自分の世界を変えた音
湿った夏の夜風が、ギターを抱え、自室の窓枠に座る要の横をすり抜けて室内に吹き込む。
カサッ、と小さな音がした。
音の方向に目をやると、黄色の水玉模様の紙袋が窓から入り込んだ夜風で揺れた音だった。
昼休みにカノンの中庭で無理に食べさせられたあのクッキーの味が舌にじわりと滲みあがってきたような錯覚を覚え、要は眉をひそめる。
―― でも面白い奴だよな
そう思いながら再び六弦をかき鳴らすと亜麻色のツインテールが頭の中に浮かぶ。
弦を爪弾きながら要は無意識に沙羅のことを考えはじめていた。
今まで見てきた女の中であいつほど落ち込まない奴は見たことが無い。
何を言っても堪えない。
どんなに冷たくしてもへこたれない。
前にガッツがある、と言われたことがあったが、あいつの方がよほど根性がある。
ひたすら能天気で何も考えていないと思っていたら、時にこちらがドキッとするような鋭い事を言ってくる。今日の帰りの時のように──。
「ねーねー、要ってさー、中学の時からギターやっているっていったけど、やっぱりいっちばん最初は有名な曲を練習したの?」
沙羅は要のすぐ横をぴょんぴょんと跳ねるように歩く。一緒に帰れることが嬉しくてたまらない様子がはっきりと現れていた。
「あぁ」
「邦楽?」
「いや」
「洋楽かぁ……、もしかしてビートルズとか?」
ギクリとした。
「あ、やっぱり?」
「なんで分かった?」
「要のことならなんでも分かるもん!」
「……エスパーかお前は」
「あははっ、ゴメン要! っていうのは嘘で~、あたしあまり洋楽知らないからっていうだけでしたぁ~!」
エヘヘと屈託なく笑うその表情を思い出し、要はわずかに顔をしかめて沙羅の笑顔を頭の中から無理やりに追い出した。
今は音楽だけに集中したかったからだ。
── ライブまであと三日。
期末考査も無事に終わり、カノンが長い夏休みに入った中で要の日々は目まぐるしく過ぎてゆく。
自分にとって初めてのライブ。
湧き起こるかすかな不安に、暇ができればついこうしてギターを手にしてしまう日々が続いている。
二階の自室の窓から夏の夜空を見上げると、長い前髪の隙間から幾つもの星々が見えた。
開け放った窓の縁に腰をかけ、漆黒の帳に向けて六弦を静かにかき鳴らす。
近隣への迷惑を考え、もちろんアンプは繋いでいない。
始めの内は今回のライブで演奏するコピー曲の触りを弾いていた。
しかしいつのまにかフェンダーのエレキギターはあるバンドの曲を弾き始めている。
── Gをメインのコード進行。ギターチューニングを曲によってはオープンGにする。
それが彼の、あのボーカリストの癖だった。
曲が記憶を遡らせる。
ピックを持ち替え、要は過去へと思いを巡らし始めた。
ロックの定義というものを今でも上手く語ることはできない。
だがあの夜の演奏は、洋楽こそが全てだと思っていた頃の要を根底から破壊したライブだった。
── 要がそのバンドに出会ったきっかけは本当に些細な事だった。
中学二年の頃の話だ。
ヒマを持て余し、夕闇の中をふらりと街に出かけた。中心街を大きく外れた細い中小路から漂う、むせ返るような熱気に阻まれて足を止める。
真横から吹き付けてくるその熱気は七月の外気温のせいではなかった。暑さだけの熱気なら、肌の表面をじんわりと発汗させるだけで終わっていたはずだ。
皮膚の至る所を見えない重力がくまなく押し付けてくるような、くすぶった熱気が細く薄汚れた路地に充満している。
目には見えない強烈な磁力がそこには存在していた。
そんな重さをはらんだ熱気に引き寄せられるように中へ足を踏み入れると、この路地に寄り添うように佇む薄汚れた古い建物にぶつかる。
壁一面に様々なペイントが施されており、その中でも一際目立つのが真っ赤なスプレーで殴り書きされた、
“ ROCK! ROCK!! ROCK!!! ”。
魂の咆哮さえ感じられそうなその斜体文字の勢いに、妙な威圧感を感じた。
