ、幼なじみの“ゼルダ”を探す冒険に出る。


 当然、全作品に男性・女性キャラクターが登場する。男と女は対極にあるものだとして、両者を反対の立場に捉える見解ができなくもない。だが、ここではとりあえず、ゼル伝は「偏った見方を好まない美学」を基本軸の二元論に秘めているのをおさえていただきたい。


 次の見解……変化と不変が共存している。


 ゼル伝の中でも特にムジュラは「世相を反映している」とする見解の文章を以前書いたが、それは最新作でも脈々と続いていることが見て取れる。『スカイウォードソード』のパッケージ裏面に書かれている文言「大切な人の、助けになりたい。」は誰もが東日本大震災の影響を感じずにはいられないはず。内容においても“感謝の気持ち”や“ありがとう”の描写が数多く出てくるので、御自身の心で感じてほしい。色々な意味で気掛りなのは、時オカやムジュラの頃にはほぼ出てこなかった“アルバイト”の言葉が徐々に目立つようになってきたこと。世相の変化へ弾力的に対応し、ゲームの要素に反映しているゼル伝の流儀に従えば、シビアな経済的問題が重くのしかかっているようにも受け取れるのだ。

 また、ゼル伝の世界は現実とだけでなく作品同士が独特のスタイルでつながっている。時オカ以降の各作品は別個のようでいて、時系列で並べると実は“リンク”しているのだ。(この時系列の流れを詳しく説明すると複雑かつ長くなるので省略する。ここでは、作品ごとに関連性や共通点があるとだけ考えて頂きたい。)それゆえ、ゼル伝を語るに際してはシリーズを“一つの物語”として見る必要もある。

 身近な例で置き換えた場合にこのニュアンスと似ているのは“久しぶりに会った友達”である。ゼル伝は、新作品が完成するまでに長期間を要することでも有名なのだが、その期待や不安に満ちた年月がもたらす感覚は、友人と“会わない時間”に思う気持ちと酷似している。「立派にやっているだろうな」、「最近見かけないけど、どうなったのかな?」といった具合に。そして何年ぶりかに再会すると「おお、変わったな」と思うことがあれば「やっぱり変わってないな」と思うことがある点も同じだ。そういった“変化”と“不変”がゼル伝にあることを意識した上でシリーズを発売された順繰りに見ていくと、浮き彫りになる事実がある。


 『時のオカリナ』の特徴として、“やりごたえ”が挙げられる。簡単に言えば、ゲームのボリュームが大きいのである。中には、難攻不落なダンジョンで行き詰まりプレイを断念した人も大勢いたことだろう。ここでいうダンジョンとは最深部に強力な敵である“ボス”がいて、そのボスを倒すと“ハートの器”が手に入れられる場所のことである。時オカはダンジョンが合計で八つもある。時オカと比較して『ムジュラの仮面』では、ダンジョンが半分に減らされて合計四つとなった。その代わりといっては語弊があるが、イベントの作り込みに関しては時オカを凌駕している。ムジュラは、破滅直前の世界が舞台であるためにシリアスな作品だ。“コワイ”、“不気味”といった印象を受けるのも無理はないだろう。ムジュラと比較して『風のタクト』では作風が一変し、“ほのぼの系”になった。リンクがマグマに落ちた時などのリアクションが象徴的で、とかくコミカルに作られている。また、本作品ではリンクに妹やおばあちゃんといった明確な“家族”の姿が描かれた。なぜ、父母や兄弟ではなく、妹と祖母なのかを考えるだけでも興味深いのであるが……。この点について評価は分かれる。私が支持するのは“孤独な勇者”としてのイメージが定着しつつあったリンク像を崩しかねないとの意見である。ちなみに欧米など“個人主義”が強い国での評判は、もっと手厳しいらしい。風のタクトと比較して『トワイライトプリンセス』ではこれまた作風が一変し、リアルなタッチの世界観になった。開発者も語っているが、マグマに落ちた時のリアクションは、結構惨くなっている。リンクの家族はどう描かれたかというと、作中では全く触れられない。唯一、リンクに奥義を授けてくれる骸骨剣士が“父”のようにも思えるが、本作のリンクの祖先ということらしい。何にせよ、リンクの家族的なつながりを匂わせる情報は希薄である。トワプリでの大きな変更点は、リンクの盾が“オートガード”となったことだ。これを知った時に私は「ミラーシールドは出ないのか……」と、少し落胆してしまった。盾を謎解きに使わないと思うのはゼル伝を知る者の邪推として、逆に初心者への配慮として譲歩できる。だが、戦闘中の緊張感まで損なわれてしまったのは全プレイヤーにとってマイナスである。トワプリと比較して『スカイウォードソード』では“戦闘の駆け引き”が重視され、盾アクションもマニュアルに戻りリニューアルされた。タイトル通り、剣がフィーチャーされがちだが、意外に剣よりも盾の使い方が戦いを左右する。本作品では、終盤のプレイの仕方によってゲームの進行ができなくなるという致命的なミスが出てしまった。「失敗は成功のもと」とは古くから言われている。次回作にこの過ちをどう生かしてくるか。“ひねくれ者の伝道師”である私は、逆に期待したりしている。


 ゼル伝は新しい要素を取り入れるだけでなく、前の作品を土台に反対の立場から変化をつけているのがおわかりになるだろう。一方で、例えばいずれの作品でもクスリや妖精をキープしておく入れものが“あきビン”であることは変わらない。ビンは、繰り返し使えて自然に優しい容器だからであろうか。あるいは、ガラスはキラキラと輝くけれど、割れやすさも連想されるため「モノを大切に扱ってほしい」とのメッセージだろうか。いずれにせよ、環境への配慮を怠っていない姿勢が垣間見える。また、リンクのHPヒットポイントを示すゲージが“赤いハートマーク”であることも変わらない。これはおそらく、ハートに“命”を連想させる概念が時代や地域などを問わず一定だからだと思われる。

