散った夜華と一つの嘘 < 3 >
桃乃を要に託した冬馬は、駆け出していった沙羅を探してひたすらに走った。
履きなれない下駄のためにすぐに見つけられると思っていたが、人込みが邪魔するせいもあり、消えた後ろ姿はなかなか見つからない。
「沙羅ーっ!」
沙羅が今日着ていた浴衣は濃紺色。暗い夜道では闇に同化して見つけ出しにくい。
冬馬は沙羅の名を叫びつつ、人込みとは反対の方角へと走り続ける。少しずつ、背後で鳴り響く花火の打ち上げ音が段々と遠くなっていく。
「沙羅ぁーっ!」
口元から歯軋りの音がかすかに漏れる。
どうしてもっと早く今の沙羅の行動の意味に気付いてやれなかったんだろう――。
要が椎名杏子と付き合うことになった、と告白した以降も中庭で会う沙羅はいつも笑顔だった。
だがそれは自然を装った、無理をして作ったものだ。
そう、俺にはそれが分かっていたのに――。
後悔の気持ちが大きな渦となって胸の中に湧き起こる。
そしてそれが冬馬の心臓の鼓動をさらに激しいものにさせていた。
河川敷を抜け、外灯が多く立ち並ぶ通りに出た時、前方から早いリズムで下駄の鳴る音がかすかに聞こえてきた。その軽やかな音に引き寄せられるかのように冬馬の走るスピードが増す。
「おい沙羅ッ!」
再び沙羅の名を叫ぶと、即座に前方の下駄の音は止まった。冬馬が一気に差を詰める。
そしてようやく冬馬が沙羅に追いついた時、沙羅は煌々と明かりのついた自販機の壁に背中を預け、息を弾ませていた。
「とっ、冬馬っ? 一体どうしたの?」
冬馬も同じように荒い息を吐きながら沙羅の前にまで歩み寄る。すると自販機の照明に照らされたその表情に、驚きの感情が浮かんでいるのがはっきりと見て取れた。
「……沙羅、お前たこ焼きなんてどこで買うつもりだったんだよ」
冬馬がそうぶっきらぼうに尋ねると、
「ゴメン」
と頬を染め、沙羅が恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。
「実はさ、いきなり要が現れたからちょっとテンパッちゃったんだよね……」
「悪い、俺が要を連れてきちまったから…」
「ううん! 全然いいのいいのっ!」
沙羅は少し強めの口調で冬馬の言葉を強引に遮った。
そして一度真っ直ぐに姿勢を伸ばすと、走り続けたせいでわずかに傾いてしまった帯の羽を後ろ手で直す。
「冬馬が気にすることなんて何もないよ! だってこれはあたしが乗り越えなくっちゃいけないことなんだもん! でもね……」
「でも?」
「うん……」
そう言うと沙羅は小さく口元を上げて足元に視線を落とし、右の下駄から片足を抜いて鼻緒の部分からゆっくりと指を外す。
「……たださ、片思いが終わったからって、急に要への気持ちが全部一気に消えちゃうわけじゃないんだよね。だからそこがあたしもちょっとツラかったりするんだけど……」
そう呟くと沙羅は大きく息を吐き、自販機に再び身体を預けた。そして冬馬に視線を向け、「ねぇ冬馬。この前、要のライブに行ったでしょ?」と唐突に話題を変える。
「あ? あぁ…」
一応頷きはしたが、この脈絡の無いいきなりの話題変更に、冬馬は虚を衝かれたような表情を浮かべる。
「あの時、 SPLASH BILLOW が演ったコピー曲ってさ、最近ヒットしたやつばかりだったじゃない? でもね、あたし、そのコピー曲の中で、全っ然聞いたことのない曲が一曲あったんだよね。冬馬はどうだった? 全部分かった?」
そう言われ、冬馬も先日のライブの曲目を記憶から呼び起こしてみる。すると沙羅の言うように確かに思い当たる曲があった。
「そういえば俺も分からない曲が一曲あったな」
「でしょ? だからあのライブの後に要に聞いたんだ。その曲が何ていうバンドの曲なのか」
「あいつ教えてくれたのか?」
「うん。教えてくれたよ。 wilderness っていうんだって」
