越えたい背中 <1>
朝目覚めた時、すぐ側に人の気配があるとなんとはなしに心が落ち着くものだ。
だが突然部屋に入ってきたその人物の気配で目が覚めた裄人は、今まさに己の心臓を冷たい氷の手で直に掴まれたような恐怖の瞬間を迎えていた。
やや乱暴気味にドアを開け、室内に入ってきたのは冬馬だったのだ。顔つきは昨夜と同じでかなり険しい。
「お、おはよう、冬馬」
時刻はまだ午前六時前。
普通の感覚ならこんな早朝にいきなり部屋に乱入されれば文句の一つも言って然るべき場面だが、それでもとりあえずこうして朝の挨拶をするのが裄人らしいといえば裄人らしい。
薄いグレーのトレーニングウェア姿で現れた冬馬は一言ぶっきらぼうに言い放つ。
「……兄貴、支度しろ」
「し、支度って?」
「軽い自主トレ。付き合ってもらうぜ。外で待ってる」
有無を言わさずにそれだけを言い残すと冬馬は部屋を後にする。閉められたドアを数秒見つめ、裄人はゆっくりとベッドから降りた。
軽く頭を振り脳を覚醒させると、昨日までの記憶が一挙に呼び覚まされる。
昨夜のバイト終了後、冬馬と桃乃の事が気になっていた裄人は急いで自宅へと戻った。
だが、家には誰もいなかったのだ。
映画鑑賞を終えた麻知子と啓一郎が戻ってきたのが午後十時。そして冬馬が帰ってきたのはさらにその後だった。
桃乃と仲直りが出来たのかを聞きたかったのだが、冬馬はすぐに部屋に戻ってしまい、結局昨夜の事をまだ何も確認出来ていない。
だが先ほどの機嫌の悪そうな冬馬の様子を見て、昨日の二人の話し合いはやはりうまくいかなかったのか……と憂鬱な気持ちでクローゼットを開ける。
( でもあいつが自主トレに付き合え、なんて言うの久々だな )
クローゼットのかなり奥の方に仕舞ってあった黒のトレーニングウェアを取り出し、それに腕を通しながら裄人は思った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
身支度を済ませて外に出るとバスケットボールを手に冬馬が待っていた。
「じゃ行こうぜ」
「どこでやるんだ? 高見台か?」
「あぁ」
懐かしいな、と裄人は呟く。
その言葉が聞こえなかったふりをして冬馬は先に歩き出した。
「あ、待てよ冬馬」
すぐに裄人が後を追ってくる。朝早いせいもあり人気の少ない歩道で男二人が並んで歩くとかなり目立つものがある。
「……なぁ、冬馬。昨日、桃乃ちゃんと仲直りしたのか?」
意を決して尋ねた裄人に、木で鼻をくくったような返事が跳ね返ってくる。
「兄貴に話すことは何も無い」
「そう言うなよ。今回は本当に責任感じてるんだって……」
まだ色味の薄い朝空。
そこに浮かぶ綿雲の群れを見上げ、裄人はため息交じりに言葉を紡ぐ。
「昨日の話なんだけどさ、お前まだ怒ってるみたいだったから、俺、桃乃ちゃんに “ 今日は冬馬と話が出来ないと思うから会わないほうがいい ” って言ったんだ。だけど桃乃ちゃん、“ それでもいいからお前の所に行きたい ”って言ってきかなかったんだぜ? 俺、正直ちょっとびっくりしたよ。桃乃ちゃんがあんなに強情に言い張るところ初めて見たからさ」