 変わることに理由があれば、変わらないことにも必ず理由がある。不変の要素の中で、あまりにも堂々としているがゆえに逆に聖域となっていたのが“主役の性別の曖昧さ”だ。


 「主役のリンクは男に決まってるぜ!」、「いや、俺はゼルダ命だぜ!」などと思う人はゼル伝を知り過ぎている可能性が高い。今一度ゼル伝を初めて遊んだ時の気持ちになってみてほしい。すると、おおよそリンクのことをゼルダと勘違いしたはずである。実際、私がそうだった。プレイヤーが操作する少年の名前をタイトルに冠していると思うのは当然だが、いざ遊んでみるとそうではない。主人公は男性のリンクであり、実は女性のゼルダでもある。その仕掛けこそが全作品の共通項であり、典型的な“曖昧性”である。主役がリンクなのか、ゼルダなのかがはっきりしないため、性別についても主役をぼやかされる。つまり、ゼル伝の世界における“主たる性”が男女のいずれか、判別できないのだ。


 ここでの謎は二つある。なぜ、ゼル伝の世界では曖昧性の男女観とみなされているのか。そしてなぜ、シリーズを通して主たる性を曖昧にし続けてきたのか。これまでは確信に至る見解ができなかった。しかし、最新作に謎を解くヒントがあった。それが何か気になるかもしれないが、謎を探る上ではまず、曖昧性への理解も必要である。そこで、人物描写に秀でているムジュラが大いに参考となるのだ。


 最期の見解……ムジュラにおけるジェンダー。


 ジェンダーとは、肉体的ではなく社会的・文化的に形成される性差を意味する。簡単にいえば“男らしさ”と“女らしさ”についてあれやこれやと考えることである。例えば、男の子は“戦いごっこ”を好むが、女の子は“ままごと”を好むのはなぜか、というのもジェンダーで分析できたりする。

 ただし、一口にジェンダーといっても論点は様々である。外見、行動様式、力仕事は男がすべきといった性役割、心理的特徴など多岐にわたる。そのため、私がゲームの中からピックアップした特徴的ジェンダーを見て、曖昧性の謎へ迫っていくことにしよう。


 一つ目……“容姿”に着目せよ!


 “すがた”や“かたち”は、男女それぞれの“らしさ”と視覚的に結びつく。例えば、テレビ番組などで男性が女装しているのを本物の女性に紛れさせた中から見つける企画がある。これは、我々の視覚に刷り込まれたジェンダーを逆手に取った面白いトリックだ。


 ムジュラでは、キャラクターの容姿における男女らしさを見えづらくしたり、壊したりする方法で曖昧性が形作られる。ゼル伝の暗黙知として、イケメンキャラクターの登場が少ないことが挙げられる。これは、リンクの存在感を際立たせるためだと思われているが、ムジュラに関しては少し事情が異なる。何と、“カーフェイ”というイケメンが、リンクを食ってしまうほどのイケメンオーラを放っているのだ。

 けれどもカーフェイは、なかなかの憂き目に会っている。まず、結婚を間近に控えているのだが、大切な婚礼道具“太陽のお面”をスリに盗まれる。彼の日記を読むとわかるが、浮かれていた隙を狙われたらしい。このことを結婚相手の“アンジュ”に言えず、彼は自力でお面を取り返すために人知れず姿を消す。また、仮面を被った小鬼“スタルキッド”には子供の姿へ変えられてしまっている。彼は素顔を隠すのに“キータンのお面”という、子供っぽい面を被っている。他にも、スリの情報を得るため、おじさんとのよしみでマニ屋の裏に潜伏していることも注目したい。要するに、カーフェイのイケメン性からもたらされる男らしさは、色々と非難すべき点から大いに引き剥がされているのだ。ちなみにカーフェイがイケメンであることを前提のように話を進めたが、面倒なイベントをこなさなければ彼の素顔は決して見られない。しかも、イケメンとはいえ見られるのは子供の姿の彼だけである。エンディングで元の大人の姿に戻ってはいる(彼のものと思しき目線に注目)ようだが……その御顔は、生憎拝めない。


 女性らしさも削がれている。その代表例が、“大妖精”である。妖精なので正確には人とは異なるが、大妖精はセクシーな女性の姿をしている。例えるなら、けばけばしいバニーガールのような感じである。なぜか、仕草や声などもやたら色っぽい。本作で大妖精は、スタルキッドによって体をバラバラにされてしまう。その分裂した“はぐれ妖精”が、よほどセクシーとは無縁な姿なのである。まるで、頭の大きなウサギのぬいぐるみのようである。どうして大妖精はそのような扱いを受けてしまったのだろうか。

 実は大妖精は、前作の時オカにも登場している。時オカではムジュラのようにバラバラにされることはない。すなわち、セクシーな女性の姿が前面に出過ぎていたのだ。繊細な表現をするゼル伝の世界に、大妖精のあの姿は似つかわしくない。事実、時オカの時点でプレイヤーから「過激だ」との声もあったようだ。要するに、大妖精のセクシー性からもたらされる女らしさは、作品を越えて悲運にさらされることで弱められたのではないか。ちなみにムジュラの大妖精は、はぐれ妖精を大妖精の泉に連れていくと元の姿に戻せる。クロックタウンにいる大妖精はそれが比較的簡単なのだが、他四人の場合はダンジョンの中なのでそう易々とはいかない。面倒な仕事をしないと大妖精の姿は見られないようになっているわけだ。セクシーの言葉を私は何となく多用したが、これにも意味がある。クロックタウンの大妖精を元の姿に戻すと貰える“大妖精のお面”を被り、ある人物に話しかけるとセクシーについてお叱りを受けるからである。ゲーム中でも「セクシーは罪なこと」の認識が窺えることだろう。次作の風タクでも大妖精は引き続き登場するが、その時の姿は四本腕の観音像のようになっており肌の露出も減っている。さらに、妖精の女王の見た目に至っては幼い少女そのもので、セクシーとは程遠い。


