愛情の比重 【 後編 】
要を追い、沙羅が中央塔の屋上に上がる。
そこには二人以外誰もいない。今が夏休み中だからという理由ではなく、元々カノンの生徒達はこの中央塔を敬遠している。この下には大勢の教師が常駐する職員室があるせいだ。
「要! なーに? 話って?」
手摺に寄りかかって背中を向けている要に沙羅が弾んだ声で問い掛ける。
「こっちの屋上は誰もいないね! 女子校舎の屋上はいつも女の子が一杯いるんだけどなぁ。男子校舎の屋上ってどうなの?」
要は答えない。
無言の背中から醸し出すその態度がおかしいことにさすがの沙羅も不安になってきたのか、わざとふざけたような口調でもう一度問い掛けた。
「こんな誰もいない所にあたしを呼び出したりしちゃってさ、もしかしてあたしに告白するつもりじゃないでしょーね?」
「……俺、中学の時にずっと好きだった女がいてさ、一度告って振られたことがあるんだ」
唐突に始まったその話が飲み込めず、沙羅はキョトンと目を見張る。
「いきなりなんなの要?」
「いいから聞いてくれ……」
背を向けたままで要はボソボソと喋り出す。
「……で、その時振られた理由がその彼女が冬馬のことを好きだから、って理由だった。俺はそれから冬馬を逆恨みしてたんだ。そしてカノンに入学してあいつもここに来ていたことを知ったから、俺と同じ思いを味あわせてやろうと思って倉沢さんに近づいた。……お前、前に俺に言ったことあったよな? 倉沢さんのこと、別に好きじゃないだろって。その通りだよ。冬馬に嫌がらせをするためだけに俺、あの娘にわざとつきまとったんだ」
沙羅は青みがかった瞳をぱちくりとさせながらも、両手を後ろに回しておとなしく話を聞いている。
「でもそれは俺の完全な勘違いだった。二ヶ月前にもう一度その彼女に告った時に言われたんだ。本当は冬馬のことを別に好きなわけじゃなく、当時他に言い寄ってくる奴らを体裁良く断るために冬馬の名前を借りていただけだってな。しかも結局また振られちまったし」
要はいつもの癖でスッと長い前髪を掻きあげる。しかし俯いたままなのでそれはほとんど意味の無い行為だった。
「……勝手に冬馬を逆恨みしていた自分が情けなかった。その後俺は冬馬に謝ってあいつと友達になったってわけなんだ」
「うん、そこまで詳しくは知らなかったけど、要がモモに言い寄ってた時、あたしもあの場にいたからね、その話は一応モモからは聞いてたよ?」
「そうか……」
要はそこで黙り込んだ。細身の背中がわずかに揺れ、その動きに合わせて黒い後ろ髪が白シャツの襟の上を滑る。
「でもさ要、もうそれって過ぎちゃったことでしょ? 今はあたし達四人で仲良くしているんだからさ、別にもういいじゃない。どうして今急にそんな話をしてきたの?」
手摺から手を離し、要は静かに沙羅の方を振り返った。
「一昨日のライブで俺が唄ったバラード、覚えてるか……?」
「うん! 四番目の曲でしょ? 皆聴き入ってたよ! 歌詞がすっごい良かったなぁ……。想いは伝わらなかったけど、その好きな人の幸せを誰よりも願ってるよっていう歌だったよね?」
顔を上げて沙羅を真正面から見ようとしたが結局出来ずに、要はまたわずかに顔を伏せる。
「……あの曲、その彼女を想って作った曲なんだ」
「えー! そうなんだ!?」
「一昨日のライブにその彼女が来てたらしいんだ。で、俺のその曲を聴いた」
「……エ? あっ……!」
頭の回転の速い沙羅の脳内でこの時一本の道筋が通る。
「も、もしかしてその彼女って杏ちゃんのこと!?」
「……きょうちゃん?」
顔を上げた要は強い日差しに目を細める。
「杏子ちゃん! 椎名杏子ちゃんよ!」
「あ、あぁ……。そうだ、椎名のことだ」
気まぐれな夏風が一時だけの清涼を二人の間に残してゆく。
あの歌に隠された真実を知った沙羅は、要がなぜ自分から視線を逸らせ続けているのかを悟った。
「杏ちゃんは分かったの? 自分のことを歌っている歌だって?」
要は頷いた後、「あのライブの夜に椎名から電話が来た」と言うとしばらく黙った。そして沙羅の視線を避けるように再び手摺に体を預け、背中を向ける。
「……ありがとう、って言ったよ。泣きながら」
「ふーん……、そっかぁー……」
沙羅は静かに下を向いた。
自分の上靴の先っぽがぼんやりと滲んで見えてきているのが分かり、涙を散らすために何度も瞬きをする。
この場で泣くことだけはしたくなかった。
背筋に真っ直ぐな力を入れるようなイメージで、しっかり、と自分自身に何度も言い聞かせる。
「………俺が二度目に告った時、椎名は好きな奴がいるからって俺を振った。でもあのライブで俺の曲を聴いた椎名は……」