「…………」
だが冬馬は一切反応をせず、バスケットボールを軽く上に放り投げながら黙々と歩く。
高見台の公園は西脇家からは徒歩で十分もかからないところにあるので、男二人の足だとあっという間に到着した。
今朝はまだコート上に他のプレイヤーの姿は無い。お互い、軽い準備運動で身体をほぐし終わると冬馬は言い渡すように告げる。
「いいか兄貴、手加減無しのマジ勝負だからな?」
「ははっ、俺がお前に勝てるわけないじゃん。運動するの久しぶりなんだから手加減してくれよ」
「ダメだ」
やれやれ、と言わんばかりに裄人は肩を竦める。
「じゃあオフェンスは俺からにしてくれよ」
「いや俺からだ」
そう言うや否や、冬馬はスタートの合図も無しでゴールまで一気に突っ込もうとした。しかしコースは即座にチェックされ、素早く裄人が立ち塞がる。
「おいおい、不意打ちは卑怯だな、冬馬」
「真剣勝負に不意打ちもクソもあるかよっ」
パスを出す相手がいないのでここは自力で突破するしかない。そのままパワーで押し切ろうとしたが、裄人のマークをなかなか外すことが出来なかった。
早朝のコートに響く軽快なドリブル音。
冬馬は小さく舌打ちをし、自分の体を盾にしてボールを守りながら突破するチャンスを虎視眈々と窺う。
斜め後ろにボールを引き、素早くドリブルチェンジ。ギリッ、とシューズの底が全力で歯を食いしばったような音がする。空いた右手でチェックを防ぎ、抜き去ろうとフェイクをかけた直後にジャンプシュートにいった。
明け方の空に大きな弧を描きながらボールは舞う。それは二秒後にリングの中に飛び込み、ネットを大きく揺らした。
「へぇ、お前ミドルシュート随分上手くなったじゃないか! 昔は全然入らなかったのにな」
今の軌跡を見た裄人が感心した声を上げる。
「当たり前だろ。あれから俺、何年バスケやってると思ってんだよ」
「お前が小五の時だっけ、本格的に始めたのは」
「あぁ」
「それまでたまに俺が教えてやってもお前、全然熱心じゃなかったのにな。急にクラブに入ってマジになって始めただろ? なにか心境の変化でもあったのか?」
「別に。兄貴の番だ」
顔を背け、冬馬は裄人にボールを投げた。
ボールをキャッチした裄人は掌全体でその感触を確かめる。
「……じゃあ行きますか!」
腰を落とし、半身になった裄人に冬馬はすかさずマークに入る。
「兄貴、本気でやれよ?」
裄人はにこやかに頷く。
「あぁ」
空気の流れが変わった。
動きを封じるために冬馬はプレッシャーをかけるが、裄人は余裕とも取れるその表情をまったく崩さない。
裄人が動く。
左足を踏み出し、ドリブルを開始しようとしたその動きに冬馬はすかさず反応する。
ルートを阻もうとコースチェックをしたその瞬間、裄人は上半身とボールの重心をわずかに後方に移動させた。
── 左かッ!?
