越えたい背中 <4>
── 時が止まったかのように見えるコート上。
だが確実に時間は流れていた。
本格的な朝を迎えだした高見台の周囲に様々な生活音が響きだしてきている。
フェンス奥の道路をかなりのスピードで車が行き交う排気音。
颯爽と自転車に乗った学生が、走行に邪魔な歩行者を威嚇するベル音。
スーツを身につけた会社員らしき人物が、携帯電話を片手に大声で会話を撒き散らす。
普段なら特に何も感じないはずのそれらの騒音。
しかし今の冬馬にはすべて苛立ちへと変わる最悪の誘因だ。
両耳の後ろを撫でるようにそよぐ、朝の清涼な夏風すらもその負の熱を冷やすことはできそうになかった。
「あぁ知ってるさ、俺はあの時見てたからな……!」
声は敵意剥き出しの怒声に変わった。
必死に抑えていた感情の鎖がここでついに切れ、強い憤りを内包した声が裄人の背に向かって投げつけられる。
「俺はあの時、二階からずっと見ていたんだっ!」
裄人はボールを弄ぶのを止め、ゆっくりとした動作で冬馬に向き直った。
「そうか、お前見ていたのか……」
ふうっ、と短く息が吐かれる。
「……で、何が聞きたいんだ?」
まさに今問いただそうとした質問を先に言われ、冬馬は返答に詰まる。
「あの時、桃乃ちゃんが俺に何を言ったか……だろ?」
正答だった。
しかしここですぐに「あぁ」と素直に頷くほど、冬馬の気持ちに余裕は無い。怒りを露にした目を裄人に向けるだけだ。
一方の裄人は、今自分を射抜いている冬馬の視線の中にこめられた感情を分かっているはずなのに、その先を答えようとはしない。ただ黙ってその視線を受け、静かに見つめ返す。
燃えるような動の視線と落ち着いた静の視線。
周囲はざわめきだしてきているのに、二人の間だけは砂時計の砂が落ちる音すら聞こえそうなぐらいの無音が取り巻いていた。
「兄貴……あの時、桃乃はなんて言ったんだ……?」
正反対の温度を持った視軸が真っ直ぐに交差しあう中、結局それが先に揺らいだのは冬馬の方だった。
珍しく顔から一切の笑みを消した状態で裄人は短く答える。
「何も言ってない。恐らくお前の知りたがっているようなことは何も」
「どっどういう意味だよ?」
「あの時、桃乃ちゃんは俺に “ これ冬馬ちゃんにあげて ” ってチョコの入った箱を渡そうとしてきたから、“ 直接渡したら? その方が冬馬も喜ぶと思うし。今家にいると思うよ ” って言ったんだ。でも桃乃ちゃんは “ これから行くところがあるから ” って言うから俺が代わりに受け取ったんだ」
裄人は手にしたバスケットボールに視線を落とす。まるでそのザラついた表面に当時の情景が映っているかのように。
「……そして桃乃ちゃんはあの時俺と一緒にいた女の子に目をやって、“ その人、裄人お兄ちゃんの彼女? ” って尋ねてきた。俺は “ うん、そうだよ ” って答えた。そしたら “ そっか ” って答えて桃乃ちゃんはそのまま行っちゃったんだ。それだけだよ」
冬馬の両拳の関節は、固く握り締めすぎてその節々が白に近い肌の色になっている。しかし頭の中はそれ以上に白濁していた。
「あの時桃乃は兄貴に告ったんじゃないのか……?」
「あぁ、言われてないよ」
「じゃっ、じゃあなんで桃乃が兄貴の事を好きだって分かったんだよ!?」
「まぁ、あの子とは付き合い長いしね」
裄人はボールから目を離さずに淡々と話し続ける。
「それにお前のチョコを受け取った時に、桃乃ちゃんが持っていた紙袋の中にもう一つチョコが入ってたんだ。 “ それもしかして俺の分? ” って聞いたら、 “ ううん、違う ” って言われてさ。でも桃乃ちゃんって昔から嘘をつくと必ず右下を一瞬見る癖があるから、それでなんとなく分かった」
その裄人の言葉に冬馬は黙り込む。
── 昔から兄のこういう所が嫌いだった。
飄々としていながら物事の本質は決して見逃さないしたたかな所。
親しみをこめて顔に穏やかな笑みを浮かべつつ、実は他人が気付かないような細かいところまでよく相手を観察している所。
自分だけが知っていると思っていた。嘘をつく時の桃乃の小さな癖を。
しかしそれを裄人も気付いていたことに対する、どこにぶつけていいのか分からない苛立ちが冬馬自身を追い詰める。
「残酷なことしやがって……」
逃げ道の無い冬馬の口から無意識にその言葉がこぼれ出た。
「残酷?」
本心から意外そうに、裄人は反復する。
「冬馬、さっきからお前の言う事矛盾しまくってるぞ。なんだよその残酷って?」
「うっせぇな! 残酷だから残酷だっつってんだよ!」
冬馬は苛立つ手で前髪をぐしゃりと掻きあげた。