と沙羅は明るく言った。そして「それでね」と呟いた後、裸足の右足を見たままでその話を続ける。
「そのバンドは要が中学生の時に偶然通りがかったライブハウスで出会ったバンドでね、今はもう解散しちゃっているみたいなんだけど、要の音楽観を思いっきり変えちゃった存在なんだって」
「へぇ……それは知らなかったよ」
「その時の要の話し方聞いてたらね、そのバンドが本っ当に心から好きみたいなんだよね。そうだなぁ…、あれはもうね、崇拝と言ってもいいくらいのレベルだったなぁ」
「崇拝? そりゃスゴいな」
「うん、スゴいよね」
と言うと沙羅はここで一旦言葉を切り、再び下駄に足を差し入れるとそれで地面をゆっくりとなぞり始める。
「だからあたしね、要には内緒でそのバンドのCDをぜーんぶ買って、家で何度も何度も聴いたの。そしたら要のことをもっともっと知ることができるんじゃないかな、って思ったから……」
ジャリッ、ジャリ、という音と共に不可思議な模様が地面に描かれ始めた。
その音が止んだ時、沙羅が再び呟く。
「だから要に振られてから、そのバンドの曲を聴くのはもう止めようと思ったんだ」
ライトに照らされたこの場所でなければ多分気付かなかっただろう。
そう呟いた時の沙羅の瞳に、わずかだが涙が浮かんでいるのを見てしまった冬馬は、涙に気付いていない振りをするためにそっと視線を外した。
「でもね、結局今もまだ時々聴いちゃってるんだ。だからさ、やっぱりまだあたしは要のことを好きなんだなぁ、って思い知らされてる真っ最中だったりするんだよね……」
「沙羅……」
「あ、でもね、さっきも言ったけど、これはあたしが吹っ切らなくっちゃいけないことだから頑張るよ! モモや冬馬にはもうちょっとの間心配かけちゃうかもしれないけど…」
その時、白色に彩られていた後方の色彩が変わった。
同時に河川敷の方から群集の大歓声も聞こえてくる。
「あっ!!」
そう短く叫んだ後、沙羅が呆然とした声で呟く。
「……ど、どうしよう……打ちあがっちゃったよ……」
「何がだ?」
「あの花火……」
沙羅が後悔を色濃くさせた表情で冬馬の肩越しに夜空を指差す。
「あの花火ね、ロマンスフラワーって言って、恋人同士で一緒に見るとその二人は永遠に結ばれるっていう噂があるの。今日これをモモと冬馬に一緒見てほしかったのに……」
冬馬が沙羅の指先を辿って河川敷の方を振り向くと、三段階に分かれた大きな花火が夜空へと還っていくところだった。ほんの一瞬だったが、消えていく三色の光の軌跡が残影として冬馬の目に鮮やかに映る。
「ごめん冬馬……。あたしのせいでモモと一緒にあの花火が見られなくて……」
沙羅の声が沈痛に沈む。
そんな沙羅に向かって、冬馬は必要以上に陽気な口調でニッと笑いかけた。
「そんなこと気にすんなって! また来年があるじゃん!」
「……ありがと冬馬。冬馬は優しいね」
沙羅の瞳が大きく緩む。
「今頃知ったのかよ? ところで沙羅、その暗号みたいな模様はなんだ?」
「あ、これ?」
沙羅はたった今自分の下駄の先で描いた、不可思議な地面のマークに目を落とす。
「これね、要が大好きなそのバンドのロゴマークなの。いつのまにか見ないでも描けるようになっちゃったんだよね。スゴイでしょ?」
誇らしげな沙羅に呼応するように冬馬も白い歯を見せて頷くと、「戻ろうぜ?」と声をかける。
「うん、戻ろっ! でも結局たこ焼き買えなかったからちょっぴり気まずいなぁ……。その辺のコンビニに売ってないかな?」
「いいってそんなことしなくても。それよりお前が完全に吹っ切れるまで俺や桃乃がしっかりフォローすっからさ、安心しろよ。な?」
背を預けていた自販機から勢いよく身を離し、「ありがと冬馬! あたし、頑張るよ!」
と沙羅が答える。その口調にはいつもの沙羅らしさが完全に戻っていた。