すれ違った心 <3>
一夜が明けた。
冬馬によって両肩につけられた桜色の痣はさらに薄い色に変化し、この分なら今日中にはほとんど目立たなくなるくらいにまで回復しそうだった。
部屋の壁に取り付けてある大きな姿見に映るその痣が、昨夜の冬馬の異様な様子を桃乃の記憶から呼び覚ます。しかし、真っ白いカッターシャツに袖を通し痣が完全に隠れてしまうと、昨夜の出来事は本当にあったことなのだろうかという半信半疑の気持ちに変わっていた。
( そういえばあんな冬馬の顔、初めて見た…… )
壊れそうなくらいの力で桃乃の両肩を掴み、柴門要に近づくなと叫んだ冬馬の顔は、今までずっと近くにいた幼馴染の桃乃ですら見たことがない表情だった。
朝食を取り、身支度を整えた桃乃は昨日と同じように家族に出かける挨拶をして玄関の外に出る。
家を出てすぐに桃乃の顔が強張った。
玄関先の道路に冬馬がいたのだ。
「……おっす……」
今朝の冬馬の声はいつのも声とは明らかに違う、気落ちした声だった。桃乃が出てくるのを待っていたらしく、クロスバイクに乗っている。
昨夜のことは本当にあったことではないのではないかという気持ちでいた桃乃だったが、申し訳なさそうな冬馬の視線がその気持ちを打ち砕いた。
「……おはよ」
型通りの挨拶を返し、玄関の門を開けて道路へと出る。
そのまま駅の方向へと歩き出そうした桃乃を謝罪の言葉が引き止めた。
「昨日は悪かった」
一瞬だけ足を止め、感情を押しとどめた声で答える。
「……いいの、もう」
感情の起伏がまったく感じられないその返事を聞き、冬馬の顔に浮かんでいる後悔の色がより一層濃くなる。
「あ、あのさ、駅まで送っていくよ」
「いいの。歩いていく」
「昨日の詫びの代りに……さ。な……?」
もう一度、「いいの」と冬馬の申し出を断ろうとした桃乃だったが、リビングの窓から千鶴が微笑みながら見ているのに気付くと断るのを止めた。昨日、千鶴から「明日もし冬馬くんがまた迎えに来てくれたら今度はちゃんと一緒に行きなさいね。せっかく毎日来てくれているのに」と言われていたからだ。
家の中から手を振っている千鶴に不信に思われないように作り笑いを浮かべ、一度だけ手を振り返すと桃乃は仕方なくクロスバイクの荷台に腰をかける。そして「駅まででいいからね?」と小さな声で念を押した。
「……あ、あぁ」
本心はカノンまで一緒に行きたい冬馬だったがこうやって素直に後ろに乗ってくれただけでも良かったと思い直し、駅に向けてクロスバイクは走り出した。
二人の家から駒平の駅は自転車なら五分ほどでついてしまう距離だ。
小さな抵抗の返事を一つしただけで後はおとなしく後ろに乗った桃乃の気持ちを推し量るかのように、クロスバイクはゆっくりと低い速度で移動する。
冬馬が反省しているのは充分に分かっているのに、クロスバイクの後部で揺れに体を任せながらポツリと桃乃は呟いた。
「……冬馬、変わったよね」
思わず冬馬は荷台の方を振り返る。
「変わった……? 俺が? どういうことだよ?」
桃乃は冬馬の問いには答えずにもう一度同じことを口にした。
「変わったよ、冬馬」
たぶん昨夜自分が取り乱してしまった事を言っていると確信した冬馬は、それ以上追求せずにまた前方に視線を戻した。
沈黙の中、クロスバイクは走り続ける。
しばらくの間二人の間に起った音らしい音といえば、クロスバイクの車輪が低速で回転する音だけだった。
やがて駒平駅の前に着くと冬馬はブレーキをかけて桃乃の願い通りに一旦クロスバイクを止める。そして桃乃が急いで荷台から降りる前にまるで宣言するように言った。
「俺は何も変わってないぜ?」
それを聞いた桃乃は肯定も否定もしない。
代りに荷台から降りて礼を言った。
「送ってくれてありがと」
桃乃からお礼を言われた冬馬はまたためらいがちな声に変わる。
「な、カノンまで乗っていかないか?」
「ううん、ここでいい」
「桃太郎はまだ怒ってるんだな……」
クロスバイクに跨っている冬馬は明らかに落胆していた。
その言葉を聞いた桃乃は、今まで聞きたくても聞けなかった事を今ここで思い切って聞くことにする。
「怒ってないけど、一つだけ教えてほしいことがあるの」
要との事をもう一度改めて説明したかった冬馬は安堵の様子を見せる。
「答えたら後ろに乗っていくか?」
「……考えてみる」
とだけ答え、正面から冬馬に向き直る。
「聞きたいことって昨日の話しのことだろ?」