 ムジュラでは曖昧性のために、ある意味強引な表現を使っているのだ。さらに一歩踏み込むべきは、男女らしさを容姿のような“自然発生したもの”で決めつけがちな観点だ。天賦の要素に偏重すれば差別意識を強めて、好ましくない事態を招くのは説明するまでもないだろう。しかし、現実には未だそうした差別が根強く残っている。その是正手段は多々ある。ムジュラで示唆する方法はシュールでありながら、妙にリアルを踏まえているように感じられ、コワイものがある。


 二つ目……“二重基準”に着目せよ!


 二重基準とは、ジェンダーを考える際にしばしば用いられる概念である。同じ行為をしても、その人が男性であるか女性であるかによって評価の基準が異なる問題だ。例えば、男性は少々乱暴であってもそれほど咎められないが、女性は少しも許されないといった事態である。


 二重基準の問題にムジュラは独自の切り口でユーモアを添えている。その例としてまず紹介するのは、アンジュである。アンジュは、“ナベかま亭”という宿屋の“べっぴんさん”な看板娘である。なのだが、そそっかしい性格で宿泊客を間違えたり、時間にもルーズでリンクと会う約束の時刻に遅れたりする。これらはイベントの進行に多少絡む要素であり、ゲーム的に必要な情報だ。一方で、不要な情報とも思えるアンジュの欠点にこそ、曖昧性の秘密が隠されている。その欠点とは、極度の料理下手ということだ。アンジュの実のおばあさんでさえボケた振りをしてまで食べるのを拒むほどだから、よっぽどなのだろう。ここで前提とされているのは「女性は料理が出来て当たり前」という、いわばジェンダーで上げられたハードルである。「料理が上手い=女性らしい」イメージに直結する基準を崩し、また、既存のジェンダー観への皮肉の意味も込め、敢えて料理下手の女性像に仕立てたと見られる。そうすることでべっぴんさんのアンジュの女性らしさが強調されないため、曖昧性が醸し出されるのだ。ちなみにナベかま亭という名は、かつて食堂だったことに由来する。それはまるで先代と対比させてアンジュの料理の腕を当てつけてもいるようだ。また、アンジュのおばあさんはアンジュのことを息子の“トータス”(アンジュの父親)と勘違いした振りをする。これは、孫に言いづらいことを息子には言えるからだと思われる。まずいとはいえ、せっかく孫が作ってくれた料理を無下に拒否するのはきっと心苦しいのであろう。そして、女性のアンジュを男性のトータスと置き換えている点を見落としてはいけない。アンジュのおばあさんの気持ちを想像してみよう。アンジュが作った料理を、あたかもトータスが作ったかのように錯覚してはいないだろうか。ここで前提とされているのは「男性は料理が出来なくてもいい、料理するだけでも偉い」という、ジェンダーで下げられたハードルである。すなわち、アンジュを料理が出来ない男性化することで料理の腕の悪さを責め過ぎないようになっているのだ。さらに、アンジュのおばあさんが食事を拒否する言い訳にも意味がある。食べていないものを食べたと言い張って食べるのを拒んでいる。「まずい」と言って断っているわけではないのだ。アンジュの料理下手がわかるのは、おばあさんの本心を綴った日記からである。要するに、料理の味については(本当はまずいと知っているが)“表面上”わかっていない。これは、「まずい料理=料理ができない=男性らしい」のイメージに“つなげない”工夫とも受け取れる。味をあからさまに伝えると悪い方に男性らしさが強調されるため、はぐらかしているのだ。アンジュの料理に内包された二重基準が、実は男女の両性面から巧みに風刺されていることに注目したい。掻い摘んでしまえば、「料理を男か女の違いで評価してはいけない」とのメッセージなのだろうが……。その難解かつ曖昧さこそ、ゼル伝らしいと言えばゼル伝らしい。


 次に紹介するのは、“チンクル”である。チンクルは、ムジュラで初登場となったキャラクターだ。緑色の全身タイツと赤いパンツに身を包み、自分を妖精の生まれ変わりだと信じてやまない男性である。35歳、独身という、細かい設定まで加えられている。チンクルの父親も彼の行動に頭を悩ますほど、悩ましいキャラクターなのだ。そんなチンクルの存在は、実はリンクと似通っている点が多い。例えば緑色の服を着ていること、妖精、自己同一性の錯誤である。自己同一性、すなわちアイデンティティーの錯誤とは、チンクルの場合、自分は人間なのに妖精だと思い込んでいることである。リンクの場合、話は時オカに遡るが、自分は子供の姿のまま成長が止まる“コキリ族”だと思い込んでいたことである。(本当はハイリア人。)ちなみに、これら一連の事柄は『ピーター○ン』のパロディーなのは言うまでもないだろう。チンクルという名前も、妖精“ティンカー・○ル”に由来したものだと思われる。

 チンクルのどこに二重基準の問題があるかというと、“メルヘン性”である。おとぎ話に出てくるようなことを中年男性が実際にやってしまうのはどうだろうかと、皮肉っているのだ。単に“非現実的なこと”をやっているのを皮肉ったわけではない。仮に、チンクルと同じことを幼気な少女がやったとすれば評価は変わるはずである。「自分は“○り○星”からやってきた」と謳うアイドルがいたほどだから、それなりの強調効果もあるのかもしれない。それはさておき、メルヘン性の評価は男女の違いで変わる面があるのだ。特に、女の子はメルヘンでも許されるが、いい歳の男性がそうなのはおかしいとする“嫌い”を前提にしていると推察がつく。ちなみにチンクルは“へんてこなおまじない”をリンクに披露し、それを「マネするなよ」と語気を荒くする。おそらくこれはリンクに言っているようで、プレイヤーへの忠告でもあるのだろう。実際にマネをすれば、白い眼で見られるのは必定だから……。

