すれ違った心 <2>
「モモ! お昼にしようよ!」
四時限目の古文が終わり楽しい昼休みの時間だ。
桃乃は沙羅と机を合わせ、教室で一緒にお弁当を広げる。
「あ~モモのこれ何? 美味しそう !」
「これ? 厚揚げじゃないかな」
「ね、あたしのこのマスタードチキンと一個交換しない?」
「うん、いいよ」
沙羅は桃乃と交換した厚揚げをパクッと頬張る。
「すっごく美味しい! よく味が染みてて!」
「ウチのお母さん料理得意なの」
「へぇ~。ウチのママ、和風料理はあんまり得意じゃないんだよね。どうしても洋風に偏っちゃうのよ。あ、もちろんママの作る料理は大好きなんだけどね」
そう言うと沙羅は手元のカラフルな弁当箱に視線を落とした。
「高校生になったんだし、そろそろお弁当ぐらいは自分で作らなきゃダメかなぁ。でもあたし、朝は弱いし……、そういえばモモって朝何時頃学校に来ているの?」
「んっと、今日は七時半前だったかな」
「そんなに早く!? まだ部活も始まってないのにどうしてそんなに早く来ているの?」
冬馬のことを知らない沙羅に、幼馴染と顔を合わせたくなくて早く家を出たことを話せるわけもなく、桃乃は無難な返事をする。
「だって満員電車嫌いだし……」
「そんなに朝早く来てたらヒマじゃない?」
「う、うん、そうなんだけど……」
と答えながら桃乃は今朝、自分の身に起きたあの出来事を思い出す。
「ねぇ沙羅」
「なに?」
「今朝ここに男子が入ってきた、って言ったら信じる……?」
「この教室に?」
「うん」
「Wao ! スゴーイ! だって女子校舎に男子が入るのってここの規則では禁止されてるよね?」
「そう。だから私もビックリしちゃって……」
「その男の子と話したの?」
桃乃はもう一度頷く。
「ねっ、ねっ、どんな感じの男子だったの? 二枚目? カッコイイ?」
沙羅の反応は昨日の葉月とまったく同じで、桃乃は思わず噴き出しそうになった。
なんとかそれを堪えて朝に出会った要の姿をもう一度思い出して見る。
どちらかというと細身で繊細な感じのする要の雰囲気は向かいに住む裄人の持つ雰囲気に近いものがあった。
「ん……カッコよかった、かも……」
「見たかった~! ……でもその人、何しにこっちに来たんだろうね? もし先生にでも見つかったら大変なのに、こっちによっぽど大切な用事でもあったのかな」
「さ、さぁ……」
要が禁を犯してこちらの校舎に侵入してきたのは自分の名前を聞きにきたということを知っている桃乃はその沙羅の言葉を聞いて赤くなった。その赤面した顔を見て沙羅が不思議そうに尋ねる。
「なんでモモ、赤くなってるの?」
「な、なんでもない! なんでも!」
頬の熱を冷ますために手にしていたノートで自分の顔を仰ぎ始めた時、表紙に書かれている自分の名前が目に入った。
( へぇ倉沢桃乃っていうんだ )
自分の名を呟いた要の声が頭の中で流れる。
再び顔が熱くなってきたのを感じた桃乃は、沙羅に気付かれないよう、ノートで仰ぐスピードをわずかに早めた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の夜、倉沢家のインターフォンが鳴った。
いつもは雅治の帰りが遅くてなかなか一家団欒の夕食が取れない倉沢家だが、今夜はその雅治が久しぶりに早く帰ってきたので和やかな夕食がちょうど終わった時だった。
「あら、こんな時間に誰かしら」
と千鶴が呟きインターフォンの受話器を取る。
「はい、どちら様でしょうか? ……あら冬馬くん? どうしたの? え、桃乃? いるわよ、ちょっと待っててね」
千鶴は通話ボタンを切るとキッチンに食器を下げている途中の桃乃を呼ぶ。
「桃乃~」
「なぁに、お母さん?」
キッチン入り口のビーズ暖簾を片手で避け、その隙間から桃乃が顔を出す。
「今冬馬くんが来ているのよ。桃乃にちょっとお話があるんだって。冬馬くん玄関で待っているから早く行きなさい」
「エッ、冬馬が!?」
「もしお話長くなりそうなら上がってもらいなさいね」
「い、いいわよ!」