「あはっ、もういいよ、要!」
沙羅は明るく笑いながら要の言葉をそこで止めた。
いつもとまったく変わらない、その明るく元気な声に驚いた要が手摺から振り返る。そんな要を安心させるように、沙羅はニッコリと微笑む。
「要、その先の話しはきっと言いにくいでしょ? じゃあ、あたしが言ってあげるよ! ライブで要のあの歌を聴いた杏ちゃんは要の想いの強さをあらためて知ったんだね。そして杏ちゃんもその時きっと気付いたんだよ。自分も要のことを好きなことにね」
何かを言おうとした要を、小さく横に首を振ることで沙羅は押し留める。
「……あたしが前から要のことを好きって言ってたから、だから要はあたし一人を今ここに呼び出して先にこの話しをしたんでしょ? モモや冬馬の前であたしを傷つけないように……ね」
要の口元が再び何かを言いたげに歪む。
しかしそれは沙羅の推測を「あぁそうだ」と肯定する口の形ではなかった。
「……俺、最初はお前のこと苦手だった……」
要は目を伏せ、声を落とす。
その声には罪悪感にも似たような重さが滲んでいた。
「遠慮無しでこっちの中に入ってこようとするお前をどうしても受け入れられなかった……。だけどグリーン・スケッチの時にお前の身の上話を聞いてから、お前がすごく強い人間だって知ったよ。そして今のように四人で一緒にいるうちに、お前といて楽しいと思うようになってたんだ。……本当だぜ?」
「うんっ、ありがと」
「でも済まん……俺、お前の気持ちに応えられな…」
「だーいじょうぶ! 分かってる、ちゃーんと分かってるよ、要っ!」
そこにはいつものように元気良く笑う沙羅がいた。
「杏ちゃんと仲良くね! でも要、一つだけお願いがあるんだ」
「……なんだ?」
「お願いっ、夏休みが終わった後も今まで通り中庭で四人でお昼しようよ? このことでせっかくの楽しい皆との関係壊したくないの。モモと冬馬が唯一会える昼休みをあたしのせいで無くすなんて絶対嫌なんだ。ね、お願い!」
「……でもよ……」
「あたしなら大丈夫! 今ショックじゃないか、って言ったらウソになっちゃうけどね……。でも本当にあたしなら大丈夫だよ! 今まで通りに要にもモモ達にも接すること、出来る! だから後は要だけなのよ。だからお願いっ!」
「…………」
要は避けていた沙羅の顔をようやく真正面から見た。やっと視線が合って沙羅は精一杯微笑む。
「そして明日、夏期講習の後にちゃんとモモと冬馬にも言って。“ 俺も彼女出来た ”って。そしたらその時はあたしが一番に言ってあげる! “ おめでとう! 要! ”って!」
要の視線が大きく宙を揺れる。
薄い唇がまた何かを言いたげにわずかに開く。
「……お前は強いな……」
要は笑顔の沙羅を見ながらポツリと言った。
「そうよ! だってそれがあたしのグッドポイントだもんっ!」
沙羅はもう一度ニッコリ笑うと屋上扉を大きく開き、要を促した。
「じゃ、要はお先にどーぞ!」
「……家まで送る」
「ううん、まだお昼で明るいから今日は送ってくれなくても大丈夫! モモ達ももう帰っちゃったと思うし、あたし、もうちょっとここにいるよ」
なぜ沙羅が今ここに残ると言い出したのかを察した要はその後の言葉をすべて飲みこみ、言われた通りに沙羅が押さえている扉を通って校舎内へと入った。
「……ごめんな……」
すれ違う際、最後に要が辛そうに呟く。
「いいのいいの! それより明日の講習の後も中庭に来てよ? 四日間、要のお弁当作るって決めたんだから! ちゃんと責任もって食べてもらうからね! 絶対だからね? 約束だよ!」
「……あぁ分かった……」
「よろしい! じゃあ明日ね~! バイバ~イ!」
最後まで明るい声で沙羅は要を送り出した。そして要の姿が階下へ消えていくと扉からそっと手を離す。重々しく軋む音と共に屋上の扉はゆっくりと元通りに閉まった。そしてそれは沙羅の要への想いが完全に遮断された瞬間でもあった。
大きく深呼吸をした後、沙羅は今まで要が寄り掛かっていた手摺の場所へ歩み寄り、そっとその部分を掴む。要の体温がまだそこに残っていたせいで鉄の冷たさは少しも感じなかった。
温もりの残る手摺を掴んでいた白い手の甲に、ポタンと一粒涙が落ちる。
「……あーあ、またママの予言が的中しちゃったか……。やっぱり男の人の愛情が強い方が幸せになれるのかなぁ……」
今の気持ちとは反対に、太陽の光を浴びて黄金色に光る髪が踊るように風になびく。
ポロポロと涙を零しながらも沙羅はしっかりと前を見つめ、誰もいなくなった屋上で一人いつまでも立ち尽くしていた。