彼の選択、彼女の宣言 【 後編 】
電話を切ってから五分も経たないうちに、ストレートの髪をなびかせて未紅が公園内に現れる。
髪をまとめていなかったため、桃乃は近づいてきた少女が未紅ということに最初はまったく気がつかなかった。
「久しぶりだね、倉沢さん」
そう声をかけられて髪を下ろしたその少女が未紅だということが分かると、桃乃は「あっ、ごめんね、急に呼び出したりして」と謝る。
「倉沢さん、私の家を知ってたんだね」
「ううん、この辺りだってことしか知らなかったの」
未紅は「ふーん」とだけ相槌を打つと、ベンチに座っていた桃乃の隣に腰をかける。
「私に話って何?」
二人の頭上に上空から陽光が降り注ぐ。
まだ午前の早い時間ではあるが、木々の葉の間から差し込む日差しはすでにかなりの熱を持ち始めていた。
「あっあのね、一昨日の土曜日のことなんだけど」
桃乃は片手を顔に向けて仰ぐ仕草をする。
しかしそれは自分に涼風を送って暑さを和らげるためではなく、これから未紅に切り出す言葉の言いにくさを少しでも緩和させるためのその場しのぎの行動だということに、桃乃自身は気付いていない。
「一昨日の夜、冬馬に何の用事だったの?」
「えっ、西脇くんから聞いてないんだ?」
予想外の言葉だったのか、未紅は桃乃に向かってわずかに身を乗り出す。
「じゃあ倉沢さんはどうして私が一昨日西脇くんの家に行ったことを知ってるの?」
「それは……」
桃乃は一旦ここで言葉を切り、口ごもるように答えた。
「い、妹がね、私たちが帰ってくる少し前に、冬馬の家に女の人が入っていくのを見たって教えてくれたの。その人、今年のバレンタインに冬馬の家にチョコを届けてって頼んできた女の人だったよ、って。その人の特徴を聞いたらヘアスタイルで多分杉浦さんだろうなぁって思ったから」
「あぁそっか。確かに倉沢さんの家の前にいた二人の女の子に頼んだよ。あの時のどっちかの女の子が倉沢さんの妹だったんだ?」
「うん、そう」
「それで倉沢さんはなぜ私が一昨日西脇くんの家に行ったのかが知りたいんだね。でもどうして西脇くんに直接聞かないのか純粋に不思議なんだけど?」
桃乃は視線を落として黙り込む。
「やっぱり今西脇くんと少しギクシャクしているみたいだね……。だから西脇くんに尋ねないで、こうして直接私に聞きにきたんだ?」
「ううん、違うっ!」
桃乃は強く否定した。
すると未紅は「じゃあ何しに来たの?」と言うと、少し冷めた目で桃乃に視線を走らせる。
「本当はどうして冬馬の家に行ったのかが聞きたかったんじゃないの。私、杉浦さんに言いたい事があったから、だから来たの」
「言いたい事?」
「そうっ」
未紅に伝えなければならない。
半瞬で呼吸を整え、ちゃんと言わなくちゃ、と自分を叱咤する。
自分の気持ち。冬馬への想い。
そして私たちの間に入り込まないでほしいという、このたった一つの大切な気持ちを伝えるため、ありったけの勇気を振り絞る。
「いっ、言っておくけどっ」
勇み立つあまり、胸元のペンダントを握り締めてベンチから立ち上がっていた。
「冬馬は私のものだからっ!!」
―― 直後、空気が完全に止まった。
ベンチに座っている未紅が少し驚いたような表情で桃乃を見上げている。
思いの丈を口にした後で急激に顔が火照ってくるのを感じ、ハッと我に返った桃乃は慌ててまたベンチにストンと腰を下ろした。
「……倉沢さん、耳まで真っ赤だよ?」
恥ずかしさで硬直する桃乃に、未紅が平坦な声で指摘する。
その冷静な指摘に桃乃の顔がますます赤みを帯びたが、今自分の放った独占発言に一切の後悔は無かった。
( 倉沢さん、こいつさ、修学旅行一日目の夜にね、部屋でクラスの男子全員でワイワイ騒いでいる時にいきなり言い出してんの。『 俺は倉沢桃乃が好きだからお前ら余計なちょっかい出すなよ? 』 ってさ。あの時の西脇の台詞は 『 アイツは俺のものだ 』 って俺らの前で堂々と宣言したようなもんだったからなぁ )
冬馬と 【 魂が魅かれあう彼方で 】 という恋愛映画を観に行った時、偶然出会った野々山 智樹から聞いたこの話は今も心の中にしっかりと刻み込まれている。
「でもちょっと意外。倉沢さんって今みたいな台詞を叫ぶキャラじゃないと思ってた。恋愛をすると人が変わっちゃうって本当なんだね。やっぱり西脇くんの言っていることが正しかったっていうことなのかなぁ」
「ど、どういうこと?」
赤い顔を素早く上げ、桃乃が勢い込んで尋ねる。
「一昨日の西脇くんの部屋で待たせてもらってた時に、二階の窓から倉沢さんを見かけたんだ。あとで西脇くんに“ 倉沢さん、あまり変わってないね ” って言ったら、西脇くんは “ いや、俺は変わったと思う ” って言ってたから」
「冬馬、そんな事言ってたの!?」
未紅は「うん」と頷き、清清しさの残る表情で続けた。
「今の倉沢さんは西脇くんがすごく好きなんだね。もしかしたら西脇くんに強引に押し切られて何となく付き合っているのかなって思ってた」
たった今自分の口にした大胆な発言にすでに心は羞恥の気持ちで一杯だったが、桃乃は思い切って尋ねてみる。
「あの、杉浦さんはいつから冬馬のことが好きだったの……?」
