伝わらない想い
今にもにわか雨が降りそうだった。
夕方まであれほど快晴だった空模様は日没後には急激に雲行きが変わり、今は暗い雨雲の群れが濃紺の夜空の隙間をすべて覆いつくさんばかりに集まりだしている。
頼りなげに滲んだ光を放つ三日月がその雨雲に飲み込まれかけている様子を、桃乃は自室の窓硝子越しに眺めていた。
( 冬馬 まだ部活から帰ってきていないのかな…… )
午前に要から言われた事が気になって仕方が無い。
冬馬には話さないでくれと言われていたのでここまで我慢していたが、やはり冬馬に相談してみよう、と決めた桃乃は携帯電話を手にする。
冬馬の部屋にはまだ明かりがついていない。
部屋の明かりがついたらすぐに電話をかけよう、そう心に決め、西脇家の二階に視線を移して待っていたが、なかなか明かりは点かなかった。
とうとう待ちきれなくなった桃乃は携帯電話を開き、メールを打ち始める。
【 冬馬、話したいことがあるの。話せる時間が出来たらメールでもいいから教えてね 】
このメールの送信後、一分も経たない内だった。
手の中で握っていた携帯電話が急に振動を始め、驚いた桃乃の手の中で跳ねた後、勢いよく床に落下する。携帯電話は床で二度バウンドしたが、それでも途切れることなく着信の合図を送り続けていた。飛びつくように拾い、急いで耳に押し当てる。
『 桃乃か? メール見たけどどうした? 』
冬馬の声だった。
待ち望んでいた声をようやく聞くことができ、桃乃の顔が自然とほころぶ。
「冬馬! 今どこにいるの?」
『 部屋にいる 』
そう聞こえてきた直後、冬馬の部屋の明かりが点く。
「えっ家にいたの?」
『 下で飯食った後ずっとTV観てて今部屋に戻った。桃乃も自分の部屋にいるのか? 』
「うん、いるよ」
桃乃がそう答えると、すぐに向かいの部屋のカーテンが素早く開けられ、硝子越しに携帯電話を左耳に当てた冬馬の姿が現れる。予想外の冬馬のその行動に、桃乃は小さな驚きの声を上げた。
そして倉沢家の二階の窓際に佇む桃乃の姿を見つけた冬馬も同じように驚いた表情を見せる。
『 へぇ……、俺が家に帰ってるかどうか、そこからチェックしてたってわけか 』
お互いの部屋越しでやや距離はあるが、開け放した窓から冬馬がニヤニヤと意味深な笑みを漏らしているのが分かり、桃乃は慌てて弁解する。
「べっ、別にそういうわけじゃないよ!?」
右手の人差し指を伸ばし、自分の髪の毛を意味無く何度もクルクルと絡ませながら早口で答えた。するとその動揺ぶりが面白かったのか、明らかにからかうような声が携帯電話越しに聞こえてくる。
『 すげーなぁ。いつからそこで見てたんだよ? なぁ、俺もしかして毎日桃乃にそうやって監視されてんの? 』
「だっだからそんなことしてないってば!」
『 ……ま、いいや 』
冬馬は唐突に悪戯っぽい笑みを消すと、窓辺の縁に軽く腰をかけ、あっさりとした口調で事も無げに言い切る。
『 監視されたって俺は全然問題ないしな。桃乃に対してやましい事なんて何もしてねぇし 』
それは誰よりも今の桃乃が一番良く分かっている事だ。
今日、未紅から教えてもらった話を思い出し、また顔が勝手にほころび出し始める。だが、今話すべきことは別の事だ。
「あのね、実は要くんのことなんだけど」
表情を急いで戻し、桃乃は要の件を話し出す。
『 要がどうかしたのか? 』
「うん。今日の午前中にね、要くんから電話があったの」
桃乃はここで一旦言葉を切った。
河川敷で要の話を聞いたのは自分だけで、冬馬はまだ何も知らない。だからまず何から話すべきなのか、考えながら言葉を紡ぐ。
「要くんね、沙羅に隠していた事があって、それを今日全部沙羅に話すつもりだって私に連絡してきたの」
それを聞いた冬馬の眉根が曇る。それは少し離れた場所にいる桃乃にも確認できた。
『 ちょっと待てよ。言ってる意味が全然分かんねぇ。それは何の話なんだ? 』
「そうだよね……やっぱりこんな事から急に話し出してもよく分からないよね。ごめん」
予想通りの冬馬の反応に、桃乃は申し訳なさそうに謝った。すると冬馬は決して気分を害したわけじゃないといった様子で桃乃を誘う。