── そうだ、矛盾していることは自分でも分かっている。
でも今も頭からこびりついて消えないあの光景がそうさせてしまうのだ。
雪の中でうずくまった小さな背中。真っ赤なあの小さな十の指先が。
「じゃあどうすれば良かったんだよ。俺が桃乃ちゃんと付き合えば良かったのか?」
それは耐えられないくせに、と最後に裄人は小さくだがはっきりと付け加える。図星だからこそ、その台詞にまた頭にカッと血が昇った。
「わっ、分かってたなら、もっとあいつを傷つけない方法は無かったのかってことだよ!」
「……そうだな、桃乃ちゃんにとって確かにあの時のことはショックだったかもしれない。でも俺にはあの時彼女がいたし、桃乃ちゃんの気持ちを受け入れることは出来なかった。じゃあ仕方が無いじゃないか。辛くてもそれが桃乃ちゃんにとってそれが現実である以上、あの子が乗り越えなくちゃいけなかったんだよ」
予備動作もほとんど無しで裄人は胸の前に抱えていたボールを冬馬に素早く、かなりの力をこめてパスする。
不意を突かれ、しっかりとキャッチ出来ずに両手で勢いを殺しきれなかったボールが冬馬の胸に強く当たる。その一瞬の衝撃はまるで裄人に殴られたかのように感じた。
「でも桃乃ちゃんってさ、弱そうに見えて実は結構芯は強い所あるよな」
色味が増してきた空を見上げ、裄人は言う。
「あの子っておとなしくて何かあればすぐに泣いちゃいそうな感じの子なのに、意外と泣かないんだよな。そういえば俺、桃乃ちゃんが泣いているところってあまり見た記憶が無いよ」
── その通りだと冬馬も思った。
裄人へのプレゼントを雪の墓に埋めて帰ろうとしている桃乃の横顔。
その顔に涙は一切無かった。
ただずっと前を見つめて、ただグッと唇を噛みしめて。
絶対に泣くまいとしていたあの表情が、逆に見ていて辛かった。
あの時、桃乃がもし泣いていれば絶対にあの橋の影から飛び出していただろう。
そして訳を知ってショックを受けても、きっと桃乃を精一杯慰めてやれただろう。
だがあいつは一人で辛さを抱えこんだ。一粒の涙もこぼさずに。
あの時自分のいるべき場所はなかった。そう、何処にも無かった──。
── だから決めたのだ。
桃乃が頼れるような男になる、と。
兄の代わりに。
だから今も強く願うのだ。
兄を越したい。
身長も。
学力も。
バスケも。
この兄を越せばきっと桃乃は俺だけを見てくれるはずだ──。
そう信じて今まできたのだ。
なのに今でも裄人の背中は冬馬には遠く感じてしまう。
この五歳違いの兄にはまだまだ隠れたポテンシャルがあるように見えてならなかった。
疑心暗鬼の心は時と共に醜く肥大し、それはやがて兄へのコンプレックスとなって冬馬の中に黒い塊として形成されていった。
本人がいくら否定しても、もし裄人が本気を出せば、自分などはあっさりと後方に置いて行かれるような気がしてならない。冬馬は今もそんな気がして不安でならなかった。
昨日の早朝、カノンの正門前で桃乃が裄人の車の中に乗っていたのを傘の隙間から見た時、心臓が捻きれそうなくらいに強く痛んだ。心の中に大きな黒い塊がまた一つ積み上げられ、その重さに心臓が悲鳴を上げた。
横殴りの大雨がフロントガラスをひっきりなしに叩き、ワイパーが休む事無く激しく動いていたので表情はよく見えなかったが、きっと、あの時の桃乃は楽しそうに笑っていたはずだ。すぐ側に、好きだった兄貴がいるから──。
「なぁ冬馬さ、お前は今桃乃ちゃんと付き合ってるんだろ? だったらなんでそんな昔々の話をわざわざ掘り起こすような真似をするんだよ。確かに今回の合コンの事は俺が悪かった。でも桃乃ちゃんが好きなのはもう俺じゃない。お前だよ。自信持てよ。な?」
自信なんて持てるはずがない。まだ追い越せていないのだから。
それどころか自分を諭すような裄人の優しい口調が、追いつくことの出来ない距離を逆に見せつけられているように感じてしまう。
「……自信なんて持てるかよ。俺は兄貴には敵わないんだ」
その言葉に裄人は呆気に取られた顔になる。
「なに言ってんだよ? もうすべてにおいてお前の方が上だって! それにさ、そもそも俺とお前を比べようとするのが間違ってるんだよ。例えるならさ、お前がF1カーで俺はハイブリッドカーみたいなもんだよ。片やハイスピードで疾走するのが目的のマシンで、片や燃費や環境、静粛性を重視した地球に優しいエコなマシンだ。元々それぞれの得意分野が違うんだ。それで勝負しようってのがおかしいだろ?」
裄人のその例えに冬馬はうんざりとした表情になる。
