こぼれたミルクと残った希望
閉ざされたドアの向こう側に冬馬は消えた。
うつむいたせいで頬を流れていた涙がカーペットの上に落ち、小さな染みを作る。
あの女の人の言葉を鵜呑みにしなければ──
一方的に冬馬を責めなければ──
沙羅のアドバイス通りに男子校舎へ行っていれば──
後ろ向きな思考は黒い螺旋を描きながら迷走を始めた。
色んな後悔ばかりが次々に浮かび上がり、身体の中を徐々に蝕んでゆく。
だが巻き戻せない時間をいくら嘆いても状況は好転しない。
それは誰よりも自分自身が一番よく分かっていた。
だから。
目に涙をためながらも桃乃は顔を上げた。
自分の不注意で銀のトレイにこぼしてしまったミルク。
再びガラスのビンに元通りに収めることは確かに出来ないかもしれない。
だが、これでビンの中にあったすべてのミルクをこぼしてしまったのでは無いはずだ。
手にしたビンの中にまだミルクは残っている。きっと希望は残っている。
そう信じたかったから────。
「待って冬馬っ!」
体ごとぶつかるようにドアを開け、気付けば部屋を飛び出していた。
視界の先に立ち去ろうとしている冬馬の後姿が見える。
「待って!」
廊下を走り、その背に強く抱きついた。
背中に大きな衝撃を受けた冬馬は一度足を止めたが、「離せよ」と冷たい声でまた桃乃を突き放す。だが諦める気は無かった。
とめどなく涙が溢れてくるのを感じながらも、冬馬の腹部に手を回し、振りほどかれないようにしっかりとしがみつく。希望はまだ絶対に残っていると信じて。
「ごめんね冬馬! でも聞いて!」
「離せって」
「冬馬! お願い聞いてっ!」
「お前だって俺の話聞かなかったろ」
「それは謝る! でも冬馬、間違ってることがあるよ!」
「俺の何が間違ってるんだよ」
冷たい態度のままの冬馬にショックを受けながらも、桃乃は必死で自分の想いを口にする。
「冬馬、間違ってる! 私、裄兄ィの言う事だから聞いたんじゃない! 冬馬の言葉だから聞けなかったの!」
その言葉に冬馬の体がピクリと小さく反応した。
「私ね、あの時嫉妬してたの! だって冬馬の手帳を届けにきた女の人、すごく綺麗な人だったんだもん! それで私、その人に嫉妬してて冬馬の言葉を素直に聞けなかったの! 冬馬のことを信じられなかったの!」
「…………」
冬馬は黙ったままで右肩越しに小さく後ろを振り向き、自分の背中にピッタリとしがみついている桃乃の泣き顔を見下ろした。
「それに前も言ったよね? 裄兄ィの事を好きだったのはずっと昔のことだもん! 私が今一番好きなのは冬馬なんだから! ね、お願い信じて!」
その言葉を聞いた冬馬は完全に黙り込んだ。
桃乃は沈黙する背中にすがりついたまま、泣き続ける。
数分の間その体勢で密着していた二人だったが、やがて冬馬が諦めたような口調で呟いた。
「……女はいいよな……そうやって泣けばいいんだからさ……」
冬馬はやり切れないようにそう呟くと、自分の体に巻きつけられている華奢な手を外そうとした。
「やだっ! 行かないで!」
離れたくない桃乃はますます自分の腕に力を入れて、冬馬にしがみつく。
ふぅ、と小さく吐息が漏れる音がした。
桃乃を落ち着かせるため、冬馬は自分の体に巻きつけられた手を上から覆うようにつかむ。そして静かな声で言った。
「……もう行かねーよ」
「本当!?」
「あぁ。……ちょっと来い」
冬馬はそのまま桃乃の手を引き、自室へと戻る。
そして桃乃を自分のベッドの上に座らせると、収納ボックスの上にあったティッシュペーパーを箱ごと差し出した。
「ほら、顔拭け」
「うん……」
桃乃が涙を拭いている間、冬馬はスラックスのポケットに手を突っ込み、黙ってその光景を見下ろしていた。
そしてようやく桃乃の涙が止まったのを確認すると、机の椅子を乱暴に引き寄せ、逆向きに跨って座る。
「……落ち着いたか?」
桃乃はコクンと首を縦に振る。
すると冬馬は曇った表情でポツポツと語りだした。
「……今回何がショックだったってさ、お前が俺の話をまったく聞こうとしなかったことだけじゃなく、桃乃が俺のことを全然信用してなかったってことだよ」
「ごめんね……」
桃乃はそっと俯くとクスン、とすすり上げた。
「俺もう何回もバカみてぇに言ってるじゃん? 俺はお前のことしか見ていないってさ。だからそんな合コンなんかに行くわけもないし、綺麗とか綺麗じゃないとか関係なく、他の女なんかマジで目に入ってこないんだ。何度も言ってんのにさ、お前結局、俺の言う事を全然信じてなかったってことだよな」
「……ごめんなさい……」
桃乃はもう一度小さな声でしおらしく謝った。
それを聞いた冬馬はまた長々と大きくため息をつく。そしてしばらくの間、椅子の背の上に肘を置いて頬杖をつきながらユラユラと体を揺らしていた。
「冬馬ごめんね……。何でもするから許してくれる?」
重苦しい沈黙に耐えかねた桃乃がその言葉を口にした時、室内の空気が変わった。かすかに揺れていた冬馬の体がピタリと止まる。
「ふぅん……何でもする、か……」
背もたれの部分に寄り掛かり、邪魔そうに前髪を掻きあげた冬馬は疑わしそうな視線で桃乃を見る。
「本当に何でもするんだな?」
「うん。私にできることだったら……」
「分かった。じゃこれから俺とゲームしようぜ」
「ゲーム? なんのゲームなの?」
「それはこれから説明する。桃乃が勝てば今回の事はキッパリ水に流して忘れてやるよ」
「ホント!?」
「あぁ。でも、もしお前が負けたら……」
冬馬はわざと意味深な調子で一度言葉を切る。
「負けたら許してくれないの……?」
「……いや」
「じゃあもし負けたら?」
「お前が負けたら」
何事にも臆さない、その両目に宿る強い光に桃乃の全身は捉えられる。
「その時は俺の命令に従ってもらう。先に言っとくが、負けた後での拒否は一切認めないからな。どうだ、それでもゲームをやるか?」
「え……?」
強い視線に捉えられ、言葉が出ない。秒を追う毎に鼓動は早まり、その振動が体内の中心を熱く揺らす。
「どうするんだ?」
冬馬が再び訊ねる。
── それは遥か前に一度見たことがあった。
真正面から見つめられ、桃乃は小さく息を呑む。
もう視線を逸らすことなど出来ない。今、自分に向けられているその真剣な視線に桃乃は魅入っていた。
それは十歳の時に初めて冬馬から好きだと告白された時に受けた、あの時の眼差しとまったく同じものだったから。