追い続けた影 【 前編 】
「はい」
手にした携帯から聞こえてくる桃乃の声に、歩きながら電話をかけていた少年の足が止まった。
交通量が多い宰条大学付近から電話をかけたため、周囲の騒音で桃乃の声が聞き取りづらい。
無言で頭上に広がる真っ青な空を見上げると、視界に広がる空の色は直視するのを避けたくなるほどの眩しさに映る。
「……もしもし? 要くんでしょ?」
これから切り出す話をどう伝えたらいいのか。
それを頭の中で整理することに意識のほとんどを取られ、つい応答を忘れてしまっていた要の耳元に、桃乃の呼びかけが聞こえてくる。
上空に向けていた視線を元に戻し、要はようやく言葉を発した。
「今、話しても大丈夫か?」
「友達と一緒だから少しなら……」
「分かった。じゃあ手短に済ます」
限られた時間で用件を伝えなければならない状況に、逆に決心が固まった。
多分自分の声も桃乃に届きにくいだろうと判断し、いつもよりもわずかに声量を上げる。
「倉沢さん」
「なに?」
「聞いてほしいことがある」
焼けつくような八月の日差しが要の背中に容赦なく突き刺る。
上半身を焦がされているような感覚がする中、一呼吸置いた後で要は告げた。
「倉沢さんごめん。あの約束守れない」
「えっ、あの約束って……?」
「一昨日、河川敷で俺が倉沢さんにした約束だ」
その約束の内容を瞬時に思い出せなかった桃乃は一瞬返答に詰まる。そして桃乃がそれを思い出す前に、
「俺、あいつに全部話す」
と要が先を続けた。
投げかけられたその言葉で、ようやく桃乃は一昨日出かけた花火大会の河川敷で要と交わした約束の内容を思い出す。
「まさかあの事を沙羅に話すの!?」
「あぁ」
要がそう答えたのとほぼ同時に、「止めて要くん!」と、携帯電話からそれを諌める声が響く。
「そんなことしたら沙羅が傷つくじゃない! 要くんに振られて沙羅はもう十分に傷ついてるの! どうして今になってそんなことをするの!? 」
「俺が間違ってたって分かったんだ。だから話す。あいつに全部」
「それって勝手すぎるよ!」
あぁ分かってる、と桃乃の発言を要は肯定した。
「このまま何も話さないべきだっていう倉沢さんの意見は正しいと思う」
「だったらどうして!?」
携帯電話を耳に当てたまま要は静かに睫を伏せる。
「この先、あいつの前で自分の気持ちをずっと偽っていくことに耐えられそうに無い」
「勝手すぎるよ!」
「あぁ、本当にそうだよな」
大きく息を吐くと、要は携帯電話の向こう側にいる桃乃に向かって一言一言、区切るように話す。
「でももう決めたんだ。俺、今日あいつに会って全部話す。倉沢さんとの約束を破る事になるからそれだけは伝えておきたかった。用件はこれだけだ。じゃあな」
「待って!」
会話を続ける事で段々と冷静さを取り戻したのか、桃乃は落ち着いた声に戻るとゆっくりと懇願するように話し出す。
「あのね、要くんはそれでいいかもしれない。自分の気持ちを全部話してスッキリするかもしれない。でもね、そんなことを聞かされる沙羅がかわいそうだとは思わないの? だからこれ以上沙羅を傷つけないで」
「いや、その前に本当の事を話したら多分あいつは俺に呆れるだろうな」
伏せられた睫の先に小さな影が宿る中、要は自嘲気味に呟いた。
そしてもう一度「じゃあな」と言うと桃乃の返答も聞かずに一方的に電話を切り、即座にマナーモードに変換した。
わざわざ桃乃にこんな電話をかけたのは、こうして前に踏み出すきっかけが欲しかったからだ。
本当は今日裄人に会ってこの件でアドバイスが欲しかったのだが当てが外れてしまい、だからこそこうして桃乃に河川敷での約束を破る宣言をすることで、嫌でも前に進まざる事を得なくなる状況を作り出してその中に自分の身を置きたかった。
── 後はあいつと会うだけだ。
携帯の液晶画面に【 南 沙羅 】と表示させる。そしてできるだけ騒音が入らないようにとの配慮からビルの物陰に身を寄せてCallボタンを押した。
気持ちを落ち着かせるために深く呼吸を吸った時、沙羅の元気な声が聞こえてくる。
「は~い! 沙羅で~す!」
「……」
「あれ? 要でしょ?」
「あ、あぁ」
幸先の悪いスタートだ。呼吸まで整えたのに、すでに最初の一言目からスムーズに言葉が出てこない。
「要から連絡くれるなんて珍しいよね! っていうか、もしかして初めてじゃない?」
「お前、今日ヒマか?」
内心に生まれた焦りを強引に押しつぶすために、要は早口で尋ねる。
「今日? えっとね、今あたしデート中なんだ!」
「デート……?」
沙羅の言葉に驚いた要は思わず息を呑んだ。
「あ、デートっていっても相手ってパパなんだけどね!」
携帯電話の受信口から楽しそうな沙羅の笑い声が聞こえてくる。
「で、今日はどーしたの要? バンドの練習は?」
「今日は無い」
「あっそうなんだ。じゃあ要は今何してるの?」
沙羅の質問には答えず、要は一方的に尋ねた。
「お前、親父さんとは今日一日ずっと一緒にいるのか?」
「エ? ううん、夕方には解散するよ。パパも色々と忙し…」
「じゃあ夕方会ってくれないか?」
心の余裕の無さが畳み掛けるような口調となり、沙羅の返答を最後まで聞き終わらない内に強引に言葉をかぶせる結果となる。
「夕方? うん、あたしは別に構わないけど?」
「何時ならいいんだ?」
「う~ん……五時半頃なら大丈夫だと思うけど、ねぇ要、一体どんな用事なの?」
「会った時に話す。じゃあ五時半にお前の家に行くから」
「分かった! じゃあまたあとでねー!」
「あぁ」
崩壊の一途を辿りつつあった会話を何とか終了させて電話を切ると、緊張の糸が一気に途切れたために携帯を取り落としそうになった。
何とか会う約束は取り付けることができた。だが夕方までどこかで時間を潰さなければならない。
片手をかざして直射日光を遮り、太陽の位置をもう一度確認する。外気温が更に上昇したせいで皮膚の表面がわずかに汗ばみ始めていた。
もたれていたビルの壁から身を離し、要は何も考えずにひたすらに街を歩き始める。
やがてその無意識の放浪の果てにようやく立ち止まった先は、あのライブハウスの前だった。