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すれ違った心 <1>



「裄人! いつまで寝てるつもり!? さっさと起きなさぁい!」


 時刻はもうすぐ午前十時。

 夜遊びが長引き、明け方に帰宅してグッスリと眠っていた裄人の頭上から大声が降ってきた。


「……母さ~ん……、頼むからもうちょっと寝かせてくれよ……。今日の授業午後からなんだからさ……」

「なーに言ってんの! 毎晩毎晩夜遊びばっかりして! 少しは冬馬を見習いなさい!」


 冬馬と裄人の母、西脇(にしわき)麻知子(まちこ)は大声で裄人を叱ると部屋のカーテンを全部開け放った。男の子二人を育てたせいか見かけも性格もボーイッシュな所がある女性だ。


「……だから母さん、昨日は大学の授業で遅くなったんだって……」  


 部屋中に一気に差し込んできた朝日の容赦ない眩しさに、裄人は顔の前に手をかざして目を細める。

 その返事を聞いた麻知子はベッドの側にツカツカと歩み寄ってくると、裄人の頬を一瞬だけ軽くムニッとつまみあげた。


「どこの世界に朝帰りまでする授業があるっていうの!?」

「あるよ? 今世紀に生きる人類の、深夜繁華街におけるそれぞれの行動パターンをゼミで調査しているんだ。その調査で出た傾向を詳細なレポートにまとめて……」

「いいからバカなこと言ってないでさっさと起きなさいっての!」


 言い訳を諦めた裄人はベッドから一気に起きあがると、母親につままれた自分の頬を労わるようにさすった。


「母さん、頼むから顔つまむのはやめてくれよ。俺の顔が崩れたら何人の女の子が悲しむことか」

「あーあー、崩れなさい、崩れなさい。逆にそのほうが勉強に集中できていいんじゃないの?」

「ひどいな、母さんは……」

「冬馬を見なさい。朝は早くから起きて学校に行って、夜はちゃんと予習もやって……。裄人みたいに女の子のお尻ばっかり追っかけてないわよ?」


 即座に裄人の右手が軽く上がる。


「おっと母さん、そこは異議ありだね。俺は女の子のお尻なんて追っかけてないよ? 女の子達が俺を追っかけてくるの。それにさ、女の子を追っかけているのは俺じゃなく冬馬のほうだよ?」

「えっ冬馬が? まっさか~!」

 

 麻知子は裄人の今の言葉を全然信用していない様子でアハハと笑う。


「あれっもしかして母さん知らなかったの?」

 

 長身の裄人はベッドから降りるとウ~ンと大きく伸びをする。上に大きく上げられた両手はあと十センチ足らずでグリーンのクロス貼りの天井に届きそうだ。


「あいつ、桃乃ちゃんにベタ惚れなんだよ。いっつも桃乃ちゃんの後ばっか追っかけてるじゃん」

「あー……」

 

 桃乃の名前を聞いた麻知子は何か思い当たったような表情になる。


「じゃあやっぱりそうなのね。冬馬が桃乃ちゃんの所によく行くのは高校もまた一緒になったし、幼馴染だからかなーとも思っていたんだけど……」

「違う違う。甘いな、母さんは」

 

 母親の鈍感さに裄人が笑う。

             

「あいつはね、もうずーっと昔から桃乃ちゃん一筋なんだよ」

「そういえば冬馬ってばさ、昨日の朝、倉沢さんの家に寄って桃乃ちゃんと一緒に学校に行こうとしたみたいなのよ」

「な。たぶん今朝も誘いに行ったんじゃないかな。あの新品のクロスバイクでさ」

「でも今朝は一人で乗って行ったみたいだけどね……。ね、桃乃ちゃんは冬馬のことなんとも思ってないのかしら?」

「ん~、実は俺もその辺がまだよく見極められないんだよなぁ。最近の桃乃ちゃんってどうも冬馬を避けているような感じがするしさ」

「あら、そういう事を見抜く能力しかないのに、さすがの裄人も分からないんだ?」

「……母さん、そこまで言う?」  


 いつもは穏やかな顔を少々崩し、心外だと言わんばかりの顔で裄人が反論する。


「確かに俺は冬馬と違って遊び人だけどね、冬馬ほどじゃなくても俺だってそこそこの学力はあるつもりだよ」

「はいはい。じゃあそれを証明するためにも少しは夜遊びを控えて勉学に励みなさいっていうの!」

「はは、そうきますか……」

 