 チンクルを主役にしたスピンオフ作品が制作されるほどだが、彼を毛嫌いする人も少なからずいる。その理由は今一はっきりしていない。「格好悪いから」、「キャラが強烈だから」などと言われているが、ゼル伝にはそういうキャラクターが他にも登場するので核心に迫る理由ではない。なぜか、一部海外での評判がすこぶる悪かった(スピンオフ作品が発売されなかった、発売しても大して売れなかった)のを鑑みると、日本の思想とマッチしていない部分があったのではないだろうか。私が思うその部分とは、前段で取り上げた二重基準の問題である。あくまで推測だが、チンクルを嫌う人達はメルヘン性を男らしさと相対に捉える思想がないものと思われる。男性らしさへの偏見を中和すべき薬(メルヘン性)が副作用を起こしているのだ。そのため、おじさんが意味不明の“イタイ”ことをやっているイメージしか伝わらない。あるいは、おじさんらしさを一層悪い方に強調させ(変なおじさんといった印象が強まり)、嫌う原因となったのかもしれない。要するに、中年男性と乙女チックなメルヘン性を二元的に対比させて曖昧性を醸し出す感性は、万国万人共通ではないと考えられるのだ。

 ムジュラの後のゼル伝シリーズを見ると、チンクルの栄枯盛衰が如実に表れている。彼は風タクでリンクのサポートキャラの座を掴み、その存在感を否応なく高めた。彼の派生キャラまで登場したほどだから、本作品でチンクルは絶頂期を迎えたといっても過言ではない。だが、リアルな顔つきは柔和そうなキツネのように変わり、メルヘンキャラではなくなっていることに注目したい。トワプリでは、チンクルっぽい格好をした人物が登場するにとどまる。その人物は一見好青年そうで実は意地が悪いのである。彼は開発者いわくメルヘンならぬ“リアルチンクル”だそうだ。この時期になると、ムジュラでのチンクル像とはだいぶ様変わりしている。スカイウォードソードでは、とある人物の部屋に人形として置かれている。なぜ、とある人物と所縁があるのか意味深なのだが……。もはや生きた人ではなく、隠れキャラ扱いに成り下がってしまったのだ。姿や性格を変えて、次第に存在感すら喪失しつつあるチンクルに複雑な哀愁を感じるのは私だけではないはず。その理由が曖昧なのも、余計もの悲しいのである。


 三つ目……“仕事”に着目せよ!


 「この仕事は男性らしい、あの仕事は女性らしい」というイメージは、ジェンダーの最たるものである。例えば、旅客機で機内サービスにあたる乗務員のことを今はキャビン・アテンダントやフライト・アテンダントというが、かつては女性詞であるスチュワーデスと呼んでいた。他にも、看護師を看護婦と呼んでいたように、仕事の面から性差をつける時代があったのである。しかし、名称を変えただけでその風潮を払拭できたとはいえない。本気で性差のない職業観を望むのであれば、越えなければならないハードルは依然多い。


 ムジュラでは、ジェンダーが職業的にも曖昧にされている傾向がある。まず、イケメンのカーフェイは職業不詳である。町長の息子なのだが、それ以上のことはよくわからない。チンクルは風船で体を宙に浮かせて地図を描き、それを売っている。一応の稼ぎはあるようだが、まさに“地に足の着いていない”状態である。

 また、仕事に従事する人々や、その仕事に対する姿勢にも曖昧性が滲み出ている。例えば、クロックタウンの平和と住民の安全を守る町兵は、警察官のような仕事だ。しかし、全員の顔が兜に隠れている。隊長を除くと皆同じ姿をしており、誰が誰だかわからない。個性の強いキャラが多いゼル伝では逆に珍しいほど“普通の人”で終始している。とある場所には、肉眼では見えないほど影の薄い“シロウくん”という兵士が、兵士らしからぬへばった状態で助けを求めている。彼の場合、個性はおろか、そこにいるのかどうかさえはっきりしない。

 “亡霊研究家”は、死の雰囲気が随所に渦巻く“イカーナ地方”で亡霊研究の仕事をしている。彼は研究にのめり込み過ぎて自らが亡霊の呪いにかかってしまった。体の半分が包帯男のようなアンデッドモンスター“ギブド”と化しているのである。これは、「ミイラ取りがミイラになる」のをそのまま表現したように見える。また「仕事のし過ぎは体に毒」とのメッセージを込めているとも考えられる。曖昧性を求める見方は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の格言とも密接につながっているのだ。ちなみに彼の娘の“パメラ”は父親と対照的で亡霊が苦手にもかかわらず、父を元の姿に戻そうと健気に孤軍奮闘していた。ただ、パメラが本当に恐れていたのは亡霊とは限らない。亡霊以外の何かにとりつかれた父が、父でなくなってしまうことだったのかもしれない。この亡霊研究家関連のイベントはホラーとして結構コワイものがある。一方、仕事よりも大切なものに目を向けてほしいとの願いが伝わる、胸を打つシーンの宝庫でもあるのだ。

