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白い呪縛 【 前編 】



 カノンの夏期講習が終了した二日後の土曜日。

 今夜は比良敷(ひらしき)の河川敷で花火大会がある。


 つい先ほどまで裄人と共に倉沢家を訪問していた冬馬は、自室に入ると明かりを点けてベッドに体を横たえた。点けたばかりの照明を見上げると天井から煌々と降り注ぐライトが両の網膜に突き刺さり、視界が白一色に染められる。その眩しさに目を細めた。



 ―― あの時の色と同じだ



 一切混じり気のない、無に一番近い色。

 視界に溢れる白色の光の向こう側に、雪原の中に一人立ちつくし、真っ白なコートを着た幼い桃乃の後ろ姿が透けて見えた。冬馬は下唇を噛み締めると、その幻影から逃れるように顔の前に片手をかざし、照明の光を遮る。

  

「なぁ冬馬」


 冬馬の後に続いて部屋に入ってきた裄人は、煙草の箱を両手で弄びながらベッド脇にあるデスクチェアーに浅く腰を下ろした。


「お前さ、おじさん達に今回の旅行を駄目だって言われたらどうしようかって内心ハラハラしていたんじゃないか?」


 からかうような響きが混じるその声に、わずかだが冬馬の眉根が上がる。

 冬馬の表情に不愉快さが浮かんだのとは対照的に、裄人は楽しそうに先を続けた。


「それに桃乃ちゃんもさっきおじさんの横ですごく不安そうな顔してたよな? ま、お前はそれ以上の顔をしてたけどさ」

「……しかし兄貴の口の上手さには毎度の事ながら感心するぜ」


 冬馬は皮肉たっぷりにそう切り返したが、裄人には届いていない。


「まぁ俺はそれだけが取り柄みたいなものだからね。でも冬馬はやっぱりさすがだよ」

「さすがって何がだよ?」

「しかし本当に鈍いなぁ、我が弟くんは!」


 裄人はしたり顔で人差し指をスッと真っ直ぐに立て、「お前の倉沢家の信頼度の高さだよ」と即答する。


「日頃の行いが良いせいだろうな。おじさんもおばさんも完全にお前を信用している口ぶりだったじゃないか」

「そうか……?」

「そうだって! まぁでもこれで無事に桃乃ちゃん()のお許しも頂いたし、俺も二人の引率者として安心して霧里に行けるよ。ホント良かったよな」

「あぁ」


 そう肯定はしたが、部屋の白色電光が浮かない冬馬の表情をくっきりと照らす。


「どうした冬馬? 随分テンション低いじゃないか」

「……別に」

「おいおい、お前、桃乃ちゃんと旅行に行けるの嬉しくないのか?」

「嬉しいに決まってんじゃんっ!」


 冬馬はそう叫ぶと素早くベッドから半身を起こし、裄人に向かって「当たり前のことを聞くなよ兄貴!」と吐き捨てるように言う。

 その気迫に裄人は一瞬驚いた様子を見せたが、再び顔に笑みを戻すと「そうだよな。そうに決まってるよな」と安心したように答えた。そしてデスクチェアーから立ち上がると、うっすらと紫紺を帯び始めた窓の外に目をやる。


「それより冬馬、早く行かないと花火始まっちゃうぞ?」

「分かってる。そろそろ行く」


 壁掛け時計に目をやりながら答えたその声にはまだ不機嫌さが滲み出ていた。


「桃乃ちゃん、今日は浴衣着てくるのか?」

「あぁ。そう言ってた」

「じゃあ今頃は浴衣の最終チェック段階かな? でもさ、女の子の浴衣姿って本当にいいよな。なんたって情緒があるよ」

 裄人はここで一拍置き、小さく髪をかきあげると声を落として呟く。


「……あーあ、俺も真里菜ちゃんと行きたかったなぁ……」


 その瞬間、冬馬が裄人の背に向かって鋭く視線を走らせる。

「なんだよ兄貴、真里菜さんと花火見に行かないのかよ?」

「行かないよ」

「前は行くって行ってただろ?」

「結局断られちゃったんだ」


 裄人は窓の外に目をやったままであっさりと言い放つ。


「断られた?」

「うん。他の予定が入っちゃったみたいでさ」

 それを聞いた冬馬の視線にさらに鋭さが増した。

「なぁ兄貴」

「ん?」

「もし真里菜さんが違う男と花火に一緒に行ってたらどうする?」

「えっ、真里菜ちゃんが他の男と?」


 振り返った裄人の顔にはわずかに驚きの表情が浮かんでいた。


「あぁ」

「いや、それは無いと思うよ?」


 驚きの表情とは裏腹にその返答には余裕が感じられた。発せられた言葉は確固としており、微塵の揺れも無い。


「今日は真里菜ちゃんのお父さんの誕生日なんだってさ。真里菜ちゃんのお父さんって今、単身赴任中みたいでさ、今回休みを取って帰ってくるから家族で食事に行くことになったんだって。だから断られたんだよ」


 しかしそれを聞いても冬馬は引かない。挑発するように語尾を強く上げる。


「そんなの本当かどうか分かんねぇじゃん? 兄貴にはそうやってもっともらしい嘘を言って本当は別の奴と出かけていたらどうすんだよ?」


 だがそれでも裄人の表情に変化は現れなかった。


「冬馬、やたらと人を疑うのは良くないぞ。確かにそれが本当かどうかは分からないけどさ、そんなのを一々疑ってたらキリが無いだろ? だから真里菜ちゃんがそう言うのなら、俺はどこまでも信じるのみですよ」


