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俊二の場合

 翠は精力的で、元気で我儘だった。

 言葉を求めた彼女に僕は、子守唄を歌うように何度も好きだといった。

 妻がいる自分にとって、唯の遊びのはずだった翠への思いは、いつの間にか遊びか本気かわからなくなっていた。

「100万回すきって言って」

 初めての夜そう言った彼女は確かに可愛かった。

 私はその日のうちに子守唄の代償として一つだけ約束をした。

 翠からは連絡をしない。

 妻のことは最初から翠は知っていた。翠が二番目であることも。

 翠は辛抱強くこの約束を守った。

 その日までは。

 その日、朝から会議とインターンの面倒に追われ、初めて自分の携帯電話を家に忘れたことに気がついたのは夕方だった。

―携帯、家に忘れています―

 社員用携帯電話にメールが届いて、私は驚いた。

 何故この時間帯なのか。浮気がばれた以外の理由は見つからなかった。

―解った―

 とだけ返しておいた。

 急いで仕事を終わらせ、電車に乗りながら、仕事中には無かった焦燥感が私を襲う。

 今までやった二度の浮気は二度ともばれていた。何故またやってしまったのだろうか。今回は大丈夫だと思ったのだろうか。

 今度も許してくれるとどこかで思ったのだかもしれない。

 今度やったら離婚です。

 彼女はそう言って前回許してくれた。

 次の日、会社で必要だった保険証を箪笥から取ろうとして、緑に縁取られた紙には、静子の名だけが書かれていた。前回の浮気をここにきてようやく反省した。

 外の景色は流れる。

 タタンタタン

 繰り返される電車の音を聞きながら、通勤快速に乗った自分を呪った。

 考えがまとまる前に電車は下りるべき駅に辿り着いたから。

「ただいま」

 返事はない。

 リビングからはわびしげな光が漏れる。

 ドアを開けると、テーブルの上には携帯だけが置いてあり、静子が座っていた。

「お帰りなさい」

 声だけが響いた。

「ただいま」

 呻くような声を絞り出す。

 自分の携帯に触れていいのか迷い、静子の顔を覗く。

「メール返しときました」

 静子の声に携帯を手に取る。

 よろしかったかしら。

 話すような視線を送る。

―ゴメン―

 飛び込んだ文字は、当然身に覚えの無いものだった。

 静子は私がメールを見るのを確認すると、箪笥から離婚届と判子を取り出した。

「私ももう二十八、もう一度恋愛をするにはもう時間を無駄にしたくないのです」

 何か言おうと思ったが、言葉は出なかった。私は諦め、黙って判を押す。

「では、私はこの家を出て行きます」

 呆けている間に、静子はあらかじめ準備されていたバックを持ち出す。

「後は弁護士を通してください」

 そう言って番号を書いた紙をテーブルの上に置くのを、私は何も出来ず、鞄を置くこともしないままただ見ていた。

「お元気で」

 そう言って玄関の扉を開けた。

「しずこ」

 静子に向かって発せられた言葉は、静子の背中に吸収されたまま戻って来ることはなかった。

 シャワーを浴び、冷蔵庫に準備されていた夕食をレンジで温め食べた。

 静子の最後の手料理を噛み締める。

 次の朝は休日だった。朝食が無いのを見て初めて、彼女が家を出たことを理解する。

 昼、携帯が鳴った。

 番号は身に覚えが無かったが、まだあるテーブル上にある紙を見て弁護士だと気がつく。

 一週間私は疲労した。

 その間に慰謝料などが決まった。慰謝料は当面の静子の生活費だった。静子の優しさに今更ながら気が付く。 


 静子と別れて二週間ほど経った朝、新宿駅で緑を見た。

 翠の隣には彼氏らしき人がいる。

―離婚しちゃったよ―

 メールを送った。別に何かを期待したわけではなかったけれど、懺悔に近いものだった。自分だけ幸せそうな翠に嫉妬したのかもしれない。

 私は会社に向かう。

 人事部にはもう伝えた。

 何となく視線の痛い日常が私を待っている。


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