軽く蹴飛ばすだけで簡単にぶち抜けそうな年季の入った扉は何度か塗り直されているらしく、今は派手な黄色になっている。
扉の横には一枚のボード。
そのボードに書いてある内容を見て、要はようやくここがライブハウスだということに気付いた。
「兄ちゃん、良かったら入りなよ。特別に安くしとくぜ?」
不意に背後から声をかけられ、振り返ると油っ気の無いボサボサした長髪を後ろで無造作に縛った二十代半ばぐらいのガタイのいい男が立っていた。
「このバンド、最高だよ。本当のロックンロールを知りたかったら聴いてみなよ」
── そんな訳あるか
内心ではそんな毒を吐いていた。
邦楽で本当のロックなどありえない。どれもこれもただ流行りに乗っただけの中身のスカスカなヤツばかりじゃないか。
そんな要の気持ちを読み取ったのか、目の前の男は束ねた長髪を揺らして笑う。
「聴く気、無さそうだなぁ。じゃ、いいや。お代は見てのお帰りだ。俺がこっそり中に入れてやるよ。もしこいつらのライブを聴いて、何も感じなかったらそのまま帰っていい」
男は自分を “ 熊田 ” と名乗った。
「クマさんって呼んでくれ」
身長百九十近くはありそうな大きな体にその名は本当にしっくりと合っていた。
「兄ちゃん、中学生かい?」
その問いに頷くと熊田は細い目をさらに細くして笑う。
「色んな音を聴けよ。固定観念で決めつけないでな」
熊田に連れられて要はライブハウスの中へと入る。場内は三百人も入れば満杯になりそうな空間が広がり、すでに多くの観客がひしめき合っている。
こじんまりとした場内中央のステージにはすでにあらゆる機材や楽器がセッティングされていた。
「じゃあ、俺は仕事があるから。真夏の夜のシークレットライブを楽しんでいってくれ」
熊田はそれだけ告げると揺れる群集のどこかに消えていってしまった。
ライブの開始時刻は午後六時半。
その十五分前になるとライヴの開始をいまや遅しと待つ、すでに定員オーバーではないかと思われる人間達の熱気で場内は異様な雰囲気に包まれだす。その半分殺気立った空気に要は半身を呑まれかけつつあった。
要が好んでよく聴いている洋楽が場内にかけられている。
そのBGMが急に止まり、場内のライトが落ちた瞬間、この古ぼけたライブハウスがそのまま天井から崩壊してしまいそうなぐらいの大きなどよめきが起きた。
一人、二人、とメンバーがステージ上に現れ出す。
数名の観客がメンバーの名を絶叫し、その熱いコールは完治不可能な熱病のようにライヴハウス内に物凄いスピードで浸透してゆく。
何度目かのコールで長身で痩せぎすのボーカリストがそれに応えてゆらりと片手を上げた。
途端に割れんばかりの歓声。
ステージの最前列に向け、観客達が一気に押し寄せる。
高低差のある幾つもの頭部が揺れるその様はうねる大波を思わせ、その激しい奔流に乗り、場内のボルテージが瞬く間に上がっていく。
プレイが始まる直前にややかすれ気味の声でボーカリストが咆哮した。その瞬間、要の背筋をある感情が稲妻のように走り抜ける。
── 戦慄だ。
この痩せぎすなボーカリストのどこからこれだけの声量が出るのかと不思議に思うぐらいの、荒々しいハスキーボイスが要の体内に突き刺さる。
唐突に彼らの演奏が始まった。
自分達に降りかかるライブハウス内の熱狂的な声援を強引にねじ伏せるように。
ステージ上からほとばしる気迫。
荒削りだが確かなテクニックに裏打ちされたプレイ。
溢れんばかりのパワー、畳み掛けるような攻撃的なサウンドが真正面からぶつかってくる。
観客席から湧き上がる熱気に自分達のサウンドを解けないほどにギッチリと絡ませ、走り出した曲は時に大きくうねり、圧死させんばかりの強さで要の体をぎりぎりと締めつける。
不意に息苦しさを覚えた。
だが、息をするのがこんなにも苦しく感じるのはこの狭いライブハウスの中にぎゅうぎゅうの人数が押し込められているせいではなく、彼らの演奏が酸素をこの場所から強引に奪っているような気がしてならなかった。
ただひたすらのドライヴ。揺れるステージ。彼らのライブは一度も立ち止まることなく疾走を続ける。