 “ポストマン”は、名前の通り郵便配達員の仕事をしている。(ちなみにこの時はまだ郵便配達員=公務員。)お堅い仕事にピッタリの非常に真面目な性格で、仕事はスケジュール通りにこなす。勤務後にも、仕事のイメージトレーニングをするほどである。そんな彼だが、実は月の落下から避難したくてたまらない。しかし、無情にも次の仕事のスケジュールが入っているのでおめおめと逃げられない。リンクが何もしなければ彼は逃げない道を選ぶ。ただ、あるアイテムを直接渡すと、勤務時間外なのに彼は仕事に向かう。その結果、町長夫人であり上司でもある“アロマ”は、彼に逃げるようにと命令する。アロマは人情から強い口調で言っているのだが、最期まで“職務上の”命令として従うというのが何ともポストマンらしい。仕事の束縛から解放されて自由を得たポストマンは、その気持ちを全身で表現する。仕事中のガチガチした走り方と異なり、軽やかな動きになっている点に注目したい。仕事に忠実でいるか、仕事を捨てて自分の身の安全を確保するか。どちらが男らしいのかという見解は不毛だ。両方の結末を用意してあることが曖昧性のメッセージである。

 立派な体格をした若大工達は一見して男らしい。現実にもガテン系=男らしいイメージがあるだろう。しかし、彼らはカーニバル用の物見やぐらを作り終える前に、月の落下をおそれて逃げ出してしまう。仕事を途中でうっちゃらかして、あっさり逃げるのである。意外にも、体に似合わぬ小心者なのだ。この若大工達は時オカにも大工として登場した。その時は、仕草や口調からして“オカマ”キャラクターだった。だがなぜか、美女ばかりの民“ゲルド族”に現を抜かして捕虜にされる。オカマの人達が美女に夢中になるのは何か不自然な感じがしないだろうか。重要なのは、彼らが男として女を見ているのではないこと。ゲルド族は戦闘力にも長けており、“強さ”がバロメーターである。大工達は、ゲルドの民の女性らしい魅力ではなく、その強さに憧れていたものと思われる。つまり、女性目線でゲルド族の男らしい強さに心を奪われていたのだ。一方ムジュラでは、ゲルド族が“女海賊”となって登場する。全員が美女であることに変わりはないが、海賊らしい凶暴性は強くなっている。なぜなら、ゾーラ族の“ミカウ”という青年がある事情で海賊の砦に侵入するが、返り討ちにあって瀕死状態となるからだ。リンクでさえ海賊の砦内部で見つかればすぐ外に放り出されてしまう。(ちなみに時オカのゲルドの砦では見つかっても牢屋に入れられるだけ。大工達を救出すれば強さを認められ、自由に歩けるようになる。)

 屈強そうな“漁師”は、男として女海賊に性的関心を抱く。だが、その凶暴性に恐れをなしており、近付くことができない。漁具である“フックショット”は女海賊に奪われ、温暖化の影響なども加わり仕事もままならない。しまいには“タツノオトシゴ”を見世物に、楽をして儲けようと企んでいる。すなわち、男らしい仕事の代表格である漁師の男性面が、女海賊の存在によりアイデンティティーを崩されているのである。直接的表現ではないが、ここでは「男よりも女の方が強い」ため“漁師=男らしい”印象が弱められているのだ。ちなみに漁師は後になって新たな仕事を始める。その遊戯的商売は、ジェンダーに中立的な(男女のイメージの差がない)仕事といえる。


 四つ目……“名前”に着目せよ!


 名前にジェンダーが出るのは、誰もが納得いただけることだと思う。例えば、“太郎”といえば男性名だし、“花子”といえば女性名なのは一般的である。ゼルダの名前にしても、濁音が多いために何となく男性名だと思ってしまうところがあるのではなかろうか。


 ゼル伝では、何かしらのイメージが加味されてキャラを名付けているパターンが多い。例えば、リンクの盾を食ってしまうモンスター、“ライクライク”は「たで食う虫も好き好き」に由来している。蓼を盾に、好き好き⇒like like⇒ライクライクと変換されるわけである。四姉妹の幽霊モンスター、“メグ”、“ジョオ”、“ベス”、“エイミー”は、オルコットの小説『若草物語』に登場する四姉妹の名前と同じである。音楽家兄弟の幽霊の“シャープ”と“フラット”。これは、指定された音を半音上げる・下げるという意味である。墓守といいつつ、本当は墓荒しをやっている“ダンペイ”は、隻眼でスキンヘッドの老人だ。彼の姿は、かの有名なボクシングアニメ『あしたの○ョー』に出てくるセコンド“丹○段平”とそっくりである。ドッグレースを主催する“ママム・ヤン”は、インスタントラーメンのCMで顔を売った“ヤン夫人”(通称マダム・ヤン)をもじったものであろう。


 また、一つのキーワードを基にそれと関連する言葉が名前にされるパターンも使われている。例えば、クロックタウンの町長“ドトール”に関係する人物は“コーヒー”から連想される言葉で命名されている。息子のカーフェイ(⇒カフェ)をはじめ、夫人のアロマ(⇒アロマ=香り⇒コーヒーの香り)、カーニバルの中止を訴える町兵の隊長“バイセン”(⇒焙煎)、カーニバルの実行を訴える大工の親方“ムトー”(⇒無糖)、そしてドトールは、実在するコーヒーショップの名前に由来する。関連性を見つけるだけでも楽しいのだが、なぜゆえに、コーヒーなのだろうか。ドトールは、バイセンとムトーとの板挟みになり、会議の中で難しい決断を迫られている。住民達の安全を最優先にするならカーニバルの中止は当然であるが、かといって伝統や仕来りを蔑ろにすることもできない。ドトールは優柔不断な性格であり、自らの考えは曖昧にする。そのため、会議は中止派と実行派双方の意見のぶつけ合いとなり収拾がつかない。彼らに必要なものとは何か。それは“いやし”である。コーヒーは、ほっと一息つく時に飲む、いやしのシンボルともいえる。コーヒー関連の名を付けたのは、彼らにいやしを施すべきというヒントであると私は思うのだ。突然だが、“日本における成人男性”の三大嗜好品をご存知だろうか。それらは、酒、タバコ、コーヒーとされている。未成年者に対し法律で規制されている酒とタバコは、その名前すらゲームには出てこない。これは多分、子供へ悪影響を及ぼさないための配慮であろう。一応、コーヒーに年齢制限などはない。だが、少なからず“大人の男性の飲み物”のイメージがあるコーヒーの名前でさえ明示を避けている点は、徹底している。ちなみにドトール達をいやすために用いるのは、カーフェイとアンジュのイベントを達成した時に貰える“めおとのお面”だ。ドトールは、意見の対立を“夫婦の誕生”というおめでたいニュースで解消するのである。どうにもそれが、息子夫婦だとわかっていない様子が実に心許ないのであるが……。ドトールが用いる方便は、事を落ち着かせる点では評価できる。ただしそれは、本当の問題解決ではなく“一時しのぎ”に過ぎない。「いやしには依存性がある」と言う人がいる。いやしに頼り過ぎるのも、時に毒になりうることを忘れてはいけない。