 そうサラリと言い返されて言葉に詰まった後、やがて冬馬は探るように尋ねる。


「……兄貴、真里菜さんの事がそんなに大事か?」

「もちろん! 前にも言っただろ? 俺さ、特定の女の子に対してここまでマジになったの初めてなんだ」


 そう裄人が即答した時、それまで張り詰めていた冬馬の表情がわずかに変わった。

 顔の表面にみなぎらせていた緊張が緩んだ冬馬に向かって裄人は微笑みかける。


「ま、というわけでお前は桃乃ちゃんと花火を楽しんでこいよ。俺は霧里高原まで楽しみを取っておくからさ。俺、お前と違って美味しいものは必ず最後にとっておくタイプだからね」

「……普通、美味いものは先に食うだろ」

「いや、それは違うね。一番のお楽しみは絶対に最後にすべきだよ」


 そう力説する裄人に冬馬は「何言ってんだ」と素っ気無く切り返す。


「その癖のせいで兄貴は子供の頃、しょっちゅう俺に食い物取られてたじゃねぇか」

「あぁそうだそうだ! そういや、お前にはよく取られてたよな!」


 自らの幼少期を思い出した裄人は愉快そうに笑い声を上げる。

 そして腕を組むと過去の足跡を振り返り、しみじみとした口調で呟いた。


「そういえば俺って本当に欲しいものは昔からなぜか手に入らないんだよなぁ……。子供の頃からそうだったよ」

「兄貴が?」


 その発言に片眉を上げた冬馬に裄人が「うん」と頷く。


「嘘言え。兄貴は今まで欲しいものは何でも簡単に手に入れてきたじゃんか」

「だからそれは違うって! 冬馬は俺を誤解しているよ。俺だって結構色んなことで日々悩んでいるんだからさ」

「兄貴は本気を出せばなんだって出来るじゃんか。ただその本気を滅多に出してこないってだけでさ」

「ははっ、俺はいつでも本気だよ? でもそこまで買いかぶられると兄としては少し嬉しいけどね」


 と面映げな顔で裄人が笑う。

 しかし何事もそつなくこなすこの兄と同じ屋根の下でずっと暮らしてきた冬馬は、今の裄人の言葉を信じることなど出来ない。もしこの兄が一度(ひとたび)本気を出せば、不可能なことなど何もないことが分かっているからだ。

 昔から裄人に対しそんな畏怖の念を抱き続けている冬馬は顔を背けて吐き捨てる。


「信じられねぇよ。いつも適当なことばかりいいやがって」

「頼むから信じて下さいって! じゃあ俺もそろそろ行こうかな」

「……兄貴もどこかに出かけるのか?」

「あぁ。今日は真里菜ちゃんにも振られちゃったし、孝太郎と男同士で寂しく遊んでくるよ」


 冬馬の肩を二度軽く叩き、「じゃあな」と言うと裄人は部屋を出て行った。

 一人部屋に残された冬馬は再びベッドに乱暴に腰を落とした。そして肺の中の空気を全部出し切るくらいにまで大きく息を吐く。




 ―― どうして最近またこんなに苛々するんだろう




 両手を組み合わせ、軽く額に当てて目を閉じる。

 長年の想いを告白し、桃乃に受け入れてもらえた頃は消えていた苛立ち。しかし一旦は意識の奥底に深く閉じ込めていられたはずの負の感情は、今また表面に出てこようと蠢いている。自分の中で起こっているその嫌な感触に冬馬は戸惑っていた。


 自分の中で答えはすでに出している。

 そしてこの決断が桃乃を失わないための最良の道だと信じている。

 なのにどうして――。

 閉じていた瞳をさらにギュッときつく閉じ合わす。



 ―― 今は何も問題は無い。もう何も無いはずなんだ



 俺と桃乃は付き合っている。

 兄貴にも彼女が出来た。そしてその彼女を特別な存在だと言った。

 だから後は、俺が割り切ればいいだけなんだ。それだけのことだ。

 そうだ、例え俺が桃乃にとっては――――




「……冬馬、どうしたの?」




 声をかけられ、素早く顔を上げた冬馬の視界に青い浴衣姿の桃乃が飛び込んできた。長い髪は頭頂部で綺麗に結われている。


「もっ、桃乃!?」


 今、自分が考えていた事を読み取られるはずがないのは分かっているのに、冬馬に一瞬動揺が走る。


「まさか具合でも悪いの?」

「い、いやっ、何でもない」


 しかし明らかに焦った表情をしている冬馬に、桃乃は言いにくそうに尋ねる。


「約束の時間過ぎても冬馬が出てこないから来たんだけど、もしかして花火行きたくなくなっちゃった……?」


 そう言われて時計を見ると、すでに桃乃との約束の時間を五分過ぎていた。冬馬は慌ててベッドから立ち上がり、桃乃の手をやや強引に掴む。


「行こうぜ! 沙羅も待ってるしな」



 もう考えるのはよそう。

 桃乃は俺の彼女だ。

 それでいいんだ。



 混沌とした感情を部屋に残し、冬馬は桃乃を連れて階段を降り始めた。



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