そして彼はその事実を知る
物憂い気分を両肩に乗せ、裄人は玄関に入るとそのまま二階の自室へと上がった。部屋着に着替えようとクローゼットを開けた時、ノックも無しで背後の扉が開かれる。
蝶番がわずかに軋む音で扉が開いた事に気付いた裄人が振り返ると、まさにこれから話をしようと思っていた相手がそこに立っている光景が視界に飛び込んできた。
「兄貴、話がある。今いいか?」
最後は疑問系で締めてはいたが、例え断られても引き返す気などまったく無さそうな足取りで声の主は室内へと侵入してくる。
このいきなりの乱入に裄人は一瞬ギクリとした表情を浮かべたが、すぐにいつもの柔和な表情へと戻り、「どうした冬馬? そんな怖い顔して」と努めて平静を装った口調で応じる。
冬馬はその質問には答えずに部屋の中央にまで歩を進め、ローテーブルの上に無造作に置かれていた煙草に目を留めた。
「兄貴、煙草変えたのか?」
冬馬の視線の先を追った裄人は、「孝太郎、知ってるだろ?」と更に質問を返す。
「あぁ、前に一度家に来たことあったよな。やたらと調子のいい人だろ?」
「そういうなよ。確かにいつもはおちゃらけている奴だけど、あれで結構真面目な所もあるんだよ」
「そうか?」
以前に孝太郎が西脇家に来た時のことを思い返した冬馬はすかさず異を唱える。
「確かその時葉月もたまたまなんかの用事で家に来てたじゃん。それであの人葉月に “ 10年経ったら俺のお嫁さんに来てくれない? ” って笑いながら言ってたぜ。葉月の奴がメチャクチャ嫌な顔してたのを覚えてる」
「ははっ、それは葉月ちゃんをからかっただけだろ。その煙草、孝太郎に貰ったんだ。箱のデザインが気に入って買ってみたら好みの味じゃなかったらしいよ。で、持て余して俺に押し付けてきたんだ」
戻ってきたその返事に対し、冬馬は明らかに興味の無さそうな視線、煙草と裄人、それぞれに送る。
そして裄人と視線を合わせたくないために右手に握っていた自分の携帯を見ながらようやく本題を切り出した。
「それより兄貴、来週の霧里の件、本当に大丈夫なんだろうな?」
「えっ!? だっ、大丈夫かってどういうことかな……?」
思わず裄人の口調が乱れる。
乱れた原因の大元は、自分から冬馬に話そうと思っていた話題を先に出されたためだ。
「あ? だから来週、霧里に行けるのかってことだよ」
兄の不審な態度に気付いた冬馬は一瞬だけ携帯から裄人へと視線を変え、硬い声で同じ内容の言葉を繰り返した。
「さっき桃乃が霧里へ行く話をした時、兄貴、態度がおかしかったぞ。ここまで話を進めていて直前でいきなり流れたりしたらこっちはたまんねぇからな」
「あ! あぁ、そういう意味か! うん、もちろん大丈夫だよ」
裄人の口から即座に肯定の言葉が出てきたので、冬馬の声から若干硬さが取れる。
「じゃあ何も問題は無いってことだな。兄貴の彼女も来るんだろ?」
「……真里菜ちゃんかい?」
裄人はそう答えた後、軽く目を伏せて「来られるよ」と静かな声で付け加えた。その兄の言葉を聞き、ようやく冬馬の声が自然なものへと戻る。
「ならいいんだ。来週末は晴れるといいよな、兄貴」
自分の用件が済み、部屋を出て行こうとする冬馬を裄人は慌てて引き止める。
「あ! ちょっと待てよ冬馬!」
呼び止められた冬馬は扉の端に手をかけたままで振り返った。
「なんだよ?」
「あ、あのさ、お前、ここんとこ最近何かあったか?」
「何かってなんだよ」
再び苛立ちを見せ始めた冬馬は扉から手を離す。
「い、いや、だからさ、なんか変わったことでも起きたりしたのかなぁと」
「それどういう意味だよ?」
「えーと……、簡単に言うと、なんかこう……、面白くない事でもあったのかなぁと思ってさ」
「何が言いたいのか分かんねぇよ」
翻していた身体の向きを素早く戻し、裄人に向き直った冬馬は鋭い視線を送りつける。
弟の声に、一度はほぼ消えた不機嫌さがまた表れ出していることを感じた裄人は何事も無かったかのように、「いや、俺の気のせいなら別にいいんだ。お前が最近またイライラしているような気がしただけだよ」と作り笑いを浮かべた。
しかし、気軽さを装ってのその詮索は完全に逆効果となる。
「……桃乃に言われたんだな。そうだろ兄貴?」
冬馬の視線に更に鋭さが増す。
「いっいや、違うよ」
「嘘つけ」
ボソリと告げられたその一言は、感情がほとんど感じられないくらいの低さで室内に響き、それを聞いた裄人の背に一瞬だが冷たい空気が這うように流れる。
「兄貴とはここ最近ろくに顔合わせていないじゃん。なのになんで今いきなりそんな事を言いだすんだよ」
「別にいきなりじゃ…」
「いいか兄貴」