 色々と酷い目に遭うカーフェイにいやしが必要なのは妥当として、アロマはどうだろう。行方不明のカーフェイ探しに躍起になっているのは、母のアロマでもある。探偵に捜索を依頼し、カーフェイのお面を配って情報を集めているのは、彼女に他ならない。本当は、夫の協力を仰ぎたいだろうが、会議に頭を悩ますドトールはそれどころではない。つまりアロマは、結婚を控えた息子が失踪するというダブルのショックを一人で抱え込んでいる。自分の子供が結婚するとなれば、特に母は息子、父は娘に“嬉しくも寂しい複雑な気持ち”を抱いてしまうことがあるだろう。ここで問題とされるのは“母性”である。アロマは、強い母性を持っているがゆえに、いやしを欲していると考えられる。その根拠は、彼女が会員制のミルクバー“ラッテ”の常連であるという情報だ。ラッテとは、“カフェラッテ”(カフェオレのこと。ラッテは「牛乳で割る」の意。)に由来する。“ミルク”は、母性と結びつくと同時に“子供”も連想される。ラッテにはカーニバルでの公演が中止になってやけ酒ならぬ、やけミルクを呷る“ゴーマン(⇒傲慢)座長”がいる。カウンターを叩き、なりふり構わず泣きわめいてしまうゴーマン座長の姿は、まるで赤ん坊のようだ。「ミルクなんかで酔えるか!」と息巻いてもいるが、その顔は赤く、明らかに酔っている。ミルクで心をいやすつもりが、逆に飲まれているのだ。彼の場合は、いやしの使い方を間違っている、悪い例である。アロマは、最期の夜に一人でラッテへやってくる。死を間近にし、ドトールと一緒に過ごさない心境にも注目である。リンクがアロマにそのまま話しかけても応じてくれないが、カーフェイのお面を被ると話を聞いてくれる。それだけカーフェイのことで頭がいっぱいなのだ。そして、カーフェイがアロマに宛てた“母への速達”を渡すと、お礼のアイテム“シャトーロマーニ”を貰える。そのアイテムは常人にはなかなか手が出せない高級ミルクであり、特別な母性を連想させる。それをリンクに渡したということは、断ちがたい母性にけじめがついたのだと解釈したい。手紙の内容まではわからないのだが、おそらく「もう心配はいらない」といった主旨の内容が書かれていることを私は期待する。きちんと子離れする決心こそが、アロマにとっての“正しきいやし”なのだ。


 ムジュラではさらに、ジェンダーを意識していると思われる命名がある。まず、妖精の姉弟“チャット”と“トレイル”である。姉のチャットは本作でリンクのパートナーだ。ただ、少々気が強く、リンクにも基本は強い口調で話す。チャット=chat=“おしゃべり”ということなのだろう。普段の体色は黄色であるが、リンクの剣がスリに狙われると真っ赤になり、体を張って阻止してくれたりする。これは、物語の序盤で離ればなれになった弟とリンクを重ねているのかもしれない。頼もしさの中に、“頼りない弟思い”な一面が垣間見える。弟のトレイルは姉と対照的で、気が弱い。トレイルとは、trailの英単語を指すものだと思われる。trailを辞書で調べると「(人など)の後をだらだらついていく」など、割とネガティブな意味が出てくるはず。それは、ゲームの中でのトレイルの消極的な行動と共通する。体色は紫色である。青と赤を混ぜ合わせた色だ。青色と赤色に加えチャットの黄色。まるで“信号機”のように思えないだろうか。チャットはいわばリンクに注意を促してくれる“黄色信号的性格”である。青色は安全、赤色は危険のイメージだとすればトレイルは“青でも赤でもない信号的性格”だ。リンクにとってスタルキッドと行動を共にするトレイルは味方(青)か敵(赤)か……。どっちつかずの態度は、色の面からも窺えるのである。


 次は、カーニバルの興行にやってきたゴーマン一座の“アオ”と“アカ”。名前の通り、各々青色と赤色の服を着ているおじさん二人だ。クロックタウンのど真ん中で、二人一緒にジャグリングの練習をしている彼らは、オカマ口調で際どい内容の話をする。青=男、赤=女と考えれば、二人セットでオカマキャラクターを表現しているのである。何気ないジャグリングの動作も、アイデンティティーの揺らぎ(自分は男か女か)のように思えたりする。色でジェンダーを示すことに釈然としない方は、トイレのマークを思い浮かべてほしい。男性用は青色でスーツを着た人のシルエット、女性用は赤色でスカートをはいた人のシルエットになっていることが多いはずである。これを仮に、シルエットを変えずに色だけ逆にしたら混乱してしまうだろう。(以前テレビ番組でそんな実験を行っていた。)青が男らしい色、赤が女らしい色というジェンダーは、知らぬ間に身についているのだ。ちなみに、アオとアカが宿泊しているナベかま亭(←意図的?かもしれない)の客室には、さらに際どいネタがある。その部屋のベッドの上にあるモノから、なぜか某アイテムが入手できるのである。衛生状態の悪さのブラックユーモアのようだが、それがアオとアカどちらかのモノとも思えなくもない。これ以上の詳しい説明は割愛するが、私には、アオかアカが“男らしさを捨てた”ことをジョークにしたものに見えるのである。