 母親の切り返しの早さに感心しつつも、裄人は自分に不利なこの話題を自然に変える。


「じゃあ俺がさ、今度桃乃ちゃんにさりげなく聞いてみるよ」

「えっ冬馬のことを?」

「うん。血を分けた、たった一人の可愛い弟だしな、できれば好きな()と上手くいってほしいじゃん」

「そうね、桃乃ちゃんはいい子だしねぇ……。そうだ! もし桃乃ちゃんがお嫁さんに来てくれたら相手のお家は倉沢さんだもの、千鶴ちゃんとは気心も知れているし、親戚付合いも肩肘張らなくていいわよね!」

「母さん、さすがにそれは気が早過ぎだって」

 

 麻知子の発想の突拍子さに裄人は苦笑する。


「じゃ母さん、着替えるからちょっと出てってくれない?」

「なによー、別にいいじゃん。恥ずかしがる事ないでしょっ、実の親子なのに今更ー!」

「実の親子でもプライベートがあるの!」

 

 麻知子を強引に部屋から追い出すと裄人はクローゼットを開けた。シャワーはつい数時間前にホテルで浴びてきたばかりだ。  


( そろそろ本気で車の事を考えなきゃなぁ…… )    


 女と夜遊びするにはやはり自分の車が必要だと最近の裄人は考えていた。

 今日は午後からのゼミで裄人が研究発表をする番だ。今密かに狙っている娘が自分と同じゼミを受けているのであの娘に今日はいい所を見せなくっちゃな、とついつい気合も入る。

 しかし真剣に服を選びながらも、器用な裄人は頭の中で同時にまったく別の事を考えていた。


( ん~桃乃ちゃんをいつ誘って訊き出そうかなぁ…… )




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆   




 裄人に部屋を追い出された麻知子は階段を下りながらもう一人の息子のことを考えていた。


( そっか……冬馬ももうそういう年頃なのねー…… )


 結婚してすぐに裄人を身ごもり、五年後に冬馬を産んだ麻知子は現在四十五歳。

 二人の子供が段々と自分の手から離れ始めているのを最近の麻知子は特に強く感じるようになっていた。それを認めたくないせいなのか、麻知子は裄人はともかく、冬馬はまだまだ手のかかるやんちゃな男の子だと思いこもうとしていた。

 だが、冬馬の桃乃に対する気持ちを裄人から聞き、いよいよどちらの我が子も自分の元から巣立っていく準備が始まっている事実を知った麻知子はほんの少しだけだが淡い寂寥感を感じずにはいられなかった。

 しかし倉沢家の一家は皆とても良い人達だし、今までもいいご近所づきあいをさせてもらっている。そして向かいに住む者として倉沢家の子供達を小さい時からずっと見てきている麻知子は、自分や夫の親戚の子ども達よりも、桃乃や葉月のことを可愛く思っていた。


( 桃乃ちゃんならいいわ 安心して冬馬をまかせられるもんね )  


 常に物事を前向きに考える麻知子はあっさりと頭の中を切り替える。そして一階に下りると、裄人に言い忘れたことを思い出して二階に向かって叫んだ。


「裄人~! 母さん、千鶴ちゃんと婦人会の集まりに行ってくるからね~! 出かける時、ちゃんと家の鍵かけて行ってよ~?」

「了解~!」

 