姉に続いて食器を下げていた葉月が茶々を入れる。
「何も恥ずかしがることないのに、お姉ちゃんってばさ」
「どういう意味よそれっ」
「ほら桃乃、早く行きなさい。冬馬くん、外で待っているんだから」
千鶴の催促に桃乃は仕方なくリビングを出て玄関に向かう。
サンダルを履いて玄関に出ると、上下真っ白のジャージを着た冬馬が玄関前の階段に座っていた。
振り返った冬馬の額には玉のような汗が流れていて息も少し荒い。
「……また走ってるの?」
桃乃は座っている冬馬の後ろに立ったままでそう呟く。
「あぁ、ニ月に入ってから受験であまり運動してなかったからな。久しぶりに走ってみたら思いっきりきつくなってんの。体、メチャクチャ鈍ってる」
冬馬は再び前を向くと首にかけていたブルーのスポーツタオルで汗を乱暴に拭いた。
「部活も冬になってからほとんどやってなかったもんね」
「夏の大会が終わっちまえば三年は実質引退みたいなもんだからな」
「うん」
その後しばらく会話が途絶え、冬馬の荒い息が少しづつ収まりはじめる頃、桃乃が先に口を開いた。
「……で、用事ってなに?」
冬馬は一瞬その返事を遅らせると、桃乃に背を向けたままで訊いた。
「お前、今日柴門要って奴に名前教えたのか……?」
自分から積極的に教えたわけではないが、それをどのように説明すればいいのか分からなかった桃乃の返答が一瞬遅れる。
「教えたのか?」
冬馬が背中を向けたまま再び訊く。
「か、勝手に見たのよ。私のノートに書いてあった名前を」
「一緒に昼飯食う約束もしたんだって?」
「ちゃんと約束したわけじゃ……」
桃乃がそう言いかけると冬馬はそこでいきなり立ち上がり、階段に片足をかけると桃乃の方を振り返った。
その冬馬の形相を見て驚いた桃乃は先の言葉を失う。
冬馬は恐いくらいに真剣な顔で桃乃の顔を見つめ、激しい口調で言った。
「いいか!? あの柴門要って奴には絶対近づくな! 分かったなッ!?」
鬼気迫る冬馬の様子に少し臆しながらも桃乃は精一杯反論する。
「ど、どうして冬馬にそんなこと命令されなきゃいけないのよ!?」
「どうしてもだ!」
「そんなの理由になんないもん!」
不意に肩に痛みが走った。
冬馬が急に凄い力で桃乃の両肩を掴んだのだ。
「お前のために言ってるんだぞ!?」
冬馬の大きな掌は桃乃の細い肩を何度も揺さぶる。
「痛い! 痛いってば!」
「分かったなッ!?」
桃乃は全身の力を入れてやっと冬馬の手を振り払った。
「冬馬のバカッ!!」
桃乃はそう叫ぶと玄関に飛び込み、扉をバタンと勢いよく閉める。
「あら桃乃、冬馬くんには上がってもらわなかったの?」
リビングから千鶴の声が聞こえてきたが、桃乃はそのまま階段を上がって自分の部屋へと戻った。
部屋に入るとゆっくりとベッドの淵に腰をかける。
掴まれた時の鈍い痛みがまだ両肩に残っているのを感じ、そっとカーディガンを脱いでみる。するとまるで淡い桜の花びらのように、うっすらと赤い痣が冬馬の指の跡の形そのままに肌の上に散っていた。
( ちくしょう、あんな風に言うつもりなかったのに…… )
桃乃を怒らせてしまった冬馬はタオルで口元を覆うと黙って自宅へと戻る。
あんな乱暴なやり取りで桃乃がちゃんと分かってくれたかどうかが冬馬には気がかりだった。
本当はもっと順序良く筋道を立てて、要のことや、要と自分の衝突を上手く桃乃に伝えるつもりだった。しかしいざ「要に名前を教えたのか」と訊いた後、冬馬は自分で自分を抑えられなくなってしまったのだ。
ふと月明かりの下で自分の大きな手を見てみる。
桃乃の肩を掴んだ時、自分のこの掌に桃乃の両肩がすっぽりと収まっていたことに今更ながら冬馬は軽い驚きを覚えていた。
見つめていた自分の掌に思いきり力を入れて握り拳に変える。
理由は分からないが、要が自分を見る眼には憎しみがこもっている。そのせいで桃乃が傷つくような事態が起こることだけはなんとしてでも避けなければならない。
冬馬はそんな暗澹とした気持ちを抱えたまま、足取り重く自宅の扉を開けた。