 次に紹介するのは、牧場でニワトリの飼育係をしている青年“ナデクロさん”。ナデクロとは一体何かといえば、「シ」を足して逆さまにすればわかる。シナデクロ⇒ロクデナシ。すなわち、“ろくでなし”なのである。そんな名前を付けられた理由は、彼の無気力な性格によるものだと思われる。ナデクロは、月の落下を前にしてニワトリの雛たちを一人前に育てられなかったことが心残りである。ただ彼は木の下でうなだれているだけで、のらりくらりとするばかり。それを象徴するかのごとく、彼の姿はモヒカン頭のパンクスである。モヒカン頭は一見ニワトリの鶏冠とさかのように見える。しかし、本物のニワトリの鶏冠が赤いのに対し、彼のモヒカンは黄色だ。要するに、彼も“ひよっこ”の一人なのである。未熟者を「くちばしが黄色い」とはいうが、ムジュラでは「鶏冠モヒカンが黄色い」ことで表現しているのだ。見た目はパンク(反社会的・反通念的)でも、本質はパンクにもなりきれない(無気力かつ未熟で何もできない)“曖昧な性質”が、男性の名に付与されているわけである。ここに込められたメッセージは、ジェンダーの観点からするとかなり意味深だ。現状のジェンダーにどこか不満を持ちながらも、男性自らは行動を起こさない状態に結びつくからである。

 女性についてはどうだろうか。それは、牧場を営むクリミア(Crimea)とロマニー(Romany)の名前から推察できる。実はいずれも“マイノリティー(少数派・少数民族)”や“独立”、“自治”などが関係する。特にRomanyは、蔑称表現を避けるために用いられる言葉だ。なぜ、こんな“きな臭い”名が付けられたのか。社会の中心地クロックタウンから地理的に離れた場所にあり、俗世間とは交流の機会が少ない牧場。そのイメージと、二人の当主の名前から導かれる言葉のイメージは合致する。しかし、ナデクロと異なり、クリミアとロマニーは逆境にめげないポジティブな性格である。そもそも、若い姉妹が経営者となっているのは、彼女達の父が亡くなっているためだ。つまり、女性の名において、通俗とは距離を置きつつ、独自の生き方を懸命に歩む性質が付与されているわけである。私にはこれが、“社会との関わり合い”における女性の立場を象徴しているように思える。例えば「男は外で働き、女は内で家事をする」などといった傾向は女性の社会進出を阻む悪しきジェンダーの一つだ。そうした良くない状況にある女性達の声を、きな臭い響きを持つ言葉によって代弁しているのではないだろうか。ナデクロ、クリミア、ロマニーは、ジェンダーの危うさに一石を投ずる思いから導き出された名前であると、私は推理する。ただし、二元論的に男女を捉えつつも「男性は女性にとって敵だ」というように、明確な対立構造に仕立てないのは曖昧性の妙である。


 五つ目……“トリックスター”に着目せよ!


 トリックスターとは、“いたずら者”を意味する。世界各地の神話や民間伝承などに登場し、いたずらや策略で社会の道徳や秩序を乱す一方、新しい状況を生み出す道化的存在だ。善と悪、秩序と混沌などの二元論的世界の間を自由に行き来して硬直した状況に流動性を与え、活性化するのがトリックスターの特性でもある。

 ムジュラの仮面を被った小鬼、スタルキッドは、本作でまさにトリックスターといえる。ちなみにスタルキッドの性別は“オイラ”と自称するため男の子のようだが、詳細は不明である。もっとも正確には、月の落下をはじめとする大半の事件の元凶は、あまりの邪悪さゆえに自我が芽生えた“ムジュラの仮面”である。ちなみにゼル伝でラストに戦うボスは、“ガノン”(ガノンドロフ)という男であることが多い。本作のラスボスはムジュラの仮面(ムジュラの化身、ムジュラの魔人)なのだが、この魔物は男女どちらとも見分けがつかない。性別がないようにも、男女をミックスさせたようにも思えるのだ。

月の落下を止めるシーンでムジュラの仮面は「この者の役目は終わった」と言ってスタルキッドから離れる。“この者”とは、いたずら者のスタルキッドのことである。ムジュラの仮面はスタルキッドの“いたずらっぽい性質”を利用し、操っていたのだ。“役目”とは、いたずらによって新しい状況を生み出すことだと思われる。スタルキッドは、実は寂しがり屋で“友達”を欲しているために色々ないたずらをする。好きな人に敢えてちょっかいを出して気を引こうとする感覚である。ゆえに月を落下させる“最恐のいたずら”が阻止されればスタルキッドは用済みになるのである。よって私は、スタルキッドにさほど否定的な見解はしない。確かに、元を辿って行けば“お面屋”からムジュラの仮面を盗んだスタルキッドも悪い。だが、そのムジュラの仮面は太古の民族が呪いの儀式に使っていた禍々しい呪物であり、本来は厳重に封印すべきもののはず。なぜそれを、お面屋が持っていたのだろうか……。

 トリックスターの意義は、なかなか捉え難い。道徳、伝統、観念、秩序などの現状維持に甘んずるか。それとも、現状を打破した上で、新たな段階へ進もうとするか。これも、一概にどちらが正しいという見解はできない。ただ、一方へ偏り過ぎるのは良くない事態を招きかねない。つまり、求められるのは“絶妙なバランス感覚”なのである。しかし、ムジュラの中でトリックスターが明確に登場したのは、現実の閉塞感をどうにかしたいという気持ちの表れだったのかもしれない。ゲームは人が創るものである。遊ぶための目的だけではなく、人の心や現実を映じる鏡でもあるのだ。


 え……だから、ジェンダーや曖昧性はどうなったのかって?


