越えたい背中 <3>
こんな大事な日に掃除当番だったのは本当についてない。
掃除が終わると冬馬は飛ぶように家へと戻る。友達と遊ぶ予定も今日は入れなかった。
家に戻り、部屋に駆け込んでランドセルを放り投げると急いで窓から外を眺める。もうパーカージャケットを脱ぐ事さえ忘れていた。
まだ地面に雪は残っている。それどころか昼にさらに雪が降ったので逆に厚みが増していた。
雪遊びにはまたとない絶好のチャンスで少し残念な気もしたが、それよりもやはり今日のイベントの方がずっと大事だったから割と簡単に諦めがついた。
先に帰った桃乃が出てこないかと倉沢家の玄関先を眺めていた冬馬の視界に、左手の道を走ってくる別の人物が映る。
裄人だった。
兄ちゃん今日は早いな、バスケの部活ないのかな、と思いながら眺めていると、倉沢家の玄関が開いて朝と同じ、真っ白のコートを着た桃乃が出てくるのが見えた。手には紙袋がある。
きっとチョコを持ってきたんだ、そう思った冬馬が窓際から離れようした時、反対側の歩道から誰かが裄人に駆け寄って行くのが見えた。紺のショートコートの裾からわずかに見えるスカートは裄人の中学の制服だ。
「あ、兄ちゃんの彼女だ」
再び窓に近づいて目を凝らした冬馬はそう呟いた。
名前は忘れたけど顔は覚えていた。中学三年の裄人が付き合い始めたばかりの少女。
どうやら二人は待ち合わせをしていたようだ。
少女は長い髪を揺らして裄人に小走りで駆け寄ると、鞄からチョコレートを出して手渡している。裄人もそれを嬉しそうに受け取っていた。
そのまま二人はその場で少し会話をし出したが、やがて裄人は家の前の鉄製の小さな門を開けて手招きをする。きっと家の中に上がるように誘ったのだろう。
少女を門の中に入れた裄人はそこで初めて桃乃が近くに立っている事に気付いたようだ。何か話しかけている。桃乃も半分俯きながら何かを喋っているようだった。
最後に桃乃は紙袋の中から緑の包装紙でラッピングされた薄い箱を裄人に手渡した。そしてすぐに背を向け、自宅へと戻らずにそのままどこかへ行ってしまう。
── おっ、俺の分はっ!?
冬馬は慌てて一階へと駆け下りる。
玄関で裄人と少女に会う。こんにちわ、と挨拶してくる少女に早口で同じように言葉を返し、裄人に桃乃の事を尋ねようとした時、
「ほら、冬馬」
裄人はたった今、桃乃から手渡された箱を冬馬に渡す。
「桃乃ちゃんがお前にって。バレンタインチョコ」
「え!?」
てっきり裄人にだと思っていたチョコが自分の分だと知って拍子抜けしてしまった。
「兄ちゃんはもらったのか?」
「……いやもらってないよ」
裄人は冬馬から目を逸らすように答え、少女に「上がって」と言うと連れ立って二階へと行ってしまった。
── やった! 今年は俺だけだ!
緑の箱を手に鼓動が昂ぶってくるのを止められない。
急いで中身を開けてみる。
はっきりと手作りだと分かる星型の小さなチョコレートが全部で十二個、整然と並べられていた。
これは礼を言わなくっちゃな!
嬉しさのあまり迷わずに外に飛び出していた。桃乃が走り去った方角に向かって冬馬も走る。
しかし、すぐに追いかけたから見つかるだろうと思って飛び出したのだが、なかなか桃乃は見つからなかった。
近くの公園を手当たり次第に回ったが見つけられない。探し回っているうちにとうとう比良敷川の河川敷まで出てしまった。
……桃乃、どこに行っちゃったんだろう?
諦めて家に帰ろうかと思い出した時、橋の袂に何かうずくまっているのが見えた。
それが白いコートを着た桃乃だと視力の良い冬馬が気付くのにそれほど時間はかからなかった。
光の届かない暗い橋の下で、しかも雪と同調する白のコートを着た桃乃を偶然にも見つける事が出来た冬馬は、足元に気をつけながら白く雪化粧された土手を駆け下りる。
しかしすぐ側まで近づこうとした足は途中で止まった。
昨日一晩吹き続けた強い川風が新雪を橋の袂に寄せ集めたようで、その場所は他の場所よりも雪が多く積もっている。こちらに背を向け、その場にしゃがんだ桃乃は熱心に雪を掘っていた。しかも素手でだ。十の指先がみるみるうちに赤く染まってゆく。
( なにやってんだ、桃乃は? )
その奇妙な行動に疑問を抱いた冬馬は橋の支柱の一つに身を隠し、そっと様子を窺う。
地面の土が出てきたところでようやく桃乃は手を止めた。そして横に置いてあった紙袋から何かを取り出すとそこに丁寧に埋め始める。
元通りに、いや、最初に掘り始めた時よりも高く、それを雪で覆い隠すとようやく桃乃は立ち上がった。そしてくるりと回れ右をすると土手の上へと上がっていく。その横顔はしっかりと前を向いており、真っ赤な指先が空っぽになった紙袋をぎゅっと握り締めていた。
今更この場所から声をかけるのも不自然すぎて、結局冬馬はその後姿を見送るしかできなかった。
やがて桃乃が視界から消える。
残されたのは雪上に点々と連なる幾つもの小さな靴跡。
桃乃の靴跡のその一つ一つに自分の靴跡を合わせるように辿りながら、冬馬はさっきまで桃乃がしゃがんでいた場所に近づく。
行き着いた先にあったのは少し盛り上がった小さな雪の山。ここに墓標でも突き立てればまるで白い墓のようにも見える。
一瞬躊躇したものの思い切ってかき分けてみた。
雪が容赦なく末端の体温を直接奪いはじめ、たちまち指先の感覚が鈍りだす。肌の表面に張り付く冷気が刺すような痛みも呼ぶ。しかし冬馬は掘り続けた。乱暴に雪の塊を投げ捨てたその先にあったもの。
それは赤い包装紙でラッピングされた箱だった。
再びためらいの気持ちが起こったが、結局手に取りその包装紙を開けてみることにしたのは、それが自分が貰ったものと色違いの包装紙だったからだ。
だが雪でわずかに湿りだしているせいでうまく開けられない。赤い包装紙は冬馬のかじかむ指先が必死に動く度に小さく千切れ、はらはらと足元に落ちていく。灰色がかった雪の上に撒き散らされるそれは、まるで鮮やかな血痕のようにも見えた。
ビリリ、と少し耳障りな音と共に、まだ湿っていない中央部分の包装紙がやっと大きく剥がれた。
包みの中身が明らかになる。
その時。
その中身を見た時。
それまで痛いぐらいに感じていた指先の感覚が一気に消えた。
眼下のその光景が痛みを忘れてさせてしまったのだ。
特にメッセージがあったわけでもない。特に華美な包装だったわけでもない。
しかしそれでも目に映るその包みの中身は冬馬の心を粉々に砕くには充分だった。
手の中にあるのは自分の貰ったものとはまったく違う、少しいびつな形をした、大きなハート型のチョコレート。
この贈り物の相手が幼いなりにも瞬時に分かった。
そしてその相手に渡すべきだったはずのこの箱が、なぜここに埋められたのかまで。
── きっとこれは兄ちゃんに渡すつもりだったんだ ──
赤い包装紙が四隅にへばりついた薄い箱を手に、幼い少年は立ち尽くす。
桃乃が誰を好きなのか。
冬馬がそれを初めて知ったのがこの十歳のバレンタインの時だった。