彼らの顔はすでに汗みどろだ。もちろん観客達も。このライブハウス内に溶け切ったそのドロドロの興奮が、大きく渦を巻いてお互いを呑みこんでゆく。
「……またな」
一時間半後、アンコールを二曲演奏し、己の中のすべてを放出して憔悴しきったボーカリストのぶっきらぼうな挨拶を残してプレイは終了した。
場内の天井にある幾つものライトが再び点灯する。
( すげぇ…… )
今宵の演奏が終わり、観客が少しずつ散り散りになっていく中、要は両手をだらりと下げてその場に立ち尽くす。
たった今まで行われていた彼らのライブのパッションがまだ消えずにあちこちに輝きながら散らばっているように見え、誰もいなくなったステージ上にいつまでも目を凝らしていた。
「どうだった、兄ちゃん?」
熊田がまた不意に現れる。質問調の台詞だったが要の様子を一目見て、聞かずともその答えは分かったようだ。
「あいつらのライブ、スゴかったろ? 俺も初めて聴いた時、今の兄ちゃんみたいになった。中身をみんな持ってかれちまったんだ。しばらく何も考えられなかった。あいつらに空っぽにされちまったんだ。でもただの抜け殻にされたわけじゃない。引っこ抜かれた分、確かに与えられたものもある。今の兄ちゃんならそれが分かるだろ?」
熊田の太い手が要の左肩にバスッ、と乗せられる。
「お代は見てのお帰りだ、って言ったが、今回は特別に俺の奢りだ。でも次のライブは自費で頼むぜ?」
豪快に笑う熊田を見上げ、要は礼を言った。
ライブハウスを出て家路についたが、まだ思考は呆然としていて、汗で濡れたシャツの不快さまで忘れていた。
── だが。
インディーズ時代はそこそこに有名だった彼等だが、メジャーデビュー後は一部のマニアには熱狂的な人気があるものの、音楽チャートのデイリーランキングだけをチェックしている一般のリスナーにはその存在をほとんど知られてはいなかった。
メジャーという深く広大な海の中に彼らがゆっくりと沈みつつあったことを、たった今このバンドと出会ったばかりの要は知らなかった。
「俺らのことはもう忘れてくんねぇかな」
長い前髪の隙間から覗く、飢狼のような鋭い目つきが観客席を貫く。曲の合間にボーカリストがマイクに向かってボソリとそう呟いたのは、要が三度目に行ったライブの時だった。
MCのほとんど無いバンドだったのでその時もただのブラックジョークだと思っていた。
── しかしそのわずか一ヵ月後に彼らは解散を発表した。
音楽の方向性の違いを理由にベーシストが脱退を告げたのがきっかけだったらしい。新しいメンバーを加入させることなく、ボーカリストは即座に解散を決断した。
曲も詩もすべてこのボーカリストが書いていたので当然ソロで活動を続けるものだと、ファンの誰もが、そしてこのバンドを知ってまだ半年の要もそう思っていた。
だがその渇望は呆気なく裏切られる。
「四人いなきゃ俺らじゃない」
最後にその言葉を残し、ボーカリストは忽然と音楽業界から姿を消した。
「そんなマイナーなバンドの曲を演っても客はノらねぇよ。しかももうとっくに解散しちまってんだろ?」
一曲でもいい。
今度のライブで彼の曲を演りたい。
そんな要の希望は今回裄人の紹介でバンドを組むことになったメンバーからは当然のように反対され、却下された。
── 忘れてくんねぇかな
ボーカリストはあの夜確かにそう言った。
だが忘れることなどできるわけがなかった。
汗の飛び散ったステージの床にいまにも着きそうなぐらいにまで思い切り腰を落とし、激しく勢いをつけて六弦をかき鳴らす姿は今でもまったく色褪せることなく、この記憶の中に残っている。
例え表舞台から姿を消してもきっと彼は今もこの世界のどこかでギターを弾いているはずだ。
要はそう信じたかった。
だからこそ、本当は彼の曲を演りたかった。どうしても演りたかった。
自分の世界を変えた音。
その音をまだ忘れていない人間がここにいることを、この世界のどこかにいる彼に伝えたかった。