月光下の囁き 【 前編 】
「お母さん! 私これから冬馬と外でゴハン食べに行ってもいい?」
西脇家を出て一度自宅に戻った桃乃は、母の千鶴にそう尋ねた。すると千鶴は少し考え込む表情を見せる。
「ウチはいいけど、麻知子ちゃんは何て言ってるのかしらね。向こうでも夕食の支度をしているでしょうに」
「ううん、おじさんとおばさんは一緒に映画を観に行ったみたい。それで冬馬の晩ご飯が無いみたいなの」
「あらそうなの? それはかわいそうね。ならウチで一緒に食べたらどう?」
まずはそう提案した千鶴だが、桃乃の顔を見てすぐに意見を変える。
「でも桃乃は二人でお食事に行きたいのよね?」
「うんっ」
嬉しそうに頷いた桃乃を見て千鶴は温かい眼差で優しく微笑んだ。
「冬馬くんは外で待っているの?」
「ううん。まだ制服だったから着替えてる。だからお母さんにゴハン要らないこと伝えておこうと思って。じゃあ行ってきてもいい?」
「えぇ。少しくらいなら遅くなっても構わないわよ」
「ホント!? じゃあ行ってくるね!」
「あっ待って桃乃」
急ぎ足でリビングを出ようとした桃乃を千鶴が呼び止める。
「それと例のあの件だけど、お父さんからOKが出たわよ」
「えっそれ本当!?」
足を止めて半信半疑の表情で振り返った娘を安心させるように、千鶴は大きく頷く。
「あ! お姉ちゃんっ、冬馬兄ちゃん出て来たよっ!」
母と姉の会話に聞き耳を立てつつリビングの窓から外を監視していた葉月が叫んだ。胸を躍らせ、桃乃は急いで玄関に向かう。
すると廊下を走る足音がなぜかもう一つ。振り返ると葉月がちゃっかりと後を追ってきていた。
「な、なによ、葉月?」
「えへへっ、お姉ちゃんお先にー!」
葉月はそう叫ぶと桃乃を追い越し、先に外へと飛び出した。
「冬馬兄ちゃーん!」
倉沢家の門を開けたばかりの冬馬は玄関から弾丸のように葉月が飛び出してきたので、一瞬驚いた様子を見せる。
「どうした葉月!?」
葉月は一目散に冬馬に駆け寄り、その身体に抱きついた。
「ねぇ冬馬兄ちゃん! これからお姉ちゃんとお食事に行くんでしょ?」
「あ? それがどうした?」
「じゃああたしも一緒に連れてってよ!」
「何っ!?」
「ねー、いいでしょー? おねがーい!!」
葉月は両手を組み合わせ、すがるような目で頼み込む。その姿を目にした冬馬は少々不自然な角度で無理に口角を上げた。
「あぁ、そ、そうだな……。じゃあ葉月も一緒に行くか……?」
すると即座に幼い笑い声が上がる。
「アハハハッ! 冬馬兄ちゃんってば無理しちゃってるぅー! 顔すっごく引きつってるよ!? 本当は連れてってほしいところだけど、牟部神社のお祭りであたしにもお土産買って来てくれたから今日は我慢するね! だからお姉ちゃんとの夜のデート頑張ってね~っ!」
「……葉月お前……」
一気に気が抜けた冬馬は表情を緩めると、葉月の頭を捕まえてガシガシと強く撫ぜる。
「お前ら姉妹そろって俺をからかうなっての!」
「いやー! やめてー! ヘアスタイルが乱れるー!」
そんな大騒ぎの玄関先に、どの靴を履いていくかで迷って遅くなった桃乃がようやく出てきた。すかさず葉月は見せつけるようにもう一度冬馬に抱きつく。
「お姉ちゃん見て見てー! どうどう? 焼きもち焼いちゃうでしょー?」
「バッ、バカじゃないの? 焼くわけないでしょっ!」
「えー? なーんだぁ、面白くないなぁー」
次は姉をからかおうとした目論見が今度は失敗に終わり、葉月はガッカリとした表情になる。するとその様子を見た冬馬が我慢しきれずに噴き出した。
「ハハハッ! いくらなんでも相手が葉月じゃなぁ。そりゃあさすがに力不足だろ」
