離れゆく距離 【 前編 】
一夜が明け、今日は快晴には程遠い空模様だ。だがこの曇天のおかげで朝方の気温はこの時期にしては比較的低いものになっている。
カノンの女子校舎二階。
所々開け放っている一年二組の教室の窓硝子からはその涼しげな朝の空気が時折流れ込んでくる。
「でねでね! その時の要ってば怖いくらいにものすごく真剣な表情だったのー!」
教室の窓枠に腰をかけた沙羅が興奮した様子で話し続けている。
嬉しさが全身に溢れ出しているそのほほえましい様子に、桃乃は心から祝福の言葉を贈った。
「本当に良かったね、沙羅」
「ありがとーモモ!!」
その言葉に沙羅のボルテージはますます上昇した。
「でもさ、正直まだ信じられない時があるんだよねー! だってさ、要がいつの間にかあたしの事を好きになってたなんてまさか思いもしないじゃない!?」
「そうよね、でも要くんはいつから沙羅の事を好きになってたの?」
「んっと要の話だと、あたしを振った後すぐに自分の本当の気持ちが分かったんだって! バンドに全力で集中したくてそうしたらしいんだけど、あたしのことが気になって、返って全然集中出来なくなったって言ってた!」
昼休みに中庭で一緒にランチを取っている時、いつも斜に構えている要の姿を思い浮かべた桃乃はクスリと笑う。
「要くんって繊細そうなところがあるものね。でも本当に良かった。昨日沙羅から何も連絡が無かったから、すっごく心配してたの」
「あれっ、あたし昨日モモに連絡する約束してたっけ?」
「ううん」
桃乃は小さく首を振る。
「実は昨日の午前に要くんから連絡が来たの。でも要くんってば、 “ これから沙羅に会って自分の気持ちを何もかも話すから、私から沙羅にその事を連絡しないでくれ ” っとだけ一方的に伝えてきて勝手に切っちゃったの」
「えっ、要がモモにそんな電話をしたの!?」
「うん。だから私、沙羅をどうして振ったのかの理由だけを話すのだとばかり思ってたの。だって要くん、私には沙羅が邪魔だったから椎名さんと付き合ってるって嘘をついたんだってことしか言わなかったんだもん」
「あたしも杏ちゃんとのことは聞いたよ」
要から全てを聞かされた沙羅が穏やかな表情を見せる。
「あのライブの後に杏ちゃんから電話がきて、要の作った曲が杏ちゃんのことを想って作った曲だってことは話したみたい。でもそれだけだって。そしてこれからもいい友達でいようって話になったって教えてくれた。でもさ、要はどうしてモモに最後まできちんと説明しなかったのかなぁ? 不思議だよね」
と沙羅が首を大きくかしげる。するとその原因に心当たりのある桃乃が少し言いにくそうな口調でその理由を説明する。
「もしかしたら私が要くんの話を遮って、沙羅にそんな事言うのは止めて、って強く言ったから言い出せなくなっちゃったのかも……」
「あっそういえば要、言ってたよ! モモにすっごい剣幕で怒られたって!」
「あの時ついカッとしちゃって……」
しかし身を縮めて俯く桃乃を見た沙羅は嬉しそうに微笑む。
「でもさ、モモはあたしのことを心配して要に怒ってくれたんだよね! あたしモモと友達になれて本当に良かったなって思うよっ! すっごく嬉しい! ありがと!」
かけられた感謝の言葉に桃乃の表情がほころぶ。沙羅が自分の気持ちをきちんと汲み取ってくれていることが何よりも嬉しかった。
「でも沙羅、どうして昨日は連絡くれなかったの? もし要くんから付き合ってくれって言われたらすぐに私に報告する、って前に私に言ってたじゃない」
「あーそっか! そんな事言ったことあったね!」
自分の過去の発言を思い出した沙羅が照れ笑いを浮かべる。
「ゴメン! いざ告白されたら舞い上がっちゃって、昨日はそれどころじゃなかったよ! モモとのその約束もカンペキに忘れてた!」
「もう、私昨日の夜は一人で心配してたのに」
と桃乃が苦笑する。
その時、開け放たれていた教室の扉からある人物がいきなり顔を出した。
「お前ら何してんだ、こんなトコで?」
「あ! せいちゃん!」
「矢貫先生!」
桃乃と沙羅が同時に叫ぶ。
「おい南、その呼び名は止めろって。俺は一応これでもお前らの担任だぞ?」
抗議のつもりか、矢貫誠吾は手にしていたファイルの背を自分の掌に一度だけ軽く打ち付ける。
「すみませ~ん! 気をつけまぁす!」
「で、今日はどうした? 夏期講習も終わったし、部活か?」
「はい! テニス部の朝練でーす! でももう終ったので、ここでお喋り中でしたー!」
「しかし南。お前はいつ見ても元気がいいなぁ」
「はい! それがあたしの取りえですから!」
「お、そうだ倉沢。お前、西脇とケンカでもしたのか?」
急に自分に会話の矛先が向けられたので桃乃は目を瞬かせる。
「冬馬とですか? いえ、してませんけど……」
「そうか。いや、さっき男子校舎で西脇を見かけたんだが、何だかえらく不機嫌そうだったような気がしたんでな。じゃ単に俺の気のせいか」
誠吾の言葉を聞いた桃乃の胸中に胸騒ぎが走る。
「えーっ、それ本当ですか~!? おっかしいなぁ、だって今週末、モモと一緒に旅行に行くから本来なら超ハイテンションのはずなのにね!」
「旅行?」
誠吾の発した言葉の語尾が急激に上がる。
「おい倉沢。お前西脇と二人で行くのか?」
「いえ! ち、違います!」
桃乃は慌てて手を振って誠吾の疑惑を打ち消した。そこへ沙羅がまた誠吾を茶化す。
