割り切れない思い、振り切れない過去
宿泊の手続きを済ませた裄人と真里菜が車へと戻ってくる。
車のフロントドアを静かに開けた裄人は冬馬が起きている事に気付き、「あれっ、冬馬起きてたのか」と声を上げた。
「なんだ、もう少し寝かせてやろうと思って置いていったのに意味無かったな」
「いや、置いていかれて感謝してる」
「ん?」
運転席に乗り込もうとしていた裄人の動きが一瞬止まる。
だが即座にその言葉の裏を読み取って、「あぁ、そっちの意味か」と言いながらシートに身を沈めた。
「もしかしてもう少し遅く戻ってきたほうが良かったか?」
「少なくともあと半日は戻ってきて欲しくなかった」
その嫌味混じりなニュアンスに苦笑した後、裄人は桃乃にも謝る。
「気が利かないお兄さんとお姉さんでごめんね、桃乃ちゃん」
「エッ!? そそっ、そんなことないよっ!?」
慌てる桃乃の様子を見た真里菜が助手席でクスクスと笑っている。
おかげでせっかく落ち着いた桃乃の頬の色が恥ずかしさでまた朱に染まった。
「お詫びにお二人のだけの時間を再度作らせていただきますのでそれでご容赦を!」
裄人はそう宣言すると、静かに車をスタートさせる。
目的地に向けて走り出した車は、やがて霧里高原の西寄りにある、那和湖に到着した。
湖にはボート乗り場が併設されている。土曜の午後とあってそこそこ利用客がいるようだ。
「俺と真里菜ちゃんはあれに乗るけど、冬馬と桃乃ちゃんはやっぱり乗らないのかい?」
「あぁ。俺らはあちこちぶらぶらしてるよ」
「二時間以内に戻ってこいよ? 夕メシの時間決まってるみたいだからさ」
「分かった。行こうぜ桃乃」
桃乃を連れてさっさとこの場を離れようとする冬馬の背に向かい、裄人が再度呼びかける。
「冬馬! ここは圏外の場所が多いから時間は守れよ!」
冬馬は黙って片手を上げ、分かった、というサインを出す。それに習うように桃乃もボート乗り場に残る二人に大きく手を振った。
「冬馬くんに桃乃ちゃん。本当にお似合いですよね」
去ってゆく冬馬と桃乃の様子を微笑ましく見送っていた真里菜が裄人に話しかける。
冬馬が桃乃の手を握った光景を眺めていた裄人は「うん、そうだね」と静かに相槌を打ち、独り言のように呟いた。
「羨ましいぐらいにね」
最後の言葉が急に重苦しく沈んだように感じた真里菜が「裄人さん…?」と不思議そうな顔で呼びかける。
「さ、俺達も行こうか?」
笑顔を浮かべ、自然な感じを装ってその場を取り繕った裄人は、真里菜を連れてボート乗り場へと向かう。
心の中で割り切れていない思いを持て余している裄人はその感情を忘れるため、いつもよりもさらに饒舌さを増して真里菜に気遣いの言葉をかけ続けた。
「あ、真里菜ちゃん、足元気をつけて」
「乗り込む時慌てないで。そうそう、ゆっくりゆっくり」
「危ないから途中で急に立ち上がったりしないでね」
そして真里菜を乗せたボートを漕ぎ出しながら自嘲する。
( 情けないよな 兄貴が弟を妬ましがってどうするんだよ )
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「待ってよ冬馬!」
裄人たちと別れ、半歩先を歩く幼馴染の背に向かって桃乃が声をかける。
「ね、これ以上遠くに行っちゃったら戻るの大変だよっ?」
深緑が生い茂る坂道。
散策しやすいようその中央には細かい砂利が敷き詰められ、一定の間隔で縁石代わりの平らな石が地面に埋め込まれている。
勾配は緩やかだが、少々強引に手を引かれて歩き続ける桃乃の息は少し上がり気味だ。そんな桃乃を気遣い、冬馬は一旦足を止める。
「疲れたか?」
二人に与えられた自由時間はあと残り半分。
帰りは下り坂とはいえ、このまままだ先に進んでしまえば、時間内に裄人と真里菜の待つボート乗り場まで戻るのは難しくなる。
「ねぇどうしてそんなに必死になって先に進もうとしてるの? さっきいい景色のところがあったのに」
つい先ほど通り過ぎてきた場所を桃乃が名残惜しそうに振り返る。
すると冬馬は決まりが悪そうに、「別に必死になってない。もうちょい先まで行ってみたかっただけだ」と言葉を濁した。
しかしその本心は違った。
少しでも兄から離れたかった。
出来るだけ桃乃を兄の側から引き離したかった。
その思いに囚われ、ひたすら前へと進んでいたのだ。
「もうそろそろ引き返そ? 裄人兄ィが時間守れよって言ってたじゃない」
冬馬の葛藤を知らない桃乃がそう促す。しかし桃乃の口からまた裄人の名前が出たことが冬馬には面白くない。
