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ひつじの片思い 【 前編 】



「じゃあ冬馬、また明日ね」

「あぁ」


 その表情にまだ硬さをかすかに残し、冬馬は小さく片手を上げて家の中へ消えていった。すでに扉が閉められた西脇家に目をやり、桃乃は小さく吐息をつく。

 玄関先のポーチライトが降り注いでくる光は暖かな色なのに、その光に照らされた桃乃の表情は浮かない。


 最近の冬馬が何かに苛立っていることは分かっていた。

 だが桃乃にはその原因にまったく心当たりがない。

 夏の夜風が路地の間を滑るように吹き抜け、浴衣の袂を小さく揺らす。



( ……冬馬、どうしちゃったんだろう…… )



 やるせない気持ちで上空の月を見上げる。

 灰色に染まった積雲が霞んだ月の朧な明かりを遮り、桃乃の全身にゆっくりと淡い影を落とし始めていた。



「お姉ちゃんってば遅ーいっ!」



 桃乃が玄関に入った途端、一人気を揉んでいた様子の葉月が一目散に駆け寄ってくる。


「大変! 大変! とにかく大変なんだから!」

「どうしたの葉月?」

「いいからちょっとあたしの部屋に来て! 早く急いでっ…イタっ!」


 焦るあまり、つい自分の舌先を勢い良く噛んでしまった葉月が少々大袈裟に顔をしかめる。


「イタタタ……」


 しかし葉月は咄嗟に押さえた口元からすぐに手を離し、その小柄な身体から出せる精一杯の力で桃乃を二階へ続く階段へと押しやった。そして階段途中にある小窓で一旦足を止めて身を乗り出すようにして外を眺め、


「まだ出てきてないっ」


 と叫ぶ。


「葉月、 出てきてないって誰の事?」

「いいからまずはあたしの部屋に入ってから!」


 葉月はそう叫ぶと桃乃の横をすり抜けて先に二階へと上がった。そして「早く早く!」と桃乃を急かす。尋常ならざるその葉月の様子につられ、桃乃も急いで後に続いた。


 葉月は自室に桃乃を入れると窓辺に駆け寄り、素早い動きで開け放っていた窓のカーテンを半分ほど閉めた。そして網戸越しにもう一度外の様子を確認した後、一気に話し出す。


「先週さ、さとちゃんがうちにお泊りに来たでしょ? あの時さ、冬馬兄ちゃんにバレンタインデーのチョコを持ってきた女の人がいっぱいいたんだよ、って話をさとちゃんがしたの、お姉ちゃん覚えてる?」


 桃乃は妹のこの問いに返事をしなかった。

 しかしそれは桃乃が覚えていなかったからではなく、この質問があまりにも不意打ちで、しかも気分の良い話では無かったからだった。

 だが無言になった桃乃を見て、この話を覚えていないのだと誤解した葉月はもう一度順を追って話し出す。


「あのねっ、今年のバレンタインデーにね、あたしとさとちゃんが家の前で遊んでたらさ、冬馬兄ちゃんにチョコ持ってきた女の人がいっぱいいたの。その中でね、自分で渡さないであたしとさとちゃんにチョコを渡すように頼んできた人がいたの。その女の人がね……」


 葉月はここで一旦言葉を切るとスゥと大きく息を吸い、小柄な身体を揺らして一息で言い切った。



「さっき冬馬兄ちゃんの家に入っていくのをあたしこの窓から見たのっ!!」



「えっ…?」


 桃乃は驚きのあまり、そう一言答えるだけで精一杯だった。

 そして続けたくても続かない言葉の代わりを務めるかのように、桃乃の全身をひんやりとした負の感情がゆっくりと覆いつくし始める。


「絶対にあたしの見間違いなんかじゃないよ! だって髪型だってその時と同じだったし、絶対にあの時の女の人だったよ! お姉ちゃんどうする!?」

「ど、どうするって……」


 桃乃はそう呟くと、混乱しかけている今の気持ちを整理させるかのようにゆっくりと歩を進め、窓辺に近づいた。


 カーテンの隙間から垣間見える西脇家の前は暗闇と静寂に包まれている。

 だが皮肉な事に開け放たれた窓から侵入してくる夜気は桃乃の気持ちを落ち着かせることなく、逆に震えさせるようなざわめきを呼び覚まさせていた。





 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 たった今、自分の取った桃乃への態度を心の中で悔やみながら冬馬は自宅へと入る。

 桃乃が要と手を繋いでいた光景は確かに不快ではあったが、苛立つほどのことではなかったからだ。

 そして苛立つ原因は別な場所にあることもすでに認識しているからこそ、自分の度量の狭さが情けなかった。


 携帯を握り締めた左手に力が入る。

 部屋に戻って桃乃にメールを入れよう、と思いながら冬馬は玄関先で靴を脱いだ。そして眼下に見慣れない女物の靴が置かれてあることに気付いた時、一階のリビングから母の麻知子が出てくる。


「お帰り。あんたにお客さんが来てるのよ」

「客?」

「そ。杉浦さんって女の子」

「スギウラ?」


 その名に心当たりの無い冬馬の表情に戸惑いの色が浮かぶ。しかし麻知子はそんな息子の様子に構わずに話を続けた。


「あんた、今日杉浦さんと会う約束をしてたんだって? ダメじゃない、約束すっぽかしたら! ……とはいえ、桃乃ちゃんで頭が一杯な最近のあんたならあり得ることよねぇ~?」


 麻知子は意味深な表情を浮かべ、少々不自然なくらいに語尾を大きく上げて冬馬をからかった後、また真顔に戻る。


「それでもうそろそろ冬馬も帰ってくる頃だと思ってさ、今あんたの部屋に杉浦さんを上げてるから、約束すっぽかしたことをちゃんと謝りなさいよ? そして謝ったらもう夜も遅いから家まで送ってあげなさいね」


 麻知子はそう言うとまたリビングへ戻っていった。一方、まだ状況がよく把握できていない冬馬はしばし玄関先で黙考する。



( スギウラ……? なんとなく聞き覚えはあるような…… )



 冬馬は頭の中で何度もその名を復唱してみた。

 だがもう少しで呼び戻せそうな記憶なのに、何度トライしてみてもそれは後一歩のところで止まってしまう。

 とうとう思い出すことを諦めた冬馬はとりあえず部屋に行ってみることに決め、二階へと続く階段の手摺りに右手をかけた。 



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