「冬馬のお兄さんとその彼女と四人で行くみたいですよー! でも夜は男女に別れてそれぞれ泊まるみたいだから、残念ながらせいちゃ…、矢貫先生の教育的指導は無理でーす!」
それを聞いた誠吾は若干ふてくされた様な表情で腕を組んだ。
「俺は別にそんなことで指導なんてしやしねぇよ。西脇と二人で旅行したって大いに結構じゃねえか。今しか出来ねぇ思い出を作ることも大事だと思うぜ?」
「Wao! 先生、意外と話せる~!」
沙羅の拍手喝采に、誠吾の自尊心は大いにくすぐられたようだ。「当たり前だろ」と胸を張る。
「いいかお前ら、この学園のガチガチに固まったルールだっていずれ俺がぶっ壊してみせるから、楽しみにしておけっての!」
「やった~! とりあえずまずは男子校舎と女子校舎を自由に行き来できるようにしてほしいなぁ!」
「そうだよなぁ、まずそこからだよな。仰るとおりだ」
痛いところを突かれた、といった様子で誠吾が頭に手を当てる。
「まぁ気長にボチボチやってくからよ。見ててくれって。そろそろまた一降りきそうだから用事が無いなら早めに帰れよ。じゃあな」
「は~い!」
誠吾が中央棟の方角へと去った後、表情の浮かない桃乃に気付いた沙羅が声をかける。
「モモ? どうしたの?」
「あ……、え、えっと」
「もしかして冬馬のこと考えてた?」
桃乃はコクリと頷く。
「さっきの話がもしせいちゃんの気のせいじゃないなら気になるよね。確かに最近の冬馬はちょっとヘンな所もあったし。モモは何か心当たりないの?」
「聞いてもはぐらかされちゃうの……」
「じゃあせいちゃんの話を聞いたらますます気になっちゃったよね」
「うん」
沙羅は少しの間無言で考えをまとめた後、「あのねモモ」と再び口を開く。
「ケンカやすれ違いになった時に一番大切な事はね、お互いに自分の気持ちを包み隠さず話してトコトン納得いくまで話し合うことだよ! …って、これはパパからの受け売りなんだけどね」
「うん、週末に霧里高原に行った時きちんと冬馬と話をしてみる」
「そうだね。でもきっとモモには全然カンケーないことだよ!」
「そうだといいんだけど……」
桃乃は開け放たれた窓から男子校舎の方角に視線を送った。すると腰掛けていた窓枠から素早く降り、沙羅が廊下を指差す。
「ねぇモモ。今日なら男子校舎に入っても先生に見つかりにくいと思うよ。冬馬を探しに行ってみない?」
沙羅の言うとおり、夏休み中の今なら教師に見つかることなく男子校舎に入ることも恐らく可能だ。
だが昨夜のメールで今日は一緒に帰れないと言われているため、桃乃はその誘いに乗れなかった。
「ううん、今日はいい」
「そう? モモがそう言うなら無理には言わないけどさ。あ、でもモモ達は家が真向かいだからいつでも会えるんだもんね! いいなぁ~羨ましい!」
「うん…」
心に漠然とした不安を抱えているのに羨ましがられている今の状況が少しだけ辛かった。そこで桃乃は静かに話題を変える。
「ね、沙羅、お腹空かない? 駅前で何か食べて帰ろっか」
「あ~食べる食べる! あたしもうお腹空きまくってるんだよね!」
「何食べる?」
「じゃあお好み焼き行こっ! この間要に連れて行ってもらったトコ、すっごく美味しいんだ!」
「要くんと? 昨日行ったの?」
「ううん、違うよ。比羅敷の花火大会の帰り!」
「あ、じゃあ家まで送ってもらったあの時?」
「そう! 帰る途中でいきなり連れて行かれたんだ」
当時の店内での様子を思い出した沙羅が一瞬だけふくれる。
「でもあの時の要、ただ黙々と生地を焼くだけでほとんど話しをしてくれなかったんだよねー」
「じゃあ二人ともお店にいる間ずっと無言だったの?」
「ううん、完全に会話が無かったわけじゃないよ。でも会話らしい会話は最初の内だけで後はあまりしなかったかな? あたしもその時かなりテンパってたからそれはそれでありがたかった部分もあったんだけどね。でもねモモ、今思うとあの時要も心の中であたしの事を色々考えてたのかなぁ、って思ったりもするんだ!」
幸せそうな沙羅を見て、桃乃の心の中に羨ましい気持ちが湧き起こる。しかしその気持ちは一瞬で消えたため、桃乃も同じような笑顔を作ることができた。
「うん、沙羅のことを一杯考えてたと思うよ、きっと」
「やっぱり!? やっぱりそうなのかな!? あ~どうしよう! なんかすっごく嬉しくなってくる~!」
「今日は要くんと会うの?」
「うん! 夕方にちょっとだけね! バンドの練習に行く前に時間作ってくれたんだ!」
「良かったね。じゃあ要くんオススメのお好み焼き食べて帰ろっか」
「行こう行こう! ホントすっごく美味しいところなんだから!」
カノンの正門を出る時、桃乃は一度だけ校舎を振り返った。
すぐそこに冬馬がいるのに──。
この場所から一歩ずつ歩を進めるたびに冬馬との距離は少しずつ離れていくことになる。
しかしそれは実質的な距離というだけで決してお互いの心が離れていくわけではないのに、なぜか切ない気持ちがこみ上げてきた。
( 早く週末になればいいのに )
逢えないもどかしさが胸の中を通り抜けてゆく。
桃乃は小さく吐息をつくと校舎に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
去りゆく自分の後ろ姿を、男子校舎の屋上から冬馬がずっと見ていた事も知らずに。