裄人が更なる否定の言葉を発しようとする前に、冬馬は有無を言わせない力強い口調でそれを遮る。
「桃乃の言う事に兄貴はいちいち反応すんな。兄貴は自分の彼女だけ見てりゃあいいんだよ」
自身に向けられたその厳しい指摘に、口元にわずかな苦笑が浮かぶ。裄人はその表情のままで言われた台詞を繰り返した。
「自分の彼女だけ、か……」
「なんだよ、まさか真里菜さんとケンカでもしてんのか?」
すると裄人は真っ直ぐな視線を冬馬へ向けた。
「冬馬。霧里に行く前にお前にだけは言っておく。俺、真里菜ちゃんとは駄目になるよ、多分」
「何!?」
兄から静かに告げられたその衝撃的な内容に、冬馬は大きく動揺する。
「それどういうことだよ!? 兄貴、この間言ってたじゃねぇか! 初めて好きになったって!」
「そうだよ。でも、仕方ないんだ。俺は振られるほうだから」
「振られる? 何やらかしたんだよ兄貴!」
「でもお前や桃乃ちゃんを霧里には連れて行くから心配しなくてもいい。お前たちが楽しみにしているのに俺の都合だけで流すわけにはいかないし、真里菜ちゃんも霧里には行くって言ってくれてるから大丈夫だよ」
裄人は二度目の冬馬の問いには答えなかった。
「たださ、そういう事情だからお前と計画していた部屋のチェンジだけは出来そうにない。倉沢のおじさんと事前に約束した通り、俺とお前、桃乃ちゃんと真里菜ちゃんで、男女に分かれて泊まることになるのは勘弁してくれ」
棒立ちになった冬馬は完全に血の気の引いた顔で呟く。
「……なんでだよ兄貴……」
「済まない、冬馬」
「違うっ!」
冬馬は裄人へ詰め寄り、声を荒げた。その拍子に左足がテーブルに当たり、煙草の箱が大きく揺れて中身の一部が下へと落ちる。
「部屋の事なんかどうでもいいんだ! なんで、なんで真里菜さんと別れちまうようなことになったんだよ!」
「色々あるんだよ。大人の都合ってヤツかな?」
穏やかな笑みを崩すことなく、裄人は床に散らばった数本の煙草を拾い上げるとテーブルの上にそっと置いた。
「それに何度も言うが俺は振られるほうなんだ。今更どうしようもないんだよ」
「…………」
「今日は暑かったよな。シャワーでも浴びてスッキりしてくるよ」
そう言い残し、裄人は冬馬の横を通り抜けて一階へと下りていってしまった。冬馬は兄を呼び止めることもできず、ただ呆然と部屋に取り残される。
── 兄貴が、兄貴が真里菜さんと別れるだって……?
信じられない、いや、信じたくないその事実が頭の中を嵐のように駆け巡る。
瞬く間に白く染まりゆく思考の中で、自らも気付かないまま強く握り締めた冬馬の両拳には青い静脈がクッキリと浮かび、微かに震え出し始めていた。
するとまるでその震えを助長させるかのように、握りしめていた携帯が振動を始める。呆然とした表情のままで手の中を開くと、携帯は桃乃からのメールが届いた事を知らせていた。
無意識に画面を開く。
【 冬馬、明日も朝練あるんでしょ? 明日は私もテニス部の朝練があるの。終ったら一緒に帰れる? 】
メール文にはそう綴られてあった。
画面に映る桃乃からのメッセージを冬馬は何度も読み返した。そしてその場でゆっくりと返信を打ち始める。
ずっとずっと好きだった、自分の初恋の相手からのこのメッセージ。
本来なら飛び上がるほど嬉しいはずだ。だが返信メールを打つその指は、全く逆の内容を形作ってゆく。
【 悪い。明日はいつ朝練終るか分からない。さっき聞いた話も気になるし、明日は沙羅と一緒にいてやれよ 】
入力が終わり、送信ボタンを押そうとした親指が一瞬ためらいを見せる。
冬馬は光を失った目でたった今自分が打ち込んだ文章を読んだ。
本心とは全く違うこのメール。
だが送信ボタンを押してしまえば、これが自分の本心に切り替わってしまいそうな気がした。
やがて冬馬の携帯から一度だけ軽快な電子音が鳴る。
ディスプレイ画面には桃乃への返信が無事完了したことを報告する短文が表示されていた。
( ……会えねぇよ )
指示された役目を終えた携帯電話が冬馬の手の中から落下する。
厚手のカーペットの上で再び沈黙した携帯に空ろな視線を向け、今度は声に出して呟いた。
「こんな顔して会えるわけねぇじゃん」
喉元を通り抜けてきたその声は、まるで何かに締め付けられているように苦しげなものだった。
扉にもたれかかるように背中を預け、そのままズルズルと床に座り込む。投げ出した両足を抱え込み、身を隠すように深く顔を埋めた。
数分後、カーペットの上に転がっている携帯が再び鳴り、明日一緒に帰れない事を了承したというメールが桃乃から届いた事を知らせてくる。
だが冬馬は扉口でうずくまった姿勢のまま動かず、それに手を伸ばそうとはしなかった。