彼と彼女の危険な遊戯 【 後編 】
それはいずれ自分の身に起こる事だと、もちろん漠然とは思っていた。
だがこんなに性急に、
しかも心の準備も一切させてもらえなく、
結局は半ば逃げようのない形で冬馬と初体験をするかもしれない状況に桃乃の気持ちは沈む。
じゃあ第一問だ、とゲーム開始を告げる声が聞こえる。
かすかな失望を胸に抱えていたせいで、冬馬のその宣言はとても冷酷に響いた。
耳を澄ませばお互いの呼吸の音が肌で感じられる。
それくらい静まり返った部屋で、冬馬が最初の問題を出した。
「ボイル-シャルルの法則の、気体の状態方程式を言え」
出された問題の内容に、桃乃は思わずベッドから立ち上がりかける。
「エッ! もしかしてクイズって物理なの!?」
「あぁ」
「ズッズルイよ冬馬! 私が物理一番苦手なの知ってるくせに!」
「嫌なら止めるか? それでもいいぜ?」
「だ、だって止めたら………」
「あ、言い忘れてたけど時間制限アリな。時間は五秒」
取り付く島などそこにはまったく無い。
大きな片手が空にスッと広がり、
「カウント始めるぞ。五、四、三…」
一秒カウントする毎に冬馬の長い指が一本ずつ折られてゆく。
「え、えっと……」
根本を理解しないで丸暗記で覚えた知識はそうそう簡単に身につかないものだ。
焦っているせいもあり、最初の一文字目すら浮かんでこない。
教科書に載っていたのを見たような気もするが、いつもテスト直前に公式を無理やり丸暗記している桃乃の記憶に、その方程式の痕跡など脳内のどこを探っても欠片すら見つけることは出来なかった。
「……時間切れだ。正解は PV=nRT 。ホラ、ボタン外せよ」
「わ、分かったってば!」
強気の口調で言い返し、一番上のボタンに手を伸ばす。
だが真下に見える自分の指先はかすかに震えていた。すぐ目の前にいる冬馬に気付かれないよう、精一杯、十の指先に力をこめる。
小さな衣擦れの音がして一つ目のボタンが外れた。
襟元が少し開いたくらいの変化しか起きなかったが、冬馬は意外そうに呟く。
「それ、してたのか」
シャツの隙間からシルバーのハートが二つ、ヒラヒラと儚げに揺れている。
「あっ当たり前じゃない! だって冬馬に貰った大切なものだもん! 私、あれからずっとしてるんだよ!?」
そんな桃乃の必死な様子に、冬馬は面映そうな表情で椅子ごと体の向きをわずかに逸らす。
「……じゃ第二問な」
「ま、また物理なの!?」
「熱の伝わり方は大きく分けて三種類あるよな? それを全部言え」
今回もまったく分からない。
「ズルイよ……」
打ちひしがれた声が室内を漂ったが、冬馬は素知らぬ顔で指を折り続ける。
「また時間切れだ。正解は熱伝導、対流、輻射だ。ボタン二つ目だな」
おとなしくまたボタンを外すと、今度は細い鎖骨が奥まではっきりと見えるようになった。
室内に差し込む紅の色が最後の鮮やかさを増す中、一問進む度に次の出題までの間隔は少しずつ伸びていく。
「……第三問。映画館の中で映写機とスクリーンの光束を見ると、細かい塵が無数に輝いているだろ? その現象をなんて言う?」
「冬馬、せめて三択とか、イエス、ノーとかにしてくれない?」
桃乃はそう頼んだが冬馬は聞こえない振りをして指を折り続ける。
たった五本の指がすべて折れ曲がる時間などあっという間だ。
「時間切れ。正解はチンダル現象だ」
桃乃は三つ目のボタンに手をかけるのをためらった。なかなかボタンを外さないその様子に冬馬が静かに呟く。
「……もう止めるか……?」
弱者を哀れむようなその言い方に、少女のプライドが小さく傷ついた。
「やっ、止めないっ!」
と強く叫び、急いで首を横に振る。
勇気を振り絞って三つ目のボタンを外すとすぐに今開いた部分を手で押さえた。しかしほんのわずかな一瞬だったが、冬馬の目にはそれがしっかりと映ったようだ。
「へぇ、ブラもピンクなんだな」
冬馬が言った何気ない一言に顔が真っ赤に染まる。
「みっ、見えたの!?」
「……手、そのまま押さえてていいぜ。じゃ第四問」
しかし冬馬はここで一旦出題を止めて手で口を覆い、次に出す問題を考えているようだった。
「……第四問。チョークを使って黒板に文字を書く時、キィッと嫌な音が鳴る時があるだろ? あの現象をなんて言う?」
段々問題の内容がおかしな方向に行きだしている。