「兄貴、そのなんでも車に例えて話するオタクみたいな癖はいい加減に止めろよ」
「おいおい、オタクは止めてくれよ。せめてカーマニアと言ってくれ。……って、やっぱりそれも嫌だなぁ。それにマニアはこんなもんじゃない。もっと凄いぞ?」
ははっと快活な笑い声がコートの中央から発せられる。そして今の時刻を腕時計で確認した裄人は焦りの表情を浮かべた。
「あっマズい! 冬馬、今日はこれぐらいでいいだろ? 俺、今日一講目必修なんだよ」
「まだ七時にもなってないだろ。全然余裕で間に合うじゃん」
「大学行く前に寄る所あるんだ」
「また女か?」
ストレートなその問いに裄人は苦笑する。
「またはないだろ、または。でも当たってるけどね。彼女迎えに行くんだ。同じゼミだからね」
「彼女? 兄貴彼女出来たのか?」
「あぁ。昨日ね。正式に」
裄人の顔から笑みがこぼれる。その顔が今まで見たことがないくらい、あまりにも嬉しそうなので冬馬は少し面食らった。
「どうせまたすぐ別れるんだろ」
「いや、今度は本気かもしれない。こんな気持ちになったの初めてなんだ」
「ふーん……」
勝手なもので、裄人に恋人が出来たことにほんのわずかだが心が軽くなる。
「じゃあ行くか。あ、冬馬。帰ったらシャワー俺先な?」
「いやダメだ。俺が先だ」
「悪いけど今回は俺も譲れないなぁ。真里菜ちゃんの家遠いからさ、早く出なくちゃいけないんだよ。ゼミの後、一緒に映画に行くしさ」
「……まさかあの恋愛映画か?」
「おっ鋭いじゃないか冬馬。そう、昨日母さん達も観に行ってきた【 魂が魅かれあう彼方 】な」
「兄貴、それ前に観ただろ?」
「うん観た。でも真里菜ちゃんはまだ観た事が無いんだってさ。あの映画そろそろ公開終わっちゃうし、今日一緒に観に行く事になったんだよ。な、だから先に譲ってくれよ。初めてのデートなんで気合入れたいしさ。いいだろ?」
兄弟間で諍いが起こりそうになった時、いつもは必ず先に折れる裄人も今日は珍しく折れない。しかし今の冬馬の心境ですんなりと「いいぜ」という言葉は出てくるわけもなく、二人は探るように視線を合わせあった。
「じゃ、最後の一勝負といきますか?」
膠着する場を動かすためにそう提案してきたのは裄人だった。
「今度はサドンデスのシュート勝負でどうだ?」
冬馬は頷く。
「じゃあ俺が先だ」
「あぁいいよ。ほら」
裄人から放られたボールを手に、冬馬はスリーポイントラインの外側に立つ。呼吸を整え、静かにボールを掲げてセットシュートの体勢に入った。ゴールポストを鋭く見据える。シャワーの順番などは本当はどうでも良かった。もうこれはただの意地だ。
── 負けたくない。俺はもう負けたくないんだ。
冬馬の手からボールが離れる。
譲れない意地を乗せ、逆回転のかけられたオレンジの球体は帰るべき場所へと戻っていく。
少し赤サビの目立つゴールポストがゴゥン、と大きく震えた。
「お、外したか」
腕を組み、後ろで見守っていた裄人が意外そうに呟く。
「ゴールポストの高さが違うからな。感覚が狂ったんだろ?」
時間を気にしている裄人は小走りでボールを取ってくると冬馬のいた位置に素早く入る。
「じゃ俺がこれを決めたら終わりだな」
裄人がセットシュ-トの構えに入る。
また先ほどと同じように裄人の周囲の空気が変わったのを冬馬は感じた。
それは例えるなら静謐。
裄人がこのどこまでも澄んだ空気をその体外に滲ませた時が本気を出す時なのだ。
冬馬は兄の背を見つめる。
様々な思いと共に。
裄人の手から同じようにボールが離れる。
リリースしたボールが裄人の持つ雰囲気と同じように穏やかに空を舞う。
だが描いたのは先ほどと同じような軌跡なのに、赤錆びたゴールポストは今度は震えなかった。
かすかにしたのは白いネットとボールが擦れた摩擦音のみ。
鮮やかにリングを通過したボールは支柱に一度ぶつかった後、勢いを除徐に衰えさせながらも上下に緩やかな跳ねを繰り返している。
「よしっ! シャワー権ゲット!」
裄人が嬉しそうに拳を上げる。
「さ、帰るぞ冬馬!」
ゴール下で跳ね続けているボールを急いで取りに向かう兄の背を、冬馬は消沈した瞳で見つめていた。
遠い。どこまでも遠い。
やはりまだ追い越せなかった。
自分が目指し、越えていかなければならないその背中。
── でもいつか越せる日が本当に来るのか?
── 俺は一生、兄貴に敵わないんじゃないのか?
いびつな形をした焦りのブロックがまた一つ、冬馬の心の中に積まれる。
そろそろ積み上げるのに限界が近づいているそれは、冬馬の中でグラグラと大きく揺らぎ始めていた。