「あーっ! 冬馬兄ちゃんってばヒドーい! 今のってセクハラだよセクハラ!」
軽口を叩いた冬馬に、葉月が突っかかる。桃乃は玄関の門を開けて先に歩道に出ると、冬馬の左腕を取り、そのままぐいぐいと引っ張った。
「行こっ冬馬!」
「おう。じゃな葉月、いい子で留守番してろよ?」
「もー! またそうやって子供扱いしてーっ! べーだ!」
最後に大きく赤い舌を出した後、葉月は怒りながら家の中に引っ込んでいった。その様子を見た冬馬は「ヤバイな」と呟く。
「完璧に葉月を怒らせちまったよ。あいつ怒らせるとしばらく口きいてもらえなくなるんだよな」
「大丈夫だってば! あとで私がフォローしとくから早く行こっ」
葉月の様子を気にする冬馬の腕を、さらに桃乃は強く引っ張る。
さっきは強く否定をしたが、四歳下の実の妹にまでわずかではあるが嫉妬の感情が湧いた自分に驚きを隠せない。
胸の中の大部分を占めているこの気持ち。
これはきっと独占欲だ、桃乃はそう自覚する。
「ところで桃乃、店どこにする?」
「え? どこでもいいけど」
「そういう返事が一番困るんだよなぁ」
夜空に向かって冬馬が愚痴をこぼす。
「冬馬が食べたいところに行こっ」
絡ませていた腕に力をこめ、冬馬に身体を寄せる。
ぎゅっと力を入れた分だけ、ピッタリと身体を寄せた分だけ、嫉妬の感情が薄まり、心が落ち着くような気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「この辺は食い物屋が全然無いのが困るよな……。桃乃ん家が大丈夫だったら街中まで出たかったよ」
二人が住む辺りは密集した住宅地なので、近くにあまり飲食店が無い。
結局一番手近なファミレスに入り注文を終えた後、冬馬がそうぼやいた。
「えっ? お母さんに少しぐらい遅くなっても構わないって言われたよ?」
「マジで!? おい桃乃、お前それ早く言えよ……」
冬馬はガックリと肩を落とす。
「だって冬馬がさっさとここに入っちゃったからじゃない。よっぽどお腹空いているのかな、と思ったんだもん」
「違うって。時間気にしてたんだよ。お前を遅く帰して心象悪くしたくないんだ。俺と付き合うな、なんて言われたくないからさ」
テーブルの端に置かれていた水のコップを中央に移動させていた桃乃は、その返答を聞いて思わず手を止める。
「冬馬って心配性だね」
「……ほっとけ」
きまりが悪くなったのか、冬馬はとってつけたようにメニューを再び手に取ると、屏風のように垂直に立てて自分の顔を隠した。
平日だというのに家族連れが多い。
店内はちょうど夕食時とあって賑わっており、ウェイトレスが急かすように各テーブルへ注文を訊きに回っている。その奮闘振りを横目で見た冬馬は、「桃乃、今度もっと美味い所に食いに行こうな」と小声で告げた。
「うん」
「そういえばデザート何も頼まなかったけどいいのか?」
「うん、いらない」
「まさかダイエットとかじゃないだろうな?」
「ううん違うよ。それよりここでゴハン食べ終わったらちょっと寄り道してから帰りたいんだけどな」
少しでも長く一緒にいたいから甘えたように誘ってみた。
それに渡したいものもある。
「それいいな! どこに行く?」
「百合ヶ丘がいいな」
「あの公園か? でもここと反対の方角だぞ?」
「あの夜景、また見たいの。行こ?」
そこまで頼まれれば冬馬に異存があろうはずもない。
「あぁ、じゃあここ出たら寄って行こうぜ」
食事の後に百合ヶ丘公園に行く事が決まったその時、通路を挟んで隣のテーブルから携帯電話の着メロが鳴り始めた。聞こえてくるアップテンポの曲でもう一つ伝えたかった事を思い出す。