「ねっ、ねぇ冬馬、さっきの映画館のもそうだけど、そのチョークのクイズも教科書にちゃんと出ている?」
即座に返ってきたのは「さぁな」と素っ気無い返事。
「たぶん出てないんじゃないか? 映写機やチョークの話は授業の後に関沢先生に質問に行った時に、先生が話していた雑談の一部だからな。あの先生は物理マニアだからさ、熱くなってくると話の論点がしょっちゅうあちこちにずれていくんだよ。聞いていると結構面白いぜ?」
「ズルイよ冬馬……」
「そうか?」
冬馬は涼しい顔で桃乃の非難を軽くかわし、無情にもまた五秒が経過した。
「……五秒経ったな。正解は自励振動だ」
今度はボタンを外せと急かす声はなかった。
しかし室内の重い沈黙に耐えかねた桃乃は四つ目のボタンもそっと外す。
外した後、またすぐにシャツの前を握り締めたが、もう両手をもってしても完全に肌を覆い隠すことは出来なかった。出来立てのマシュマロのような柔肌も、そして白い胸の谷間も、両手の隙間から冬馬に向けてその存在をしっかりと誇示し始めている。
身体が熱い。
体内の熱を上げるだけだと分かっているのに、いたたまれなさで何度も身じろぎを繰り返す。
それはボタンが一つ、また一つと外れ、肌の露出が大きく広がるにつれて、冬馬が桃乃の身体を無言で眺める時間が長くなっているせいだ。
沈黙の視線を浴び続け、心臓の鼓動は目の前の冬馬に聞こえているのではないのかと思うくらいに激しく高鳴り続けていた。
まるで視線のみで犯されているようで、自分の身体すべてがうっすらと桃色に染まってゆくような気さえする。こんな際どい格好をしている自分が冬馬の目にどう映っているのだろうと考えるだけで、また頬の赤みが意思に背いて勝手に増した。
「と、冬馬……、つ、次のクイズは……?」
恥ずかしさで呼吸をするのすらままならない。
小さく身をよじらせながら桃乃は次の問題を促した。
それを受け、桃乃を眺めていた冬馬がようやく次の質問を出す。
「……第五問。自転車のタイヤに空気を入れる時、空気入れが熱くなるのはどうしてだ? じゃあ特別に選択問題にしてやるよ。次から選びな。 一、比熱。二、摩擦。三、遷移。四、熱容量。 五、等温膨張。六、断熱圧縮。さぁどれだ?」
「六つもあるの……?」
桃乃はガッカリした声を出す。
「じゃ……二番?」
「摩擦か? 外れ。正解は六番の断熱圧縮だ」
桃乃はシャツの前を掴みながら動揺する。
( あと ひとつ間違えたら私…… )
しかし後には引けない。引くことは出来ない。
「ほら最後のクイズいくぞ。早くボタン外せよ」
再び急かされ、半分放心状態で五つ目のボタンを外した。
上半身の前部分はもうほとんど露になってしまっている。
「じゃいくぜ、第六問な」
冬馬は前髪の隙間から桃乃の顔をじっと見つめた。
これから冬馬にどうされてしまうのだろうと思いながら、桃乃はシャツの前を強く強く握り締める。
「……自転車のタイヤに空気を入れる時、空気入れが熱くなるのはどうしてだ? 一、摩擦。 二、断熱圧縮。どっちだ?」
「えっ……!?」
その最後の問題を聞いた桃乃は驚いて目を見開いた。
「と、冬馬、今のクイズって、一つ前のと同じじゃ……」
「いいから早く答えろ。五秒以内だぜ」
冬馬は片手を広げ最後のカウントダウンを始める。
そして桃乃はこの時、すべてを悟った。
( 冬馬、最後の判断は私に任せるつもりなんだ……! )
桃乃はシャツの前を掴みながら動揺する。
もしここで、二番、と正解を言えば、たぶん冬馬は「チェッ惜しかったな。あと一つだったのによ」と悔しがる真似をするに違いなかった。
( さっき、その後のことは保証しないなんて言ってたくせに、きっと冬馬は最初からこうするつもりだったんだ…… )
その事実に気付いた時、シャツを握り締める手から完全に力が抜けた。
そのせいで白い谷間が再び大きく顔を覗かせる。
── とっくに五秒は経過した。
なのに冬馬はボタンを外せとは急かさない。
指は三本折り曲げられた所で止まっていた。再び動き出す気配も無い。
「おい、早くしないと時間切れになっちまうぜ?」
ガードを解いて無防備な姿になった桃乃から冬馬は視線を逸らしている。
「さっさと答えろ」
その最後の催促はとてもぶっきらぼうに、荒々しく言い放たれた。
聞きようによってはとても不機嫌な声。
だがそれにもかかわらず、今の桃乃の鼓膜に、その声はどこまでもどこまでも優しく響いてきていた。