 二階から鼻歌まじりの声が聞こえてくる。

 麻知子は手早く出かける支度をすると向かいの倉沢家に千鶴を迎えに行った。

 



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 




 倉沢家の玄関へと入ると麻知子はインターフォンを押す。押してすぐに千鶴のおっとりとした声が聞こえてきた。


「はい。どちら様ですか?」

「私よ、千鶴ちゃん」

「あ、麻知ちゃん? いけない、もう行く時間ね。ちょっと待っててね」

 

 プツリ、とインターフォンが切れる。

 麻知子は玄関先で千鶴が出てくるのを待ちながら倉沢家のミニガーデンを見ていた。

 わずかなスペースながらも綺麗に手入れされ、季節の花が咲き誇る倉沢家の小さな花壇は花好きな千鶴の性格が如実に表れている。


( 私ももうちょっと千鶴ちゃんを見習ってこういうことしなくっちゃね…… )    


 麻知子は自分の家の玄関先を振り返りため息をついた。

 自宅の玄関先はとりあえず、という感じで大きめのパキラが一鉢とリビングにポトスを二、三個置いてあるだけで、それも麻知子が花よりも観葉植物が好きだからというわけではなく、ただ単に頻繁に手入れをしなくてもなかなか枯れないから、といういささか情けない理由だ。


 元来のさっぱりとした性格と子供が二人とも男の子だったせいで、どうしても麻知子は千鶴のようにフリルのエプロンをつけたり、花を愛でたりという女らしさに欠けているところがあった。

 そしてそれは麻知子自身もよく自覚していて、千鶴のように髪を伸ばしてウェーブでもかけてもう少し女らしくなろう、と何度か一念発起したこともある。

 しかし、いざ自分の髪が肩に届く頃になるとどうしてもそれが邪魔に感じられ、結局最後は美容室に駆け込んで思いきり明るめのブラウンのカラーを入れて元のベリーショートにして戻してしまうパターンの繰り返しだった。

 自分は自分、人は人、と思っていても身近で千鶴のようなおっとりとして女らしい女性を見ると、やっぱりこれでいいのかしら、と今も麻知子は思い悩むことがある。


( たぶんウチの子達がいかにも女の子らしい子が好きなのは、きっと私の姿を見てきているからなんだろうなぁ…… )  


 裄人がいつも連れている女性達のタイプや、千鶴によく似ている桃乃を見ると、殊更に麻知子はそう思わざるを得なかった。

 そう考えた麻知子がなんとなく気分が落ち込みがちになった時、ガチャリと玄関の扉が開きかける。 千鶴が出てきたのかと思い、麻知子はふざけた口調で「もう、遅いわよ~!」と声をかけた。

 しかし次の瞬間、麻知子は「あっ…!」と口を開けて絶句する。


「いやぁ~お恥ずかしい。ちょっと寝過ごしてしまいましてね、こんな時間になってしまいました」


 玄関から出てきたのは千鶴ではなく雅治だったのだ。


「いっいえ! そんなつもりで言ったんじゃないんです! 済みませんっ!」

 

 麻知子は真っ赤になって雅治に謝った。少し遅れて千鶴も玄関先に姿を現す。


「あら、どうしたの?」  

「あっ千鶴ちゃん! わ、私千鶴ちゃんが出てきたのかとばっかり思って……!」

 

 慌てて弁解しようとする麻知子を見て、雅治の眼鏡の奥が何かを思いついたかのようにキラリと光った。


「いえいえ、元はと言えば僕ごときが重役出勤の真似なんかするからいけないんです。……ねぇ、麻知子さん?」

「と、とんでもないですッ!」


 麻知子はぶんぶんと豪快に首を横に振る。


「もう雅治さんたら、麻知ちゃんをからかうのはやめてちょうだい」

 