「あ、そうだ冬馬。そういえばいいニュースがあるよ」
「なんだよ?」
「あのね、お父さんがケータイ買ってもいいって」
「マジでっ!?」
冬馬は急に目を輝かせだす。まるで欲しくて欲しくてたまらなかった玩具をようやく買ってもらえることになった子供のようだ。
「うん。さっきお母さんから聞いたの。今時ケータイを持ってないなんてありえないって葉月も騒いでくれたから何とか許可が出たみたい」
「へぇ、じゃあ葉月も持つのか?」
「たぶんそうだと思う。塾の帰りが遅くなった時とか絶対必要だってすっごく大騒ぎしてたもん」
「そっか、じゃあ葉月に感謝しとかないとなぁ。今度あいつにお菓子でも買ってやっか」
「もう、分かってないわね。そういうことをするから “ また子ども扱いして! ” って葉月が怒るのよ?」
桃乃に諌められた冬馬は呆れたように首をすくめる。
「だって神社のお土産は喜んでたみたいじゃんか」
「それはあくまでお土産だからでしょ。今の場合はご褒美としてお菓子を上げるってことじゃない。そこがダメなのよ」
「分っかんねーなぁ……。女って面倒臭ぇ」
その言い草が気に障った桃乃はわざと素っ気ない口調で尋ねる。
「ちょっと冬馬、それって私もってこと?」
「い!?」
焦った冬馬の手からメニューのシートがバサリと落ちた。
「いやいやお前は違うって!」
「ホント?」
「マジマジ! お前は別格!! 全然面倒じゃねぇ! 本当だっての!」
「そ。じゃ許してあげるっ」
「桃乃、お前ついさっきと全然態度違うじゃんか……」
数時間前とは違い、いつの間にか主従関係が完全に逆転していることに冬馬は戸惑いを隠せない様子だ。そんな幼馴染に対し、桃乃はニッコリと笑う。
「だってもうキレイさっぱり水に流してくれたんでしょ?」
「そうだけどさ、でも変わり身早すぎじゃね?」
「そう? あ、週末にケータイ買ったらすぐに番号教えるね」
途端に冬馬の表情がほころぶ。
「あぁ! 絶対に一番に教えろよ!?」
「うんっ」
「すげー楽しみだ! 早く週末になんねーかな!」
しかしなぜか冬馬は急に嬉々としていた表情を止め、鋭い目つきになる。
「……それとな桃乃」
「なに?」
「兄貴には電話番号もメアドも教えるんじゃねぇぞ?」
「えっどうして? それに私がケータイを持ったからって裄兄ィが番号を聞いてくるとは限らないじゃないの」
「いや、兄貴のことだからなんか適当にうまいことを言って聞いてくるに決まってる。いいか、聞かれても絶対に教えんなよ?」
「う、うん…」
冬馬の真剣さに気圧され、つい桃乃はおとなしく頷いてしまった。
桃乃が素直に聞き入れたことで冬馬は安心したようだ。そこへ先ほどとは別のウェイトレスが業務用の笑顔で「お待たせしました」と現れ、二人が注文した料理がテキパキと配膳される。
しかし目の前で湯気を上げている料理などそっちのけで、冬馬は再び桃乃の携帯について熱く語り始める。
「なぁ桃乃、週末っていつ買いに行くんだ? 土曜か? 日曜か?」
「ほら冬馬、料理来たよ?」
「色は何色にするんだ? やっぱ好きなオレンジか?」
「ねぇ、冷めちゃうよ?」
「機能は別にこだわり無いんだろ? なら防水タイプにしとけよ! 風呂場からでもメール出来るしさ!」
場は和やかだが、面白いほどに話がまったく噛みあってない。その事が何だかとてもおかしくて思わず笑ってしまった。
同時に胸の中が幸せで満たされていくのを感じる。
自分と連絡が取りやすくなることにここまで喜んでいるその姿が、今の桃乃にはとても愛しく映っていた。