「ううん、違う。冬馬、どうして私のことを桃太郎って呼ぶの? 二年前まではちゃんと私の名前呼んでくれていたのに」
自分の予想とは全然違ったその質問に冬馬の顔に驚きの色が走る。
「教えて。そしたら昨日のことは忘れるから」
しかし冬馬はクロスバイクのハンドルを握ったまま微動だにせず、その質問に答えなかった。
そんな冬馬にしびれを切らした桃乃は自分の想像している答えを口に出す。
「……私のことバカにしてそう呼んでるんでしょ?」
冬馬はハンドルから手を離し、慌てたように叫んだ。
「ちっ、違うッ!」
「じゃ、どうして?」
再び冬馬は沈黙した。
黙って向かい合う二人の横を通勤や通学の人々が足早に通り過ぎていく。
「言いたくないならいい……。冬馬、もう朝に私を迎えに来ないでね?」
最後にそれだけを一方的に伝えて、桃乃は冬馬に背を向ける。そして一度も振り返らずに改札口を通り、駅構内へと消えていった。
答えを言えない以上引き止めることも出来ず、冬馬はクロスバイクに跨ったままで離れて行く桃乃の背中を見送る。
やがて揺れる艶やかな黒髪が自分の視界から完全に消えると、桃乃の知りたがっていたその答えを自分自身の胸の中だけで呟いた。
( お前を意識し過ぎていて気恥ずかしいからだよ )
この答えはどうしても言えなかった。
しかし桃乃の事を「桃太郎」と呼ぶようになってから、自分達の間にすれ違いの溝が出来ていることは間違いのない事実で、このままでは自分は桃乃から完全に嫌われてしまう、という小さな焦りの芽がこの時初めて冬馬の中で生まれる。
桃乃を乗せた電車が目の前を走り去ってゆく。
それをじっと見つめながら、冬馬は自分に決断の時が訪れているのを感じていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
車内の窓から冬馬がこの電車を見送っているのが見える。
つり革に掴まっている桃乃の胸がチクチクと痛み出した。「カノンまで送る」という冬馬の誘いを冷たく断った自分がとても非情なように思えたからだ。
なぜ自分のことを「桃太郎」と呼ぶのか、その理由は分からなかったが、少なくとも昨夜の事に関しては冬馬はきちんと謝罪し、充分に反省している様子だった。
それなのに「明日から迎えに来ないで」などと冬馬を思いきり傷つけるような台詞まで置いてきてしまったことを考えると桃乃の胸の中に後悔の気持ちが湧き起こり始める。
もし時間を戻せるとしたら、素直にカノンのすぐ側まで冬馬に送ってもらっていただろうなと思いながら桃乃はつり革を握り直す。
その後悔の念は電車が一駅進む毎に大きくなり、桃乃は出来ることならすぐにでも先ほどの言葉を撤回し、今すぐ冬馬に謝りたくなっていた。毎朝、自分を迎えに来てくれていたことに決して他意はなく、純粋な厚意だということを桃乃自身がよく分かっていたからだ。しかしすでに走り出してしまっている電車は今の二人の距離を縮めるどころか、逆に遥か彼方に引き離してしまっている。
谷内崎駅に着くと、カノンまでの道のりを桃乃はいつも以上にゆっくりとしたペースで歩き始めた。
あのオレンジの自転車のペダルを漕ぐ持ち主が自分に追いついてくれるように。
カノンの正門がもうすぐ見えてきてしまう。しかしまだ冬馬は現れない。
後ろを振り返ってみても通ってきた早朝の通学路には誰もいない。
またしばらくの間、ゆっくりと歩いた。そしていっそのこと、この場所で冬馬を待っていようかと思った時、やっと背後から自転車の音が聞こえてきた。
なぜその音が聞こえてきた時にすぐに振り返らなかったのだろう、そしてどうして声をかけなかったのだろう、と桃乃はすぐに後悔することになる。
冬馬の方からきっとまた声をかけてくれる、そう思っていた桃乃は、後ろからクロスバイクの車輪の回転する音が聞こえてきているのに、前を見たまま気付かぬふりをして歩き続けていたのだ。
真横を通り抜けた風に、桃乃の髪がフワリと広がる。
風を巻き起こしたクロスバイクは一瞬で桃乃を抜き去り、ペダルを漕ぐ冬馬の大きな背中がみるみる内に遠ざかってゆく。
自分に声をかけずにそのまま追い越していったその姿を呆然と見つめる中、朝日に照らされたオレンジの車体はあっというまに視界から消え去って行った。
さっきよりも大きく胸がズキンと痛み、そしてやっと桃乃は気が付く。
後ろからクロスバイクの音がどんどんと近づいているのに一度も振り返らなかった自分の背中が、冬馬から見ればそれがたぶん “ 無言の拒絶 ” に見えていたことに。