「いつからだったかなぁ」
未紅は遠くを眺めるような視線のままで淡々と答える。
「ひつじって呼ばれ始めてから割りとすぐだったかもしれない」
「そう……」
「私、倉沢さんの知らないところで結構西脇くんとよく一緒にいたんだよ? 西脇くんの部活終わるの待ってたりもしたし」
未紅は肩下まである自分の髪の先をつまみ、それを弄び始める。
「そして偶然を装って帰り間際にバッタリ会うふりして。西脇くんは優しいから、そうするといつも家まで送ってくれた」
その当時の事を思い出したのか、つまんだ毛先を見つめる未紅の眼差しはとても柔和なものになっていた。そして未紅は静かに問う。
「私、倉沢さんは西脇くんのことを好きじゃないと思ってた。でも中学の時はそうだったよね?」
未紅に確認を求められた桃乃は沈黙する。
投げかけられた問いは決して詰問調では無かったが、「いいえ」と答える選択を最初から完全に否定している口調だった。だからこそ確かにそれが事実だったとしても、冬馬のことが大好きな今はその問いにどうしても頷きたくない。
「でもさ」
桃乃から返事が戻ってこないため、未紅は冬馬との思い出の続きを語り始める。
「西脇くんは倉沢さんしか見えてない状態だったから中学の時は告白を諦めたんだ。その代わり、今年のバレンタインに西脇くんにあげたチョコと一緒に、一昨日の私の誕生日に会ってほしいって手紙を入れたの。このぐらいの時期まで来れば、西脇くんも倉沢さんをもう諦めているんじゃないかなぁって計算もあったんだよね、実は」
ようやく頬の熱が少し落ち着いてきたのを感じた桃乃は、ここで再び未紅にそっと視線を送る。自分に視線が向けられたのを視界の端で認識したのか、未紅は決してつまんでいる毛先から視線を外そうとしない。
「だからこの間野之山くんたちから西脇くんと倉沢さんが付き合ってるって教えられて驚いた。でも、やっぱり自分自身でそのことが本当かどうか確かめたかったから、西脇くんの家に行ったっていうわけ。……本当に西脇くんから一昨日のこと、何も聞いてないの?」
「うん」
「じゃあ、私が倉沢さんの次の存在でもいいって言った事も知らないんだ?」
「えぇっ!?」
その衝撃発言に、桃乃は驚いて身体ごと未紅に向き直る。
「それ、どういうことっ!?」
勢い込んで尋ねる桃乃に、未紅は素っ気無い口調で答える。
「私を二番目の存在にしてほしいって西脇くんに頼んだの」
「とっ、冬馬は何て言ったの!?」
「……知りたい?」
「知りたいっ!」
ここでとうとうたまらずに未紅が吹き出した。
そして「倉沢さん、必死すぎ」と茶化すと、その後の展開を包み隠さず話し出す。
「西脇くん、最初はすごくビックリしてた。だけど、今は倉沢さんを大切にすることしか考えてないってキッパリ断られた」
それを聞いた桃乃の呼吸が一瞬止まる。
右手の中で包んでいたペンダントがその拍子にまた掌にくい込んだが、今回はなぜか痛みを感じなかった。それよりも、冬馬の選んだ答えとどこまでも真っ直ぐな自分への想いに、愛おしさと喜びで胸が震えだし始める。
「でもね、思いっきり断られたけど、なんかその答えがすごく西脇くんらしくていいなぁって思った。だから私も素直に納得できたし、これでもう完全に西脇くんのこと、諦められるとも思った。だから倉沢さんが心配するようなことは何もない。大丈夫」
そう言うと未紅は小さく口角を上げたが、すぐにまた表情を変える。
「でも、ちょっと西脇くんヘンだった。倉沢さんと付き合えているのになんかイライラしている感じがした」
冬馬の様子を聞き、桃乃の疑念が蘇る。
「それは私も感じているの……」
「そうなんだ。ずっと前から?」
「ううん、ここ最近かな」
「心当たりはないの?」
「うん……」
桃乃は再び視線を落とす。
「じゃあ直接聞いてみるしかないね」
解決策というにはあまりにもストレートな方法を提示し、未紅は片手を頬に当てる。
「でも私がこうしてアドバイスするのも変な感じ。私一応失恋してる側なんだけど」
「あっ…、ご、ごめんなさい!」
慌てて謝る桃乃に未紅は微笑を浮かべて小さくかぶりを振る。
「ううん、いいんだ。それより今日は西脇くんと会わないの?」
「うん。今日はバスケの朝練があるって言ってたから」
「西脇くん、高校でもバスケしてるんだ? 西脇くん、上手かったもんね」
「うん!」
―― 冬馬への想いが体中の隅々にまで満ち溢れてくる。
未紅の告白をきっぱりと断っていたこと、そして一昨日の夜についた嘘は自分自身を守るための嘘ではなく、桃乃を心配させないための嘘だったこと。そこまで自分を想ってくれている冬馬に、あらためて心の中に感動の念が湧き上がってくる。
どうか早く来週になりますように──。
霧里高原への旅行を待ち望む桃乃の心は軽やかなものになっていた。
ベンチから立ち上がった時、桃乃が手にしていた携帯電話が鳴り始める。
軽く小首を傾かせ、未紅が尋ねた。
「もしかして西脇くんかな?」
「うん、そうかもしれない!」
今すぐ冬馬と話がしたい。声が聞きたい──。
桃乃は急いで携帯電話を開く。
しかし点滅する液晶画面に表示されていたのは冬馬ではなく、要の名前だった。