 男と女を二元論的世界と考えれば、社会的・文化的に形成されるジェンダーは硬直した状況といえる。スタルキッドがトリックスターとしてジェンダーを乱し、活性化させた面もある。その結果、新たな状況の曖昧性が生み出された……とは言い切れないのだ。これまで見てきた特徴的ジェンダーや曖昧性は、全部が全部スタルキッドのいたずらによるものではない。さらに、スタルキッドの行動だけをとっても、そもそも曖昧性を貫くゼル伝シリーズ全体の説明にはならない。主たる性が曖昧にされ続けている理由は別にあるのだ。また、曖昧性の男女観が意味も無く自然発生的にできたとは考えにくい。この謎を探る手掛かりは最新作『スカイウォードソード』にある。本作は“マスターソード”という退魔の剣の誕生物語である。以前の作品にも出てくるマスターソードを軸にすると、時系列で最も古い時代に当たる。それゆえ、人々の思想を考察する意味でも基になる作品なのだ。

 肝心の曖昧性の根拠とは、“女神”である。詳しいストーリーの説明は省くが、本作での主役は女神と思えるほど、その存在感は大きい。女神の実物は訳あってお目にかかれないのだが、女神の詩、女神像、女神の壁画、女神の剣など、至るところに女神が登場する。さらに女神は、とある人間の女性の姿をして現れる。つまり、女性を神聖視するイメージが本作で顕著になったのだ。過去の作品を見ると、神と人間、また、男性と女性の関係性は曖昧としていた。時オカには“フロル”、“ディン”、“ネール”という三女神が登場する。そして、ハイリア人の耳が長いのは「神の声を聴くため」という意味付けがなされている。ムジュラでは、スタルキッドが月の落下を早めるシーンに曖昧性がある。その時チャットは「あ~神様、時の女神様、ダレでもイイからお願い時間を止めて!!」と助けを請う。神を先に、女神を後に並列しているのだ。男性神か性別を超越したような存在の主たる神がいて、その副次的な存在の女神がいる思想を持つのがわかる。時オカから百年後の世界であるトワプリは、地名に三女神の名が残る。それよりさらに時を経たと思われる風タクの世界は、“神の塔”などが出てくる。その神が女神なのかどうかはわからない。いずれにせよ、これまでは神に関する思想を統一できる要素はなかったのだ。むしろ、私の解釈で重要なのは、人間の女性を神格化しても後のゼル伝の世界は“女性中心社会”にはなっていないことだ。現実の歴史はどうかというと、キリスト、ムハンマド、釈迦など、男性を神格化していることが多い。逆に、こうした男性の神格化が、男性中心社会形成の一因になったとも考えられるわけである。崇拝の対象と同じ性別の男性も尊ぶべきではないか、といった論理だ。しかし、ゼル伝の場合はそうではない。ゼル伝の世界における神は女神であり、人間女性をはっきりと神格化したことから、女尊男卑思想が形成されて然るべきである。にもかかわらず、主たる性別があやふやな社会となったのだ。すなわち、主たる神が女神であることが何らかの理由で後世に伝わらず、神のイメージが定まらなかった。そこから、神だけでなく人間についても曖昧性の男女観が生まれたのではないだろうか。さらにこれは、ゲームのタイトルが“ゼルダの伝説”と呼ばれる由縁のようにも思える。ある女性が神格化された事実を“不確かな伝説”に、まさに“神秘”にしたからこそ曖昧性の世ができたというわけである。


 では仮に(女神と人間女性の合一の)史実が、ありのまま伝承されていればどうなっていたか。男女によって優劣をつけたり、性差別をしたり、思想の違いから反発が起きたりなど、好ましくない状況を生じさせる“もと”になりかねないのである。伝説にあらず、正確に伝えることが必ずしも良い結果をもたらすとは限らないのだ。

 また、悪いことに人は神をめぐって戦争をすることもある。ゼル伝でもしばしば神の力がプロットに取り上げられている。神(神々)の力である“トライフォース”をめぐる争いや、女神の魂を我がものにして世界を支配しようと目論む者の出現などにリンクやゼルダ達が立ち向かうといった筋書きだ。神や神の力を狙う脅威は、いつどこで現れるかわからない。戦いによって決着をつけるだけでなく、なるべく争いを避けるために未然の措置を施したことも考えられる。すなわち、魔手を近付けさせない知恵の一つとして、主たる性が曖昧にされ続けてきたのではなかろうか。私の解釈で重要なのはそれが異世界のタルミナでも、実の世界ハイラルでは悠久の時を経ても揺るがぬほどの叡知であることだ。もちろん、(ムジュラで特に示される)既存のジェンダーや男尊女卑思想に諧謔かいぎゃく的な姿勢と、シリーズを通して曖昧性が続く裏側に男女平等社会の実現を目指す意図があるのは想像にたやすい。だが、実現が終わりではない。“継続は力なり”と言われるように、続けることに意味があるのだ。そして、それ以上に“平和”を希求した切なるメッセージが込められていることを認識する必要がある。なぜなら、その願いは、ゲームの中であろうと現実であろうと、いつの世も変わらずにあり続けなければならないためだ。私はここに、曖昧性の神髄を感じ取る。互いを尊重し合い、協力し合える世界を創ることへの強い意志を……。


 新しい見解……これを読んで何を想うかはアナタ次第。伝説の伝導はつづく。







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