鈍色の空 【 3 】
その日の夜遅くに、要の携帯電話が鳴った。
メンバーと今日の反省会と次のライブに向けての打ち合わせを終え、ギターケースを肩にかけて帰宅途中だった要は電話に出るのが面倒で放っておくことにした。
しかしきっかり五分後、再び携帯電話が鳴る。親からの急用か、と要は足を止めギターケースの前ポケットからそれを取り出した。
何気なくディスプレイを見た要の心臓が一瞬ドキリと不整脈を打つ。
点滅し続けているディスプレイには 【 椎名 】 と表示されていたのだ。慌てて受信モードにする。すぐに、
「柴門くん?」
と杏子のしとやかな声が聞こえてきた。
「あ、あぁ。椎名か?」
「そう。こんな夜遅くにごめんなさい……」
「い、いや別に俺は構わないけどよ、ど、どうしたんだ、椎名から俺に連絡してくるなんてさ?」
杏子は少しの間沈黙した後、静かに言った。
「今日、あなたのライブを見に行ったの」
「…ッ!?」
夜の歩道で足が止まる。
「実は今日ね、お稽古事の帰り道に偶然西脇くん達とすれ違って、ちょっとお話をしたの。そうしたら西脇くんが柴門くんのライブに一緒に行かないか、って誘ってくれたのよ」
「そ、そうだったのか……。ど、どの辺にいたんだ?」
「ステージ寄りの一番右端にいたわ」
「端にいたのか……。椎名がいるなんて夢にも思わなかったし全然気付かなかったよ」
「柴門くんすごくカッコよかったわよ」
「そ、そうか? サ、サンキュー」
どうしてもどもりがちになる口調を気にしながら要は礼を言う。
「今日はコピー曲っていうのを演奏してたんですってね」
「あぁ、まだバンド組んだばっかでさ、オリジナル練習する時間が無かったんだ」
「でも一曲だけ柴門くんが作った曲あったわよね?」
「……!」
予想もしていなかったその杏子の言葉に要は一瞬絶句する。
「な、なんでそれ知ってんだ……?」
「西脇くんが教えてくれたの。四番目に唄った曲よね?」
「あ、あぁ……」
携帯電話を握り締めている左手に無駄な力が入ってくるのが分かった。杏子が静かに問いを続ける。
「あの歌の題名ってなんていうの?」
要は少しの間沈黙した後、その答えを告げる。
「 “ 鈍色の空 ” だ」
杏子はそのタイトルを小さく繰り返す。
「柴門くん、もし違っていたらごめんなさい。もしかしてあの歌の舞台って七海中学をイメージして作ったの?」
要の携帯電話が小さくだがミシッと音を立てる。
「……なんで分かった……?」
「 “ ハクモクレン ” って歌詞が出てきた時よ。私達の中学に植えられていたでしょ? 生徒会室の窓のすぐ側にあったわよね」
「あ、あぁ」
要はごくりと唾を飲み込んだ。心臓が早鐘のように鳴り出してきている。気付かれただろうか、と不安になる気持ちが一気に押し寄せてきていた。
「その後、注意して歌詞を聴いていたら七海中学の風景を思い出させるような言葉がよく出てきてたから……」
まだたった四ヵ月半前のことだ。
杏子の脳裏に、最後に要と一緒に見たハクモクレンの風景が鮮やかに甦った。
" " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " "
―― 白い花と共に卒業式後のあるシーンが浮かぶ。
最後にもう一度、一番思い出の詰まった場所を視界に焼き付けてから帰ろうと、杏子は三階の生徒会室へと向かった。部屋の扉を開けようとした時、小さなガラス窓から室内の様子が見える。
中にはすでに先客がいた。
机の上に座り、窓を開けてハクモクレンの木を眺めていたその人物は、杏子が扉を開けて室内に入ってくると一瞬驚いたような顔つきになった。
「椎名……?」
「柴門くんもここと最後のお別れにきたの?」
「……別に」
要は素っ気無くそう告げると再び窓の外に目をやる。しかし要の自分に対する態度はいつもこのような感じだったので杏子は別段気にも留めずに窓際に近づいた。