『 なぁ桃乃、下で会って話そうぜ? その方が早い 』
「えっ、会うって今?」
『 あぁ。出てこられるか? 』
「うん大丈夫! じゃあすぐに出るね!」
携帯電話を切り、ベッドの上に置くと急いで階下へと降りる。
玄関の扉を開けて外へ飛び出すと、ちょうど冬馬も自宅の玄関先から出てきたところだった。
「冬馬!」
自然と声が弾むのをどうしても抑えられなかった。
互いの家を挟んだ路地で足を止めると、先に冬馬が言葉を発する。
「全然話が飲み込めねぇから、今の話ちゃんと順を追って話してくれよ」
「うん。実は一昨日の花火大会で冬馬と沙羅が戻ってくるまでの間に、要くんが話してくれたことなんだけど……」
桃乃は冬馬を見上げ、河川敷で要から聞かされた内容を詳しく説明した。話をすべて聞き終わった冬馬は、何かを考え込むような素振りを見せる。
「ふーん……」
「だから私、沙羅のことが心配なの」
「それで結局桃乃は要が椎名さんと付き合うことになったって嘘をついていたことを沙羅に連絡はしなかったのか?」
「う、うん」
桃乃はためらいがちに頷いた。
「要くんに話さないでくれって強く念を押されたのに、それでも私が勝手に連絡して、それでかえって沙羅を傷つける事になったら、って思ったら連絡できなかった」
「それで今日沙羅から何か連絡はあったのか?」
「ううん、無いの。だからどうなったのか余計に心配で……」
── あいつが邪魔だったんだ だから嘘をついた
無数の光の矢が降りしきる河川敷で、そう自分に告白してきた時の要のうなだれた姿を思い出し、沙羅への心配が一層募る。
「俺は要から何もそんな話は聞いてなかったな……。それよりどうして桃乃はその事を俺に黙ってたんだよ?」
「だ、だって……」
冬馬の声に軽い苛立ちが含まれ始めている事に気付いた桃乃は、言いにくそうに声のトーンを落とす。
「だって要くんが自分で冬馬に話すから、私からは言わないでくれって…」
「だからってなんで俺に隠し事をするんだよ!?」
突然、冷たく遮断するような言葉が飛ぶ。
それは冬馬らしからぬ言い方だった。
そしてこの時桃乃はやはり最近の冬馬は何か変だ、と確信する。
今日、未紅から一昨日の話を聞き、冬馬への想いを再確認したばかりだというのに、そしてこんなにも会いたかったのに、今目の前にいる冬馬は今までの、少なくとも自分の知っている冬馬とはどこかが、何かが違って見えた。そしてその訳がまったく分からない桃乃の心に、言いようの無い不安が広がる。
未紅のアドバイスが記憶に残っていたせいなのかは分からない。だが、不安の渦に押し潰される前に、桃乃は大好きな幼馴染に直接疑問をぶつけていた。
「冬馬、一体どうしたの?」
「何がだよ?」
「最近の冬馬ヘンだよ。おかしいよ」
この言葉の後、明らかに冬馬の表情が強張った。
その表情の変化に、冬馬は自分でも分かっているんだ、と再び桃乃は確信する。
「ねぇ、もしかして私に関係すること?」
「別に。何がおかしいんだよ。いつもと変わんねぇじゃん」
重ねての問いに冬馬は平静を装って答える。
しかし小さな頃からずっと一緒に育ってきた冬馬の嘘を見破ることなど、幼馴染の桃乃にとっては簡単なことだった。
「嘘言わないで。どうして最近そんなにイライラしているの? 私、何かした?」
「だから別に何もしてねぇって。単に今日は疲れているだけだ。桃乃の考えすぎだって」
冬馬はそれまで浮かべていた気難しい表情を一転させ、笑顔を見せると明るい口調でそう言った。
その急な笑顔も無理に作り出していることなど桃乃にはお見通しだったが、冬馬がこうして全否定しているのに、更にこれ以上深く訊く勇気が出ない。
「ならいいけど……」
二人の間にポツリ、と最初の雨粒が落ちてきた。
またもう一粒。その後を追うようにもう一粒。
ついに降り出した雨粒は、乾いたコンクリートに少々いびつな形の小さな沁みを次々に付けてゆく。
仕方なく口をつぐんだ桃乃の横顔を白色の光がいきなり襲い、その視界を一時的に真っ白に染められたのはその時だった。
眩い光が指す方角へ目を向ける。