 恐縮しまくる麻知子を見て千鶴は夫をたしなめた。

 雅治は悪戯をし終わった少年のように満足げにニコッと笑うと、千鶴と麻知子に「行ってきます」と言い車に乗り込む。  

 クラクションを小さく二度、そしてマフラーの排気音を大きく鳴らしながら雅治が出かけてしまうと麻知子はフゥッと大きく息を吐いた。その安堵のため息を聞いて千鶴が申し訳なさそうに謝る。


「ごめんね麻知ちゃん。ウチの人、時々ああやってわざと人をからかったり困らせたりするところがあるの」

「ううん。間違えたとはいえ失礼なことしたのは私だし。じゃ、行きましょ!」


 今日は千鶴達が住む町内の主婦を対象にした、二ヶ月に一度の婦人会が開催される日だ。千鶴と麻知子は婦人会の行われる会館へ並んで歩きがてら、早速たわいのないお喋りを始める。


「ねぇ、千鶴ちゃん、雅治さん今日どうしてこんな時間に出勤しているの?」

 

 麻知子は千鶴より六つ年上だが、お互い子供の年も近く、この土地に同時に越してきた時からの付き合いのため、二人はいつの頃からかそれぞれお互いを下の名前で呼ぶようになっていた。


「雅治さん、明け方に帰ってきたのよ。なんでも今度新しく創刊される雑誌の準備で今、仕事が大忙しみたいなの。さっきまでリビングで仮眠取ってたのよ」

「じゃあろくに睡眠取らないでまた会社に行ったの?」

「えぇ」

「まさに企業戦士って感じね。ウチの旦那にも見習ってほしいわー。ウチなんて毎日朝八時に家を出て夜六時にきっかり帰ってくるのよ。いやんなっちゃう」

「いいじゃない。毎日きちんと同じ時間に帰ってくるなんて。羨ましいわ」  


 冬馬と裄人の父で、麻知子の夫でもある啓一郎(けいいちろう)は役所に勤める公務員だ。


「そういえば麻知ちゃん、今日雅治さんね、明け方帰ってくる時に家の前で裄人くんに会ったって言ってたわよ?」

「裄人の奴、今日朝帰りしたのよ」

 

 麻知子は大袈裟にため息をついてみせる。


「大学に行くようになってからもう遊んでばっかり。ちゃんと勉強してるんだか……」

「裄人くんなら大丈夫よ。昔からやる時はちゃんとやる子だったじゃない」

「そうだといいんだけどね」

 

 肩を竦め、そう相槌を打った麻知子はここであることをふと思い出した。


「……ねぇ千鶴ちゃん。今朝、もしかしてまた冬馬そっちにお邪魔した?」

「えぇ来たわよ。素敵な自転車に乗ってね」

「やっぱりか……」

 

 どうやら裄人の言っていた事は本当らしいわね、と麻知子は内心で思った。


「冬馬くん、今日も桃乃を迎えに来てくれたんだけどね、桃乃なにか用事があるみたいで朝早く出ちゃってたのよ。ごめんなさいね」

「千鶴ちゃんが謝ることないわよ。ウチの息子が勝手なことしてるんだから。こっちのほうこそごめんね」

「ううん。今日桃乃が帰ってきたら言っておくわね。明日は冬馬くんと一緒に学校に行くと思うわ」

「……ん……」  


 今の千鶴の言葉にどう返事をすべきか迷った麻知子は曖昧な返事をしてしまった。

 もし桃乃が冬馬との登校を嫌がって先に出かけていたとしたら桃乃に申し訳ないし、しかし母親として冬馬が桃乃と通学したがっているのならさせてやりたいという親心もあったせいだ。


「で、でもね千鶴ちゃん。もし桃乃ちゃんが少しでも嫌がってるみたいなら無理に言わないでね? 絶対よ?」


 千鶴は何を言うの、と言わんばかりの笑顔で微笑んだ。


「桃乃が嫌がるわけないじゃない。幼馴染の冬馬くんなのに」  


( そうだといいんだけど…… )


 麻知子は心配する気持ちを隠し、千鶴に合わせて表面上は笑顔を見せた。



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