「だいぶ見ごろになってきたけど今日のこの空じゃせっかくの白い花もあまり映えないわね。それにこの花って散るのはあっという間で寂しいし……」
晴れの卒業式にはあまり似つかわしくない鉛色の空模様の下で、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「……いつまでも満開で咲いてる花の方が気持ち悪いだろ。やがて散っちまうからこそこうして咲いている時が綺麗だなって思うんじゃん」
窓の外を見たままで要がボソリと呟く。その言葉が杏子には意外に感じられた。
「柴門くんって意外とロマンチストなところがあるのね」
そう言って視線を向けたが、要は一切杏子の方を見ようとはしない。
「柴門くんはまだここにいるの?」
しかし返事は返ってこなかった。
要の隣で杏子もしばらく咲き誇る白い花を眺めていたが、もしかして私がいない方がいいのかしら、と思った杏子はそっと一歩後ろに後退し、要の背に向かって告げる。
「柴門くん。あなたは時々行方不明になっちゃう副会長さんだったけど、やらなくちゃいけない事はきちんとやり遂げるし、私、柴門くんと一緒に生徒会を運営出来てよかったと思ってるの。今までありがとう。じゃあ私はお先に帰るわね。さよなら、柴門くん」
踵を返して生徒会室の扉に手をかけた杏子に、喉の奥で無理に押し殺したような声がかかる。
「……椎名」
「なに?」
杏子は足を止め、窓際を振り返った。
「……元気でな」
背を向けたままだったが最後にそう声をかけてくれたので杏子は安堵した。
「えぇ、柴門くんも元気で。じゃあ……」
杏子は扉を開け、廊下へと出た。
校門の外に出ると先ほど室内から見ていたハクモクレンの木が小さく見えた。
散ったハクモクレンの花びらが一枚、風に乗って遠くへ運ばれてゆく。
あの花をきっと柴門くんもまだ見ているんだろう。
杏子はそう思いながらひらひらと儚げに流されてゆく白い花びらをいつまでも目で追っていた。
" " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " " "
「……椎名……?」
携帯電話から響いてくる要の声で杏子の意識は現実に戻る。
「あっ、ごめんなさい。七海中の時の頃をちょっと思い出しちゃってたの」
歌詞の意味に気付く事が出来たのは、中学時代の最後に触れたその思い出の花が出てきたからだ。
そこには七海中学の風景の他に、失恋したばかりの飾らないありのままの男の感情がそのままに歌われていた。
淡い期待、砕けた想い、なのにそれを捨てきれない自分――。
そんな情けない男は最後に強く願う。
「あの歌の最後の歌詞、すごく素敵だった」
杏子は心を込めてそう伝える。
「柴門くん、歌ってたわよね。好きだったその人が誰よりも幸せになるようにって。 世界を埋め尽くすぐらいの幸せの花びらがその人の周りにだけ舞い落ちるようにって」
杏子がここで唐突に言葉を切ったので、沈黙が訪れる。
微かに聞こえてくるお互いの呼吸音だけが今の二人を繋いでいた。
「柴門くん」
やがて杏子が静かに口を開く。
「最後にもう一つだけ教えてほしいの」
「な、なんだ?」
「この歌、誰かを想って作った歌なの……?」
「!」
口の中がカラカラに乾き、携帯電話を持つ手が汗ばんできている。要はふたたびゴクリと喉を鳴らした。
「そ、それも言わなきゃダメか……?」
「ええ、言ってほしいの。お願い……」
要はためらった。その答えを口に出すべきか否かを。
しかしこのまま沈黙を続けていても、きっといつまでもたぶんそれこそ永遠に、答えが聞けるその時まで静かに杏子は待ち続けるだろう。
そんな予感を胸に、あの夜、カノンの屋上で二度目の告白した時のように、もう一度勇気を振り絞って要はその答えを口にした。
「……ありがとう……」
わずかな沈黙の後、携帯電話の向こう側からそう囁く涙声が要の耳に微かに聞こえてきた。