その光の正体が車のヘッドライトだということが分かった時、桃乃は口中で「あっ」と呟いた。
「裄兄ィが帰ってきたみたい!」
桃乃は近づいてくる車に向かって小さく手を振り、冬馬は身じろぎもせずに青みがかったヘッドライトを凝視に近い眼差しで見つめる。
二人に気付いた裄人が車中からほんの一瞬だけクラクションを鳴らし、夜道を沿うように軽い警告音が響いた。そして静かに速度を落とした車が西脇家の前に停車しようとした時、
「きゃっ!?」
桃乃の口から驚きの声が漏れる。
冬馬が桃乃の両肩をやや乱暴に引き寄せ、そのまますっぽりと覆いかぶさるように勢いよく抱きしめたせいだ。
「冬…馬……?」
ポツリ、ポツリと雨の落ちる速度が早まる中、いきなりの抱擁に驚いた桃乃は思わず冬馬の名を呼んだ。しかし冬馬は無言でますますきつく桃乃を抱きしめる。
「おやおやこんな時間に見せ付けてくれちゃいますね」
車を停めて運転席から降りてきた裄人は、からかうような声と穏やかな笑みでそんな第一声を告げた。
「でも雨も降ってきたし、今夜はもう遅いからさ、続きはまた明日にしたほうがいいとお兄さんは思うよ?」
裄人は軽やかな口調でそう諭すと、時間切れだ、と言いたげな仕草で冬馬の左肩を軽く叩く。
肩を叩かれた冬馬は緩慢な動作で名残惜しそうに抱擁を解いた。そして何かを言いたげな表情で桃乃を見つめる。
「冬馬、どうしたの……?」
その表情に気付いた桃乃がそう声をかけた時、段々と落ちる数を増やし始めている雨粒の一つが、冬馬の顔に当たった。左目尻近くに落ちたその大きな雨粒はそのまま頬のカーブにそってゆっくりと転がるように流れ、まるで一筋の涙を流したように桃乃の目に映る。
冬馬はわずらわしそうに軽く左目をつぶると、頬を流れ落ちるその雫を乱暴に拳で拭い、「何でもない」と呟くように答えた。
「さ、桃乃ちゃんももうお家に入ったほうがいいよ。これ以上雨に当たったら風邪引いちゃうよ?」
裄人はさりげなく桃乃に帰るように促す。
「そうね、来週霧里に行けなくなったら大変だもんっ」
笑顔でそう答えた桃乃に、裄人の表情と返事が一瞬固まった。
だがすぐに、「そっ、そうそう! そうだよ! 桃乃ちゃんに当日欠席されちゃったら俺が困っちゃうからね」と桃乃が見せた倍の笑顔で言葉を返す。
裄人に向かって「うん」と頷いた後、桃乃は冬馬に遠慮がちな視線を向けた。
「じゃあ冬馬、ま、また明日ね?」
「……あぁ」
だが冬馬は桃乃と視線を合わすことなく、その場から素早く身を翻して先に家の中へと入ってしまった。そんな冬馬の後姿を桃乃は落ち着かない心境で見送る。
「あーどうしよう桃乃ちゃん!」
いつもの癖でキーケースのリングを指に引っ掛けてクルクルと振り回しながら裄人が大げさな溜息をついてみせる。
「今のあいつの態度見た? 冬馬の奴さ、桃乃ちゃんとのせっかくのいいシーンを俺に邪魔された! って思ってるよ絶対。あぁ、お兄さんはこの後、家に入るのが少々怖いです!」
だが裄人のこのおどけた台詞でも、桃乃の心配げな表情は変わらない。
「あのね、裄兄ィ」
桃乃は真剣な声で裄人に尋ねる。
「ん?」
「最近、冬馬少しヘンなの。イライラしている感じがして。裄兄ィは何か心当たり無い?」
「冬馬がイライラしてるって?」
その質問がかなり予想外のものだったのか、珍しく裄人の返答が鈍る。
「んー……、実は俺、ここんところ家に帰ったり帰らなかったりで、最近あまり冬馬と顔合わせてないんだよね」
「じゃあ裄兄ィにも原因は分からないんだね」
「うん」
「そっか……」
桃乃の声が沈む。
すると気配りの配慮に長けた裄人が、「じゃあさ、その辺りのこと、俺が少し探りを入れてみようか?」と素早くフォローを入れた。
「ホント!?」
「うん、他ならぬ桃乃ちゃんの頼みだもんな。でも上手く聞きだせなかったらごめんね」
「ううん、ありがとう裄兄ィ!」
「どういたしまして。それより濡れちゃうから早く帰ったほうがいいよ。またね」
「うん!」
桃乃は笑顔で大きく頷くと、急いで家の中へと入って行った。
一人その場に残った裄人は二階の冬馬の部屋を見上げる。そしてゆっくりと顔を伏せ、気の重そうな溜息を長々と吐いた。