月光下の囁き 【 後編 】
食事を終えた二人は、百合ヶ丘公園へと足を向ける。
薄暗い路地を歩く二人はいつの間にか手を繋いでいた。
自分から繋ぎにいったのか、
それとも冬馬が握ってきたのか、
思い出そうとしたがまったく覚えていない。
こういう動作がどちらからともなくごく自然にでき、そして受け入れるようになっている事実に訳も無く嬉しくなる。
約二ヶ月ぶりに訪れた夜の百合ヶ丘公園。
頭上には滲むように光る三日月。そして眼下に広がる様々な街の灯りはまるで巨大な宝石箱を見ているようだ。高台から眺めるその景色はあの夜と何も変わらずに煌いている。
階段を上り、以前と同じ場所に向かったが、今夜は何組かの先客がいた。
「あっちに行くか」
冬馬に連れられ、反対側の斜面に向かう。
こちら側から見下ろす景色は中心街から外れてネオンがまばらなため、人気が少なかった。
腰を下ろしてすぐ、左手の山側の斜面に青い光で包まれた白い建物が桃乃の視界に入る。
少々見栄えの劣る夜景の中でその建物は静かに、でもしっかりとその存在を主張していた。
「冬馬、あの建物すごく綺麗だね」
「どれだよ?」
「ほら、あの斜面の中央にあるでしょ、青い光でライトアップされた建物。なんか幻想的で綺麗じゃない?」
「……桃乃、お前あれが何か知らないのか?」
桃乃が指差す方角を見た冬馬は呆れたような声を出す。
「うん。冬馬は知ってるの?」
「ま、まぁな」
「あれ何?」
「何? って言われてもなぁ……」
どう説明すべきか迷っているのがその表情にありありと表れている。
「何かのお店?」
「店? 店っていうか……」
煮え切らないその受け答えに桃乃は痺れを切らす。
「もう、勿体つけないで教えてよ!」
冬馬は渋々答える。
「……lunaっていうホテルだよ」
「えっ、あれホテルなの?」
「あぁ。でも “ 休憩もOK ” のホテルな。…………意味分かるだろ?」
その言葉の意味を理解出来た桃乃の両頬が瞬く間に紅潮する。
「どっどうして冬馬はそんな事知ってるの?」
「最近クラスでよくあのホテルの話がちょくちょく出てるんだ。クラスは皆男ばかりだからさ、休み時間になればそういう類の話題がしょっちゅう出るんだよ。で、外観が全然それっぽくないから女を誘いやすいんだってよ」
「そ、そうなんだ…………、あっあのね冬馬、これあげるっ!」
深い意味もなく、綺麗と褒めた建物がラブホテルだったことを知り、桃乃は気恥ずかしさをごまかすためにトートバッグから小さな包みを取り出した。さっき一度家に戻った時に取ってきたものだ。
「なんだこれ?」
「今日の家庭科実習で作ったの」
「へぇ、何作ったんだ?」
綺麗にラッピングされた袋が大きな手で開けられる。
「これ、クッキーか?」
「うん、冬馬好きでしょ? ホワイトクッキー」
途端に夜空の下に爆笑が響く。
「ははっ! おい、それいつの頃の話だよ?」
「だ、だって昔は好きだったじゃない?」
「だからそれガキの頃の話だろ? 俺、クッキーっつーか、甘いもの全般もうダメだぜ?」
「そうなの!? いつ頃から!?」
「うーん、いつ頃だっけ……。よく覚えてねぇけど結構前から甘いものは食わなくなってるな」
「そうだったんだ……」
「あっ、でもこれはせっかく桃乃が作ってくれたからもちろん食うって!」
慌てて袋の中に手を入れてクッキーを一つ取り出し、冬馬はそれをポイ、と口の中に入れた。
「美味しい?」
しばらくの間、冬馬は無言でホワイトクッキーを味わう。そしてゴクリと飲み込むとボソッと訊ねた。
「……これ、桃乃が作ったのか?」
「うん。沙羅と一緒にね」
「……味見してみたか?」
「え? ううん、ホワイトクッキーの方はしてない。沙羅と半分に分けたから自分で食べたら少なくなっちゃうと思って」
「ちなみに砂糖を入れたのはどっちだ?」
「え? 沙羅だけど?」
「沙羅か……。あいつ、そそっかしい所ありそうだもんなぁ……」