そう判断した冬馬の腰が浮いた瞬間を裄人は逃さなかった。すかさず逆の右側をステップ・フェイキングで一気に抜き、そのままゴール下まで走り込むと綺麗なレイアップ・シュートを決める。
追いつけなかった。
「ハハッ、まぐれで入ったよ!」
嬉しそうに声を上げる裄人。そんな兄の姿を鋭い目つきで見つめる冬馬の胸中に複雑な思いが去来し始める。
「……何がまぐれだよ」
「いや、まぐれだって。あぁそれともゴールポストが低いせいかな? なんたって…」
その先の台詞を冬馬は言わせなかった。オレンジのリングを通り抜け、地面に転がっていたボールを掴むと険しい顔で吐き捨てる。
「なぁ兄貴っ、なんでバスケ止めちまったんだよ!?」
冬馬がバスケを始めたのは中学時代、クラブでバスケをしていた裄人の影響だった。
華麗にゴールを決める裄人の姿を見るうちに真似をして始めたバスケ。
初めはただの遊びだった。しかしある事がきっかけで冬馬は本格的にバスケにのめりこむことになる。
「んー……、なんで止めたのかって? そうだなぁ……バスケよりももっと面白い事知っちゃったからかな?」
その軽い口調に冬馬の苛立ちは増した。
「面白いことってなんだよ!?」
「ん? 女の子と遊ぶこととか……」
「真面目に答えろよ!」
「俺、真面目だぜ?」
「ふざけんなよっ!」
空気が裂かれる音。
冬馬は手にしていたボールを渾身の力をこめて兄に投げつけた。
「なぁっ! なんで兄貴はそうやっていつも手を抜くんだよ!?」
「手を抜く?」
自分に向けて投げられたそれを胸の前でしっかりとキャッチし、裄人は不思議そうに問い返す。
「そうじゃねぇか! 兄貴は本当はなんでも出来るくせに、どうして本気でやらないんだ! 本気になればなんだって出来るくせにどうしてだよ!」
「本気も何も、これが俺の精一杯だよ。お前は俺を過大評価しているだけだって」
そう言いながら裄人が見せる微笑が冬馬の心を余計に苛立たせる。
── そうだ、いつもこうなんだ。
兄貴はいつもこうやって何でもはぐらかす。
何も出来ないふりをする。
そして最後に全部持っていっちまうんだ。
あっさりと簡単に。何の苦労もしないで。
冬馬は悔しげに唇を噛んだ。
まだ体内に残る苛立ちが熾火のようにくすぶり続けている。
だが手元にもうボールは無い。
だから再び全力で投げつけた。自分の心の内を曝け出す、ストレートな言葉だけを。
「兄貴っ、本当は知ってたんだろっ!? 分かってたんだろっ!?」
「何のことだ?」
裄人は怪訝そうにそう問い返すと、シュートでもしようと思い立ったのかゴールポストに身体を向け、ボールを弄び始める。
コート内に一定だがスローなドリブル音が響き始めた。今の冬馬にはそのゆっくりとしたドリブル音までが自分をからかっているように聞こえてしまう。
あらん限りの、そして今まで溜め込んできた憤りのすべてをこの言葉に込めて、冬馬は兄の背に向かって叫ぶ。
このために裄人を呼び出したのだ。
ボールではなく、この問いを投げつける、ただそのためだけに。
「なぁ知ってたんだろっ!? 桃乃が兄貴のことを好きだったことだよっ!」
── 突然の静寂。
唐突に、本当に唐突に、ドリブル音が止んだ。そして次に来たのは──沈黙。
「答えろよ兄貴!」
冬馬は再び裄人の背に向かって叫ぶ。
空を流れる綿雲の動きが早い。上空の風がかなり強いのだろう。
コートの中を一陣の風が抜ける。早朝のわずかに冷気を含んだ風が、ボールを手に佇む裄人の後ろ髪を静かに揺らす。そしてその涼風が、知りたかった答えを冬馬の元へと一気に運ぶ。
「……知ってたよ」
「……ッ!」
カッと頭に血が昇るのが分かった。
目の奥が焼けるように熱い。
神経に熱い電流が走り、体内の血流が沸騰して逆流するようなこの感覚。
以前に “ 桃乃を昼に誘った ” と要から挑発された時と同じ、いやそれ以上の熱さだった。
「やっぱり知ってたのかよ……!」
「あぁ」
「いつから知ってたんだよ!?」
「はっきり分かったのは桃乃ちゃんが小学四年生の時だな」
「……バレンタインか……?」
「なんでお前が知ってるんだ?」
裄人はわずかに振り返ったが、冬馬の表情を見てその先の言葉を止める。
「あぁ知ってるさ、俺はあの時見てたからな……!」
拳が震え出してきているのが分かる。
思い出したくない、あの日の記憶が蘇る。
だが今でも鮮明に思い出せてしまうのだ。小さくて真っ赤な、あの十の指先を。
それはあのバレンタインの前日、雪が降ったせいだ──。