たとえ元には戻れなくても
比良敷川の花火大会も終わり、週末が明ける。
夏季休暇中とはいえ週の始まりでもある月曜日のせいか、宰条大学のキャンパスにはそこそこの数の学生の姿が見受けられた。
このキャンパス内を十字に分断する歩道の上を、一人の少年が歩いている。細身のジーンズに半袖のシャツをラフに羽織っているが、その色が黒なのであまり涼しげには見えない。
少年は、この敷地内のどこに自分の目指す場所があるのか明らかに分からない様子だったが、体裁を気にしているのか、不必要に何度も周囲を見回すのをためらっているようでもあった。俯き加減に歩き続け、時折小さく顔を上げて長い前髪の隙間から周りの景色を確認する、という行為をひたすらに繰り返している。
そこへキャンパス内を横断しようとしていた加賀美 孝太郎が通りがかり、目の前を歩き去ろうとしている少年の横顔を見て、足を止めた。
「……お?」
孝太郎はしばらくその場で長考してたが、やがて瞳孔をわずかに開くと少年の背後に向かって大きな声で呼び止める。
「おーい! もしかして裄人の弟くんじゃないかー!?」
その呼びかけに少年の足が止まった。
振り向いた少年の顔を見て、孝太郎は「やっぱりか! ……あっ! そういえば違うんだったな! 悪い悪い!」と勝手に自己完結し、少年に向かって急ぎ足で歩を進める。
「君の名前なんだったっけ?」
「……柴門 要です」
孝太郎に呼び止められた要は無表情で自分の名を口にした。要の名を聞いた孝太郎は大きく頷きながら相好を崩す。
「そうだそうだ! 要くんだったな! いや~、この間は俺らの合コンに出てくれてありがとうな!」
孝太郎は要のすぐ側にまで近づくと左肩に手を乗せる。
「俺の事、覚えてるか?」
「加賀美さんですよね」
話を早く終わらせたいのか、要は単刀直入に孝太郎の姓を口にする。すると途端に孝太郎は喜色満面になった。
「俺の名前まで覚えてくれてんのか! やっぱ俺って目立つんだなぁ~!」
よほど嬉しかったのか、孝太郎の手に力がこもる。
「俺さ、最初は君のこと本気で裄人の弟だと思ってたよ! でも後で裄人から事情聞いて驚いたのなんのって! だけど君のおかげで合コンも大盛況だったし、ホントありがとうな! 感謝感謝だよ!」
「いえ」
馴れ馴れしく肩に置かれた手が気になる要は、多少つっけんどんな物言いで視線を逸らした。
「で、要くんはここで何やってんの? そういえば制服着てないけど高校もまだ休みだっけ?」
「裄人さんはどこにいますか」
後半の質問には答えず、要はそう一言だけ口にした。
「裄人?」
「朝、携帯にメールしたら今日は大学に行くって言ってたので」
「裄人は今ゼミに出ているからすぐには会えないぜ?」
孝太郎は左手首にはめているシルバーの腕時計に視線を落とす。
「しかもさっき始まったばかりだから、終わるまで後一時間はかかるはずだな」
「そうですか……」
要の声が沈む。
その落胆振りを見た孝太郎の干渉癖がうずき出した。昔から困っている人間を放っておけない性格なのだ。
「じゃあ要くん、裄人を待つ間、暇つぶしに俺と熱く語らないか? 」
孝太郎は要の右肩にも手を乗せ、やや強引に正面から向かい合う姿勢を取った。
「語るって何をですか」
勝手に真正面に回り込まれた要の表情には、先ほどよりも明らかに不快な色が強く表れている。しかしその程度のリアクションでは、思い立ったら一直線の孝太郎にはまるで通じない。孝太郎は憎らしいほどに茶目っ気たっぷりの表情で、
「もちろんこの間の合コンの件に決まってんじゃんっ!」
と、ふざけた宣言を高らかにする。
当然、要は拒否をするつもりだった。
だが目の前の孝太郎の笑顔があまりにも屈託なく、そして人懐っこいものだったので、どのように上手く断れば角が立たないのかを考えたためについ返事が遅れてしまった。
「じゃああそこに座って待ってろよ! 俺、飲み物買ってくるからさ!」
元々ポジティブ思考が強めの孝太郎は要の返答が無い事を許諾と受け取ったようだ。その場から少し離れた木陰の下にある芝生を指差すと、要に背を向け、近くに設置してある自販機へと一目散に駆け出してゆく。
孝太郎が着ている真っ白なTシャツの背が要の視界に入ってきた。
そこには白地を染め抜く黒の明朝体で、 “ 義侠心 ” と堂々たる主張が、縦に大きくプリントされている。
その背中のロゴを見た要は、傍目からも分かるくらいにはっきりと肩を竦めた後、おとなしく指示された場所へと歩き出した。
「ほら座れよ!」