そう言いながら冬馬は二つ目のホワイトクッキーを淡々と口に放り込む。
「な、なに? もしかしてそのクッキー美味しくないの?」
「美味しくないっつーか……」
冬馬は二個目のクッキーを咀嚼しながら言いにくそうに告げる。
「……とにかくメチャクチャ甘い。尋常じゃない量の砂糖が入ってるぞ、これ」
「えぇ!?」
沙羅がボウルに砂糖を入れていたシーンを頭の中で再生してみる。
「……そ、そういえばお砂糖の量、随分多かったような気が……」
あの時は冬馬との行き違いで気持ちが沈んでいてそこまで気が回っていなかった。
「なんか砂糖をそのまま食ってるみたいだ」
そう言いながらも冬馬が三個目のホワイトクッキーを手にしたのを見て、桃乃は慌てて止める。
「と、冬馬! そんなにすごい味なら食べなくていいよ!」
「いや全部食うって」
一応はクッキーと言う名の砂糖の塊が冬馬の口中にまた消えてゆく。
「それ返してってば!」
「嫌だ。桃乃から手作りの菓子もらうの久しぶりだからな」
そう言われて気がついた。
当時は義理だったとはいえ、昔はあげていたバレンタインデーの手作りチョコ。
あげなくなってもう丸二年が経っている。
「桃乃も食ってみるか?」
三つ目の激甘クッキーを食べ終わった冬馬がからかうような表情を浮かべる。
その失敗菓子をこれ以上食べさせたくない。なんとしても取り返したかった。
「食べるっ! ちょうだい!」
取り返そうと両手を伸ばしたが、袋はタッチの差で空中に逃げてゆく。
「違う。こっちじゃねぇって」
── その次の瞬間、本当に砂糖を直接口に含んだかのような強烈な甘さが口中に広がった。
冬馬の腕の中で桃乃は目を見開く。
触れ合う唇。冬馬の口中にあったクッキーはすでに溶けて消え去っており、残った強烈な甘さだけが差し込まれた舌を通して伝わってくる。
「どうだ? すっげー甘いだろ?」
唇を離した後、茶目っ気たっぷりの表情で冬馬が笑う。
予想以上だったその強烈な甘さに、桃乃は口元に手を当てて呆然と冬馬の顔を見つめた。
するとクッキーの入った袋がわざと桃乃の目の前で振られる。
「ほら、もう一回食ってみるか?」
だがここで頷いてもたぶんクッキーはまた食べさせてもらえず、袋も取り返すことは出来ないだろう。きっと貰えるのはたった今味わった信じられないような甘さ。それだけだ。
しかしそれでも返事は決まっている。
だからうん、と素直に頷いた。
冬馬は袋を草むらの上に置くと嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑う。
桃乃、と名を呼び、冬馬はほのかにフローラルの香りのする黒髪に顔を近づける。そして一言だけそっと囁いた。
しかし耳元で囁かれたその声はあまりにも低すぎて、うまく聞き取ることが出来なかった。
なんて言ったのかを訊き返そうとする前にまた唇が塞がれる。
伝わる甘味の強さはだいぶ落ちてしまっていたが、逆にそれがほどよい甘みに変わっていた。
長く骨ばった指が髪の中に滑り込んでくる。
他人に気安く自分の髪を触られると決していい気持ちはしないものだが、それが自分の大好きな相手なら話は別だ。湧き起こる感情はまったく真逆になる。
心地よくて、安らいで。どこまでもどこまでも幸せな気持ちになれる。
ずっと、ずっと、永遠にそうしていて欲しいと思うぐらいに。
「綺麗な髪だよな。すげーサラサラしてて触ると気持ちいい」
優しく髪を撫でられ、満ち足りた幸せが心を優しく包み込んでゆく。
もっともっと、身体中すべてをその幸福の泉の中にひたしたくて、目の前の広い胸に片頬を当てて、静かに目を閉じた。
── もし、この時桃乃がすぐに訊ねていたら、二人の関係は変わっていたかもしれない。
だが髪を撫で続けてくれる冬馬の愛撫に身を委ねている内に、
「今なんて言ったの?」
と訊ねようとしたことなど、桃乃はもうすっかり忘れ去ってしまっていた。