ざわめく心と穏やかな眠り
霧里高原へ出かける日は絶好のドライブ日和になった。
青空が一面に広がり、筆で描いたような一筋の雲が細く流れ、爽やかな風が凪いでいる。
「しかしここまでいい天候に恵まれるとはね。真里菜ちゃんはこの中で誰が晴れ人間だと思う?」
ハンドルを握る裄人が助手席の真里菜に話しかける。真里菜は少しだけ考えた後、予想した人物の名を口にした。
「きっと桃乃ちゃんじゃないですか?」
「え? 私ですか?」
裄人の後席に座っていた桃乃が驚く。
すると後部座席で窮屈そうにしている冬馬が不機嫌な様子で口を挟んだ。
「桃乃が晴れ女のわけないじゃん。こいつは昔っから雨女だよ」
「そうだなぁ、確かに桃乃ちゃんと一緒にいる時って雨になることが多かったかも」
と裄人もあっさりと同調したため、西脇兄弟から雨女と決め付けられた桃乃は憤慨する。
「勝手に決め付けないでよっ、冬馬も裄兄ィも! もしかしたら葉月が雨女かもしれないじゃないっ」
「いや、葉月は違う。俺、あいつと二人で出かけて雨に当たった事ないぞ?」
「うん、俺も葉月ちゃんと出かけて雨だった記憶が無いなぁ。やっぱり桃乃ちゃんだよ」
「ひどーい!」
この三人のやり取りを聞いていた真里菜が微笑む。
「家が真向かいっていいですね。裄人さん、冬馬くん、桃乃ちゃん、今までずっと一緒に過ごしてきたんですね」
「うん、もう何年になるんだろう? えーと俺が確か十歳の時に引っ越してきたんだから……、かれこれ十一年目のご近所付き合いになるのかな。そうだよね、桃乃ちゃん?」
裄人に尋ねられ、桃乃は「うん」と頷く。
「俺、桃乃ちゃんと初めて会った時のこと、まだちゃんと覚えてるよ」
裄人はそう言うとそのまま真里菜に視線を向けた。
「桃乃ちゃんってね、昔はすっごく恥ずかしがりやさんだったんだ。昔引越しの挨拶で桃乃ちゃんの家に家族全員で行ったんだけどさ、桃乃ちゃん、『 挨拶しなさい 』 って言われてもお母さんの後ろから出てこないんだよ。お母さんのスカートの端をギュッと握ってもじもじしながら目だけじーっとこっちを見ててさ。でもあの当時の桃乃ちゃんはホント可愛かったなぁ……」
裄人はしみじみと過去を懐かしんでいたが、途中でハッとした表情になり、後部座席の桃乃に向かって「あ、今ももちろん可愛いよっ!?」とバックミラー越しに慌ててフォローをする。いかにも裄人らしいその対応に、桃乃だけではなく真里菜まで笑い出す。
「ホント、裄兄ィは昔から口が上手いんだから! ね、冬馬?」
桃乃は冬馬に同意を求めたが、冬馬は無言で窓の外を眺め続け返事をしない。
弟のその様子を見た裄人がそちらにもフォローを入れる。
「冬馬、随分ご機嫌斜めだな。後部座席は窮屈か?」
「別に」
「裄人さん、私が後ろに行きましょうか?」
申し訳無さそうな表情で真里菜が提案すると、裄人は慌ててハンドルから片手を離し、静止する動作を見せる。
「いやいやいいんだって真里菜ちゃん! 真里菜ちゃんだって冬馬のためにそんなに座席を前にスライドしてくれてるじゃん。それにこんなに可愛い女性を二人も連れているのに、前列に男同士で並ぶなんてゾッとするよ。なぁ冬馬?」
「あぁ、俺も兄貴と並ぶのはゴメンだ」
素っ気無い口調ですかさず冬馬が答えたので、その返答に安心した裄人が楽しそうな笑い声を上げた。
「そうそう、さすが我が弟だ、よく分かってるよ! ところであと一時間くらいで霧里に着くけどさ、着いたら皆でボートにでも乗るかい?」
「いやいい。俺ら勝手にあちこち行くから」
「ハハッ、やっぱり冬馬は一刻も早く桃乃ちゃんと二人っきりになりたいんだな。ねぇ真里菜ちゃん、ここは俺ら大人が気を利かせてこの初々しい二人をそっとしといてあげない?」
「えぇ、私達はお邪魔みたいですね」
「でもその分、俺が真里菜ちゃんを楽しませますからどうかご心配なく!」
「はい、楽しみにしてます」
前列から聞こえてくる談笑に、冬馬は顔をしかめる。
今朝からの車中でこの二人の様子を見ている限りでは、とてもこれから別れそうなカップルには見えなかったからだ。
もしかすると兄貴の勘違いかもしれない。
そう思った冬馬は、途中に立ち寄ったパーキングエリアで車内に二人だけになった時、裄人にその件を再確認した。
しかし裄人は首を振り、はっきりと告げる。
「あぁその事か。いや、多分振られるよ。恐らく真里菜ちゃんは今日俺に言うつもりなんだと思う」
「なんでそんなことが分かるんだよ!?」
車内から桃乃と一緒に飲み物を買っている真里菜に視線を送り、裄人はサラリと言う。
「……なんとなく。見てたら分かるんだよね」
またか、と冬馬は苛立ちで唇を噛み締める。
昔から、兄のこういう所が本当に嫌いだった。
涼しい顔で全てを見透かし、決して見苦しく足掻かない。
しかし、本当に欲しいと思えば必ずそれを手に入れてしまう。
だからきっと兄貴にとって真里菜さんは本当に好きになった人ではなかったのだろう、と冬馬はその時結論付けた。
だからこそ、今こんなにも心がざわめくのだ。
もし、兄貴がこの先本当に好きになる女が桃乃だったとしたら──。
「……冬馬? どうしたの、気分でも悪いの?」
頭の中で迷走に陥っていた冬馬の手を車内に戻ってきた桃乃がそっと掴む。
車内の揺れで酔ったのかと心配した桃乃は、冬馬の顔を覗きこんだ。
「な、なんでもない」
「でもなんだか顔色が悪いような気がする」
「大丈夫だ。昨日寝るのが遅かったから寝不足なだけだよ」
冬馬はそう答えると、自分の手を優しく握ってくれている白い手を握り返す。
「そう。それならいいけど」
冬馬が手を強く握り返してくれたので、桃乃が嬉しそうに微笑んだ。
「ね、もうすぐ着いちゃうみたいだけど少し寝たら? 私に寄りかかってもいいよ」
「マジで?」
「うん。ほら枕の代わりに」
自分の左肩を指すその優しい気遣いに、心の中により一層桃乃への想いが強くあふれ出す。腰の位置を前に大きくずらし、頭の位置を下げると、その細い肩にあまり負担をかけないよう、そっと遠慮がちに頭を預けた。
「いいなぁ冬馬」
と裄人が冷やかす声が聞こえてくる。
「着いたら起こしてあげるからね」
「……あぁ」
迷走に疲れた冬馬は静かに目を閉じる。
そしてほんのわずかな間だけ、自分とは違う柔らかい香りに包まれ、冬馬は桃乃の側で穏やかな眠りに落ちていった。