「兄貴なんて待たせときゃいいんだよ」
顔を背けて吐き捨てる。
「ダメよ! 真里菜さんもいるんだし、裄兄ィって時間にうるさいところがあるんだから!」
たしなめるように繋いでいた手をギュッと握りしめる。だがそれでも冬馬は首を縦に振らない。
言い出したらきかない所があるこの強情な幼馴染に、桃乃はふぅと一つ溜息をつく。
「そういえば小学生の頃も、冬馬は帰宅時間の門限破ってよくおじさんに怒られてたよね……」
「そんな下らないことよく覚えてんな」
「うん」
呆れ顔の冬馬に向かって桃乃は最高の表情で笑いかける。
「だっておじさんとおばさんに頼まれて、冬馬が遊びに行きそうな場所を探しにいったことが何度かあったもん! 大抵冬馬は泥だらけになって遊んでたから、家に帰ったらおばさんに更に怒られてたよね。でも冬馬はいっぱい怒られても全然反省している素振りがなかったこと、まだ覚えてる」
自分の幼い頃の出来事を面白そうに話す桃乃の表情を、冬馬は複雑な表情で眺める。
胸の中の大部分を占めるこの嬉しい感情は、桃乃が自分の幼い頃の事を、こうして今でもはっきりと覚えてくれていたからだ。そして、同時に広がる残りの黒い感情は、あの当時の桃乃が好きだったのは、自分ではなく――。
思わず強く目をつぶる。過去の感情を未だに整理し切れていない自分自身につくづく嫌気が差していた。
「冬馬が遊びに行くところって百合ヶ丘公園が多かったよね」
桃乃はまだ当時の話を続けている。
「あの公園のすぐ近くに橋があるじゃない? あの橋の下に一人でいたこともあったよね。あそこで何をしてたの?」
「……そんな昔の事、覚えてるわけないじゃん」
視線を逸らし、そう答えるのが精一杯だった。
しかし本当は覚えていた。
幼い頃、あの橋の下に時折一人で出向いてた理由は、あの場所で誓った決意を忘れないため。
七年前のバレンタインの日、橋の下で知ったあの出来事はもう思い出したくない。
だが、裄人への想いを黙々と埋める、幼い桃乃の小さな紅葉のような手の先が雪の冷たさで真っ赤に染まっていたあの光景は、これだけの月日が経っても今だ冬馬の記憶の中から消える事はなかった。
── 真っ白な雪が積もったあの場所にひっそりと埋められた当時の桃乃の想い。それを目撃してしまった自分。
掘り起こしてしまった桃乃の秘められた想いを、躊躇することなく全力で川に投げ捨てた。
赤い包装紙の破片がこびりつく箱が、冷たい冬の川に一直線に飛び込んでゆく。
わずかに聞こえた着水の音。
幼き桃乃が抱いていた裄人への想いは、小さな水飛沫を上げた後、ゆっくりとゆらめきながら凍える川底へと静かに沈んでいった。
その様子を当時十歳の冬馬は、白い息を吐き、軋む心を抱え、ただじっと見届けた。
兄への想いを全部消してやりたかった。
すべてを無かった事にしてやりたかった。
あの時の幼い自分が願っていたのはそれだけ。偽り無くただそれだけだった。
でも今は違う。今の俺は──。
「あ、ボートが見える!」
桃乃が嬉しそうに声を上げる。
林立している木々の隙間から遥か下に、湖水に点々と浮かぶいくつかのボートが浮かんでいる。
「あの辺りってボート乗り場からだいぶ離れているよね? 周りにボートがあまりいなくて気持ち良さそう!」
「……桃乃、お前もしかしてボートに乗りたかったのか?」
「うん!」
あっさり頷いた桃乃に冬馬が「マジで!?」とショックな表情を見せる。
「じゃあなんでさっき乗りたいって言わなかったんだよ?」
「だって冬馬が勝手に乗らないって決めちゃってたじゃない。あんな風に言われたら、乗りたいって言えなかったもん」
「そ、そうだな……悪かった」
「うぅん別にいいよ。こっちの方が高い分景色もいいしっ」
桃乃は湖水に点々と浮かぶいくつかのボートを見て、何かに気付いた。
「冬馬見て! もしかしてあの下の所に浮かんでいるの、裄兄ィと真里菜さんのボートじゃない!?」
桃乃が指さす方向に視線を移すと、離れた距離ではあるが、裄人と真里菜らしき人物がボートの中にいるのを冬馬も確認する。
「本当だ。あれ、兄貴たちだな」
「こんな遠くまで漕いで来てたんだね! ……わぁ! 裄兄ィってボート漕ぐの上手なんだねっ。知らなかった!」
裄人を見てはしゃぐ桃乃の声が、未だ過去を振り切れていない冬馬の胸に深く刺さる。
その感情をごまかすため、繋いでいる桃乃の手を強引に引き寄せそうになるのを冬馬は必死でこらえていた。