自販機で炭酸飲料の缶を二本購入した孝太郎は、早足で戻ってくると、先に着いていた要よりもいち早く芝生に腰を下ろした。続いて渋々腰を落とした要に缶を差し出すと、いきなり会話を始める。
「この間の合コンでさ、要くん、桜子にメチャクチャ絡まれてたじゃん?」
その節はご愁傷様でした、と前置きし、要の返答を待たずに孝太郎は話を続ける。
「でさ、俺、君の事が心配で時々会話をチェックしてたんだけど、要くん、途中でなんか面白い事言ってた時があったよな」
思い当たる節が無かったのか、俯き気味だった要の眉がわずかに曇る。
「面白い事なんて言ってないですが」
「言ってたって! 桜子がさ、 “ どういう女の子が好みなの? ” って君に聞いた時、 “ 俺の邪魔をしない女 ” って答えてなかったっけ? なんか俺、その答えが妙に印象に残ってんだよね。あれってどういう意味なわけ?」
今度は要の返答を待った孝太郎だったが、なかなか返事が戻ってこないのでしびれを切らし催促をする。
「おいおい、だんまりは無しだぜ? 俺らは合コンに一緒に出た仲なんだからさ。いわば戦友みたいなもんだぞ?」
「上手く説明できる自信が無いのでパスで」
「ハハッ、軽くかわされちまったか」
芝生の表面に片手をつき、孝太郎が明るく笑う。
「そういや話は変わるけどさ、女の思考って、たまに本気で理解不能の時が無くねぇ?」
炭酸飲料缶の中身三分の一程を一気に喉に流し込み、その清涼感の力を借りて孝太郎は最初の声色を高めの設定に変える。
「 “ バイトで忙しいから会えないってなんなのよ! バイトと私、どっちが大切なわけ!? ” とか勝手に怒って詰め寄ってきたりとかさ。マジで全然意味分かんねぇし。ま、面倒な事になるからそんな事わざわざ言わないけどさ」
なんたって女を怒らせたら後が怖いしな、と孝太郎は本音を付け加える。
「それにそういうのってさ、同じ天秤にかけるもんじゃないと思わねぇ? 比べるようなもんじゃないと思うんだけどなぁ……。要くんはどう思う?」
要は明らかに気乗りしていなさそうな口調で「そうですね」と答えた。
しかし調子のいい孝太郎にその微妙なニュアンスなど読み取れるはずもなく、「そうだろ!? ここにも同士発見だな!」と仲間を得たとばかりに喜びを表す。するとここまで聞き役に徹していた要が何かを決意したのか不意に顔を上げた。
「一つ聞いていいですか」
「おっと、俺に関する質問だな? OK、何でも聞いてくれよ!」
要は孝太郎からわずかに視線を外したままで尋ねる。
「加賀美さんは自分が間違っていることに気付いたら、相手に謝りますか?」
「……へ? 何だ急に?」
孝太郎はポカンと大口を開けた。
呆気に取られたその反応に、要は口に出した事を後悔するような表情になった。
数秒遅れで要の表情の変化の意味に気付いた孝太郎は、「とっ、時と場合、そして相手によるんじゃねぇ?」ととってつけたような早口で答えた。
その返答を聞いた要は無言で芝生に視線を深く落とす。
自分の曖昧な答えが要の煩悶を解くものではなかったことを知った孝太郎は、フォローのつもりでその話題を再度掘り下げた。
「あ! 補足で追加する! 俺の場合だけど、相手が女の子なら即行で謝るな!」
だがわざとらしいくらいに陽気な口調にしたのがかえって逆効果になったのか、要は何も答えない。慌てた孝太郎は焦りのフォローを再度口にした。
「え、えーと……。ま、何だ、……たっ、たぶん、裄人も俺と同意見だと思うぜ?」
裄人の名前が出たためか、ここでようやく要が沈黙の殻を破り、再び言葉を発する。
「たとえもう元には戻れないとしてもですか」
「元に戻れなくても?」
軽いノリで答えていた孝太郎の表情が変わる。
「おいおい、なんだか俺が思ってるよりだいぶ深刻そうだな……」
軽薄モードから真剣モードに切り替え、要の話を真面目に聞こうと孝太郎が姿勢を正そうとした時、不意に目の前の芝生の一部が黒く変色した。そしてその原因がスラリとした長い影だと孝太郎が気付く前に頭上から冷たい声が降って来る。
「あら……、興味深い面子が揃ってるじゃない」
「げっ! お前今日来てたのかよっ!?」
相当驚いたのだろう、慌てた孝太郎が思わず後にのけぞる。だが咄嗟に後ろに両手をついたために、芝生に背中から倒れこむことは危うく免れたようだ。
「お久しぶりね、冬馬くん」
孝太郎を完全に無視し、スレンダーな腰に手を当てた安部桜子は挨拶の言葉を口にする。
その言葉を投げかけた視線の先には要一人だけが捉えられていた。